今日の投稿は物議を醸すかもしれないが

自ら死ぬことについて、思うことを恐れず書きます。

 

平安の末期から「自決」いわゆる「切腹」という

「死に方」が誕生した日本は

古来から長きにわたり、

「はらきり」が行われている。

 

“自らの死をもって果たす”


「はらきり」でなくとも、

自ら死を遂げる死に方を選ぶ人たちはいた。


近世になると処刑の形で「はらきり」の死に方を

強要されたりしてきた時代もある。

 

きちんとした切腹の作法書まである日本は

世界でも稀なことらしい。

 

さらに、女性は嫁入り道具の一つとして

婚礼の際に『長刀』や『短刀』が贈られていたり

花嫁衣裳の打掛に懐剣を帯にさす風習があった。


もちろんお守りや護身用の意味もあるが

 もしもの時や、恥をかくくらいなら

「自分で自分の身を守る」という意味も

込められていたのも事実だ。


さて、私の魂の記憶には、「自決」の履歴がある。

本当かどうかはさておき私は鮮明に覚えているのだ。

その内容はここでは脇に置いといて、、

 

ここで思う。

「自決」は、悪いことなのか?

「自殺」は、悪いことなのか?

「自殺人」は、弱い人間なのか?

 生を無駄にしたのか?
 選択したのは間違いだったのか?

 

今日の話しはもしかしたら

当時者に関わる人には失礼な投稿かもしれない、。

ましてや、自殺を推奨している投稿でもない。

誤解をしないでほしい。

 

そもそも、私もかつて15歳の時に

自殺を図った人間だ。

 

その前にも死んでやろうと思って

何度も試したことがあったが

15歳の時は本当に屋上からダイブするため

勢いよく柵を超え身を乗り出した。

 

しかし、まさか右足が柵にひっかかり、

バランスを崩し思わず柵をつかんでしまい

その手を放すことができなくなって、

なさけなくも失敗してしまったのだ。

 

あらためて「死ぬ」には

勇気が必要であることに気づいてしまい

いざ再びダイブしようとしたら

足がすくんでしまい、勇気がなくなったのだ。

仕方なく生きることにしたのだ。


この時、自ら死んでゆくことを決め

命を終わらせる人に敬意を抱いたのである。

 

『あの時に死んでしまえばよかったのに』

その後の人生で苦しさに逢うたびに何度か思ったが

もうあの一途な思いと勇気を持つまでには

いまだ至っていない。

 

しかし、15歳のあの時に、自殺を決めた自分を

私は後悔などしていない。

 

いまになってみれば、

失敗して情けなくも死に損なったことも

後悔していない。

 

いまを生きていることも

後悔していない。

 


私の父は54歳で病に倒れ半身不随となり

寝たきり生活となり8年に渡り入院した。


あらゆる後遺症があるなか奇蹟的が何度も起き

記憶も取り戻し、わずかだが手も動き

口も動くようになったがを過ぎた時、

 

自分のその後の人生を考えて

寝たきりのまま「生きる生」に疑問を持ち

彼は食事をとることを辞めた。

 

病院に呼び出され、5時間かかる病院先に到着すると

「食事をとるように説得してくれ」と言われたが

父の決意は固く、首を横に振るだけだった。

 

「お父さん、もう食べないということは、

 覚悟を決めたという事なの?どうなるかわかるよね?」

 

うなづく父。

 

まだ昼間だというのに、部屋のカーテンをしめ、

明かりもつけず真っ暗にして過ごしている。
 

カーテンを開けると「閉めてくれ」という。

 

もともと140キロぐらいあった父は

長い入院生活で50キロ位になっていた。

 

それから1か月、色々なことが重なり、

父は転院することになった。

 

それまでは手厚い看護を受けれる病院の個人部屋から

清潔さからは離れたタコ部屋の療養型特別養護施設に

移された父は、待ってましたと言わんばかりに

感染症をおこし、衰弱したカラダは免疫力もなく

熱を出したり肺炎を起こした。


ここでは手のつけようがないと言われ

そこからも移転を勧められ

ただ死ぬのを待つのみの病院へと送られた。

 

意識のある父は

「家族に会いたい、こどもに会いたい」と言い

私は兄に連絡をして、三人の子供達は集まった。


みなで記念に写真撮影をした。

崩壊した家族だったが

22年ぶりに家族が集まった。

 

父を憎み許せなかった兄たち2人も

後を引き継いだ会社経営に忙しく

それまでの入院生活中は

見舞いに来ることも少なかったが

このときばかりは急いで父に逢いに来た。

 

転院してさらに10キロやせた父。

変わり果てた父を見て驚いていた。


これまでの失った時間をとりもどすかのように

すぐ上の兄は父に逢いにきた。

 

ぎくしゃくしていた父子の関係だった2人。

もう何も口にすることができなくなっていた父なのに

父の大好きな山梨に出かけお土産に飴があると言うと

 

その飴玉をなめて

「うまい、うまい。おかわりおかわり」とせがみ

また飴をなめたという。

 

父は飴玉が欲しかったわけではない。

兄の記憶に一つでも心にしみる思い出を刻んだのだ。

 

泣きながら手を震わせながら包み紙をめくり

飴をせがむ父の口にやさしく入れると

「うまい、うまい」と父は言う。


最高のご馳走を父は手にしたのだ。

その日はその兄の誕生日だった。

 

その兄が再び孫を連れて行くと連絡があった。

七五三を迎えた子供に「祝ってあげたい」のに

何もない。その気持ちを別れた妻である私の母が察し

気持ちばかりのお金をいれ父に渡しご祝儀を用意して

兄を待った。


到着すると、「お祝いだよ」と、

その袋を持つ手も震えながらも、兄に手渡そうと

腕を伸ばした。


この時ばかりは、兄も号泣して受け取った。

「愛されていない」と思っていた。

「俺のことや俺たちの家族のことなんて考えてない」そう思っていた兄の40年の誤解が解け

こんな姿になっても父親であろうとする姿を見て

兄は相当応えたらしい。


それなのに自分は父と距離を持ち

会いに来ることを忙しいと言う口実で避けてきた。


私が16の時、家庭は崩壊し一家離散となった家族。

再びこうして集結して父の末期の状態を前にして、

すべてのわだかまりを解決して

家族を思っていたという真実に

兄が出逢うことができたのも

 

父がやり残したしことを

今生で結ぶことができたのも

父自身が「自決」することを決め、

死にむかったからなのである。

 

もう一人の兄も、一人父の病室に来ては

無言で父の傍で何時間も過ごし

父への思いを馳せていた。

 

父が食べないと決めたこと告げられた時に

実は長男を心配をしていた。

 

その数日後、兄は脳幹で脳梗塞を起こし倒れた。

夜ご飯時に倒れ12時間も経った後に

出勤した弟に発見された。


誰もがあきらめたが奇蹟的に命は助かり

驚異な回復を遂げたのだ。

偶然かもしれないがきっと父が助けてくれたのだと

今でも私は信じている。

 

この兄も父に対してわだかまりがあったのだが

父の末期を傍で過ごすことで自身を省り見る時となった。

 

私は、色々とこの複雑だった家族の橋渡しをしてきた。

そして最後、父の自決さえも、

私は認めたのである。

 


毎日のように静岡の伊東から、

東京文京区の病院に通った。

遺言ともいえる言葉を託されていったのも

この時だ。


兄弟仲良く。家族仲良く。

そしてよく働けと私に言い遺してた父。


旅立っていくまでの時間で父が

不思議な現象をたくさん見せてくれた。

そして死ぬまでの看取り方も教えてくれたのだ。



ある日、4人の子供を連れて逢いにいくと

「水が欲しい」

 

水をせがまれたとき、『これが末期の水』

『最後かもしれないから飲ましてあげよう』と

看護師に隠れて、ペットポドルのキャップに注いだ

わずかな水を飲ませてあげると

 

「うん、これで大丈夫だ」

とひとこと言い放った。

 

その日を境に、昏睡したり目を覚ましたりの状態を

いったりきたりしながらそれから2週間後に旅立った。

 

父が食べないと決め、そのうちに何も食べれない

体の状態になってゆき、3か月で彼は旅立った。

 

その49日は、なんと父自身の誕生日だった。

 

家にいることのなかった父だし

私以外みな父を憎んでいたので

家族で祝ったこともない父の誕生日に、

本当は子どもたちが好きだったけど

それが上手く伝えられなかった伝わらなかった父。

 

家さえ用意したら理想の家族が勝手にできると

信じていた父。 


心にトラウマを抱えて奴隷以下のような

幼少期を過ごしてきた実母に

十分なお世話も手間暇もかけられず、

語りかけられることも少なく

愛情というものを受けて育ってこなかった父は、

伝え下手だった。関わり下手だった。

 

最後は

「家族に会いたい。なんで家族がだめになったんだ。家族が一番だ」

そう言って子どもたちに会いたがって呼び寄せた父。


 

自分の49日に家族がそろうように逝くなんて
誰ができるのだろうか?

 

自分の誕生日、死して63歳を迎えた父は

大好きな子供達3人兄弟が私の家に集まり

それを最高の誕生祝いと喜んで

見守っていたに違いない。

 

父は、自分で死を選択した。

「はらきり」ではないけれど、

「食べない」という事で死を選んだ。


自ら終わりにした。

ある意味、「自殺」だ。

 

それを選んだ父を私は間違っていたとは思わないし

その選択によって「家族の再生」に力を使った父を誇りにさえ思う。

 

無駄死にでもない。

ましてや父の生が無駄だったとは思わない。


父は自らの生を、自らの死をもってして結び、

果たしただのである。

 

8月。

私にとっては色々と感慨深い月なのだ。

 

死を決めたことのある自分だからこそ

父の決めた「死」を受け入れることができたし

 

だからこそ、父が無言で覚悟を決めた姿を

私に伝えたことに意味があると思うし

3か月後に旅立つまでの様々な橋渡しをすることができたのだと思う。

 

いろんな意見があるだろう、、。

 

自ら考えて死を選択したその命も

「自殺」という呼び名ではない総称で

呼んでもらいたいと思うこともある。

 

産まれ方がどんなであれ

死に方がどんなであれ

 

私は

産まれることも死ぬことも

自分で決めてきていると考えている。

 

産まれることはあちらの世界の死であり、

それは寿命。

死ぬことはこちらの世界の死であり、

それは寿命。

 

批判や中傷ではなく、まずはその生きた生を称え

ねぎらいをかけてもらいたい。

 

少なくとも私は、

もしも私が自ら「死」を選択した時は

そっとしておいてほしいと思う。
 

それはともかく

お迎えが来るその日までか

自分で決めたその日までかわからないが
自分のいのちがおわるときまで

しっかりと生きたいと思う今日だった。
 

生前の父に

「親に生んでもらった恩を忘れるな」

「世話になった人の恩を忘れるな」

「よく働け」

と言われたことを思い出し

 

長い5か月の有給休暇もそろそろ終えて

動き出そうと思った今日だった。