なんとも言えない緊張感に包まれながら、目の前のカップに手を伸ばす。
俊太郎さんがさっきから何も言わずに黙ってこちらを見ているから、気恥ずかしい気持ちでいっぱいになってしまう。
(・・・何か言わないと気まずいな・・・)
そんな気がして私は口を開いた。
「東京の暮らしにはもう慣れましたか?」
言ってしまってから何とも陳腐な質問だと後悔したが、俊太郎さんは気分を害す事もなく笑顔で答えてくれる。
「へえ、そうどすな・・・駅も町も京都と比べて人がぎょうさんおりますから、そこがまだ慣れまへんねえ」
「そうですか・・・京都には修学旅行で一度行っただけなんですが・・・素敵なところですよね」
「夏は暑うてかなん言う人もおりますけど、わてはあの蒸し暑さも風情がある思います」
心地よい声で語る俊太郎さんの穏やかな表情にしばし見惚れたまま頷く。
「京都以外に住むつもりなんておまへんでしたし、慶喜はんに引き抜きの話をもろて・・・最初は断るつもりやったんどすけど」
「そうなんですか?」
やがて話は意外な方向へ展開していく。
「せやけど、こっちに来る必要が出て来てしもたから」
俊太郎さんは膝の上で大人しく座っているミルクの背中を愛しそうに撫でながら言った。
「何かあったんですか・・・?」
尋ねると、俊太郎さんがふっと意味ありげな頬笑みを浮かべたから、私は聞いてはいけない質問だったのかと思い、焦って撤回する。
「詮索するような事聞いてしまって、ごめんなさい・・・」
すると、微笑は次第にくすくすと声を出した笑いへと変わって行き、俊太郎さんはミルクをそっと抱えて私の隣へと移動して来た。
「偶然が必然を生んで、その必然がまた偶然を生んだんや」
「・・・えっ?」
彼が何を言っているのか理解できなかった。
私は唖然とした顔で横に座る俊太郎さんを見つめる。
凛として綺麗な顔だち。
ずっと視線を合わせていると、その深い瞳の奥に吸いこまれそうになる気がしてしまう。
二人の間に落ちた沈黙を、彼の言葉が破った。
「あんさんに初めて会うたあの日、あれが最初の偶然や」
目を逸らせないでいる私の頬を、俊太郎さんの大きな掌が包む。
「そしてわては京都を離れてこっちに来る事を決めた、これが必然」
彼の体温に包まれたままの頬がゆっくりと引き寄せられていく。
「そして店で再び会うた・・・必然によって生まれた2度目の偶然」
俊太郎さんの息が私の唇にかかるほど近くなった・・・。
一瞬だけ伏せた目をまたこちらに向けて
「わては今、このかいらし唇に触れとうて仕方ありまへんのや・・・」
頬に添えた右手を離し、感触を確かめるみたいに親指で私の下唇を何度もなぞる。
まるで夢でも見ているのだろうか?
身体中の血液が沸騰したように全身が熱くなる。
恥ずかしい気持ちと同時に信じられない気持が込み上げて来る。
それでもこの状況は決して嫌なものではなかった。
むしろ、心の底で望んでいたものだった。
だから、微動だにしない私を捉えたまま俊太郎さんが色気を孕んだ声と表情で言った台詞に、ぞわりと肌を粟立たせ、心臓を跳ねあがらせた。
「・・・この柔らかい唇の味も、確かめてみとうなった・・・」
囁くように声を潜めてから、私の顎を指先で掬い上げた。
何も思いつく間もなく、俊太郎さんの唇が重なる。
さっき彼が食べたイチゴのデザートの甘酸っぱい味がした。
「甘い・・・心が蕩けてしまいそうや・・・」
角度を変えて、唇を少しだけずらして俊太郎さんが呟く声に脳が芯から痺れてゆく。
俊太郎さんの言葉で、私もさっき同じものを食べていた事を思い出して、口づけによって熱くなった顔が更に熱を増す。
「もっと、もっと・・・あんさんの味を、堪能させとくれやす」
危険すら感じる笑みで囁いて、また私の唇を塞ぐ。
理性を奪い去られてしまうような官能的な口づけを受けて、全身の力が抜けてゆく。
そして何時間にも感じるほど、時が止まってしまったかのような錯覚さえ起こす。
息をつく事も許されないほど隙間なく唇を重ね、深くじっくりと私を味わうみたいに舌を絡める。
唇を重ねたまま俊太郎さんがほほ笑んだ気がしたけれど、そんな考えもすぐに忘れてしまい、ぐるぐると回って思考が定まらない頭のまま、気がつけば私から彼の首元へ両腕を伸ばしていた。
俊太郎さんが時折、喉をんっと鳴らすのさえも煽情的で、伏せた目元の長い睫毛が私の頬を軽くくすぐる。
いきなりふわっと身体が浮いたと思ったら、どうやら私は俊太郎さんに横抱きに抱え上げられているようだった。
いわゆる「お姫様だっこ」の状態で、それでも口づけをしたまま、私はどこかへと移動させられていた。
ゆっくりと身体が下降してゆく気配を感じると、柔らかい場所へと下ろされ、薄く目を開けるとそこは、俊太郎さんの寝室のベッドの上だと分かった。
唇から熱が離れてゆき、目をはっきりと開くと
「もともと堪え性のないわてや、もうこれ以上待つ事なんて、できしません・・・」
俊太郎さんが恥ずかしそうに言った言葉をまた理解できないでいる私に
「・・・わかりまへんか?」
少し寂しそうな顔をした俊太郎さんに尋ねられ、はいと小さく答えて見返すと、ふふっと笑って続ける。
「ミルクがな、あの日に・・・」
私達が初めて出逢った1年前のあの日、着替えをさせてもらった時に学生証などを入れたカードケースを失くさなかった?と俊太郎さんが言う。
「あっ、そういえば」
翌々日に警察から大学へ連絡があり、最寄の警察署へ受け取りに行ったのを思い出した。
しかしその時は、てっきりマンションの前で転んだ際に落としてしまったのだと思い込んでいたし、何より届けた人からも落とし物だと聞いていると警察の人も言っていた。
「実は、ミルクがあんさんのバッグから咥えて出してもうたんや」
依然、私に体重をかけない状態で覆いかぶさった俊太郎さんが視線を床の方へ向ける。
「ニャ・・・」
どうやらその視線の先にはミルクが居るらしかった。
「帰ってから気づいたんやけど、連絡先もなんもあん時は交換せんでしたやろ?」
確かにそうだった。
結果的に私はその事を悔む事になった訳だけれど。
「えらい警戒されてたようやし、わてもかっこつけて、こっちから色々聞くのも悪い思てねえ」
説明をしつつ、俊太郎さんの指先が軽やかに首すじに触れる。
ぞくっとして私が実を竦めると、彼は満足げに口端を上げた。
「せやけど、それが間違いやった・・・あれから、ずうっとあんさんの事が忘れられんでね」
大切なものを見るような優しい目で見つめられ、頬どころか身体全体が熱を帯び始める。
指先は、首筋から徐々に耳元へと移動する。
声を上げてしまいそうになるのを我慢して、黙って俊太郎さんの話を続きを聞く。
「やから、慶喜はんのお店に来るんを承諾したんや」
それから俊太郎さんが呟く様に話を続けていたけれど、指先で耳元を翻弄されて、声を漏らさぬ様必死だった私の頭の中には彼の言葉はほとんど届いていなかった。
「なあ・・・」
私の耳元に寄せた口から、俊太郎さんが呼びかけた声で息がかかり、それまで我慢していたものがガラガラと崩れてゆく。
涙目になりながら、答える替わりに彼を見上げて頷くと
「わての1年越しの願い、叶えとくれやす」
耳たぶを甘噛みされて、ついにあっと声を漏らしてしまった。
「その甘くかいらし声、もっと、もっと聞かせて・・・」
首筋と耳に交互に唇を落とされて、身体中が蕩け始める。
「しゅ、んたろう、さん・・・」
私は精一杯の勇気を振り絞って彼の名前を呼び、恐る恐る背中に腕を回した。
≪俊太郎編6へ続く・・・≫