※ ※ ※
ポカッ、と。
まるで世界に放り出されるような感じで、あたしは目を覚ました。
世界はまだ灰色で、精緻な模様の入った美しい(のだと思う)部屋も、白黒灰の濃淡で出来ている。
あたしは大きく瞬きをし、その拍子に目から零れた涙を感じた。
(…………)
あたしは自分の顔に手を触れる。掌にはちゃんと頬の感触がした。
無意識に左手が胸元を探り、小さな革袋を握りしめる。
なぜだか懐かしく思える革袋の感触。中にある、円に似た不思議な形の『何か』。
「…… ……」
あたしは唇を開いた。
声は出ず、変な呼吸音がヒュー、コー、と虚しく響く。
(……レメク)
革袋を握りしめて、あたしは涙を拭った。
世界が灰色でも、声が出なくても、
レメクが傍に、いなくても……
(……レメクに)
あの人に恥じない自分に。
ただそれだけで、体の中に何かが染み渡る。それが何なのか、あたしにはよくわからない。
けれどとても強くて、きっととても大切なものなのだ。
「……!」
パチンと頬を叩いてあたしは立ち上がった。
妙に体がふらふらするが、根性を出せばそんなの平気だ。お腹がグーとか叫びだしたが、食欲があるのはいいことじゃないか。
あたしはヘロヘロとベットの上を歩き、綺麗なレースの帳を開いて床に降りた。
(……にょ!?)
もひょっ、と足の裏を包み込む、ものすごい贅沢な感触。レメクの寝室の絨毯と同じぐらい豪華な感触に棒立ちになっていると、コンコンコン、と控えめなノックの音が聞こえた。
「…… ……」
とっさにハイと答え、声が出なかったことを思い出す。
けれど、返事が無くてもその扉は開いた。
「……失礼いたします、姫様」
どこかしょんぼりとした声で入ってきたのは、どこかで見た年配のおばちゃんだった。
どこか……どこかで……
(……ああ!)
ピンときた。
確か、殿下方……王女様達の乳母だったという人だ!
「ご朝食を……」
悄然と部屋に入ってきたその人は、あたしを目にとめて棒立ちになる。
後ろからワゴンを押しながらやって来たメイドさん達も、同じように目を見開いて立ちつくした。
……何故?
「……姫様……姫様!!」
おばちゃまが悲鳴に似た声を上げ、大急ぎであたしの元に駆けつけてきた。その目にはいっぱいの涙が溢れている!
「ああ……姫様! 姫様……よく……よく、お戻りに……!!」
……お戻りに??
あたしは首を傾げる。
(あたし、どこかにイッテタの?)
首を傾げるあたしのお腹から、ぐー、と悲しげな悲鳴が放たれる。
あたしのちっちゃな手を握りしめたおばちゃまは、あたしのお腹を見て、涙をこぼしながら大きく破顔した。
「ええ……ええ! 食欲もおありのようで……!」
ええ……ありますとも。なんか自覚したら、ものすごーくお腹がすいているのです。
何故?
夜会であれだけいっぱい食べたのに、やっぱりあたしのお腹はオカシイのかもしれない。
お腹を両手でギューと押さえるあたしに、おばちゃまは上品に涙を拭きながらすっくと立ち上がった。
「陛下と料理長に連絡を。姫様は三日ぶりにお目覚めになられたと──お急ぎなさい!」
おばちゃまの声に、呆然と立っていたメイドが二名、大慌てで走り去る。
あたしはぼんやりとそれを見送り、ピンと背筋を伸ばして立っているおばちゃまを見上げた。
(……三日ぶり……?)
お目覚めになった?
(……まさか……)
まさか、あたし、三日間、眠りっぱなしだったトカ……!?
「姫様。……ああ、姫様……本当に、よくお目覚めくださいました。私は、よもやこのまま、あなた様を失ってしまうのかと……!」
呆然と立っているあたしの前に膝をつき、おばちゃまはまたさめざめと涙を零す。
確か女官長だとかいう偉い人だったはずなのだが、この尋常でなく親身な態度は、いったいどういうことだろうか?
「先程、陛下がお知らせくださいました。ロードが言うところによれば、レ……いえ、クラウドール様のお体は、近日中に癒えるとのことでございます。わたく
しはそれをお知らせしようと……思っておりましたのに……ああ、これも、きっと神様の思し召しなのでございますね。きっと姫様には、レンド……いえ、クラ
ウドール様のことがおわかりだったのですね。いえ、きっときっと、あの方が、姫様を目覚めさせてくださったのでしょうね」
感激の涙を零すおばちゃまに、あたしは眉を垂れさせた。
違うのだ。あたしが起きれたのは、レメクというより、ポテトさんのおかげなのだ。
……いや、でも、レメクに恥じないために、っていう気持ちで起きたのなら、それは確かにレメクのおかげということに……
なるのかな? ……うぬぬ?
首を傾げるあたしにかまわず、おばちゃまは感激の涙を零し続ける。
「でも、ようございました。あの方の大事な姫様に万一があっては、わたくしはもう二度と太陽を拝めません」
(……そんな、大げさな……)
あたしは困ってしまって、涙を零すおばちゃまの涙をちっこい手で拭いてあげた。おばちゃまはビックリした顔になって、それからいっそう顔をくしゃくしゃにする。
「……姫様……!」
あああ何故ですか何故もっと泣いちゃうんですかー……!
わからなくて、どうしていいのかもサッパリで、あたしはおばちゃまの体をギュッと抱きしめた。
あたしが泣いている時に、レメクがいつもそうやって抱きしめてくれたように。
おばちゃまは嗚咽をこぼしながら、あたしを優しく抱きしめ返してくれる。その体はとても温かくて柔らかく、おかあさんのようないい匂いがした。
(……暖かい)
何故だろう。その温もりがとても懐かしい。
きっと今まで、そんなことすらわからなくなっていたからだろう。
あたしの世界はレメクが全てだけれど、あたしの世界はそれ以外のもあちこちに繋がっていたのだ。その中ではおばちゃまのように、泣いてくれるほど心配してくれる人が存在したのだ。
──ちゃんと目を開けて、周りを見なさい。
ポテトさんの声を思い出す。
(……うん。お義父さま)
あたし、これからは周りをちゃんと見るね。
世界はあたしとレメクだけで成っているわけじゃない。沢山の人がそこにいて、確実にその人達とあたし達は繋がっているのだ。
自分を見失っていても、何もならない。
心が死んでいては、心の声はレメクに届かない。
灰色の世界は変わらないし、声自体もまだ出ないけど……未だ辛い現実がここにあっても、自分の中に逃げ込んじゃいけないのだ。
あたしの手は、未だずっとレメクを捜して彷徨っているけれど……
「…… ……」
あたしはおばちゃまに声をかけようとし、やっぱり出ない声にしょんぼりと肩を落とし、かわりにぽんぽんとおばちゃまの肩を叩いてあげた。
おばちゃまは顔を上げ、涙を拭きながらニッコリと微笑む。
「ええ、姫様。……ありがとうございます。……申し訳ありません。見苦しい姿をお見せいたしました」
あたしは首を横に振った。
そんなあたしに優しく微笑んで、おばちゃまはすっくと立ち上がる。ピンと伸びた背筋には、風格と威厳が備わっていた。
「では、姫様、朝の準備にとりかからせていただきます。……さぁ、こちらへどうぞ」
夜会で見た貴婦人に負けず劣らず優雅な仕草で、おばちゃまはあたしに手を差し伸べる。
あたしは背筋を伸ばした。
ちっぽけなあたしの、精一杯の背伸び。
王宮なんていうとんでもない場所で、そんなものが役に立つのかどうかはわからない。
けれどそれをがんばれなくて、どうするのだろうか。
(……レメクに恥じないように)
あたしは胸で揺れる革袋を握りしめる。
そうして、レメクが傍にいない日々の、第一歩を踏み出した。