番外編 【幸せの形】 3 | <闇の王と黄金の魔女シリーズ>

<闇の王と黄金の魔女シリーズ>

8才の猛攻幼女ベルと、生きる意味を持たない冷静沈着美青年レメクの童話めいた異世界ファンタジー。貧困・死別など時に重い悲劇を含みます

 3 幸せの形

 ベルは意気揚々と街を歩いていた。
 抱えた大きな麻袋のせいで、前は非常に見えにくい。だが、とりあえず隣に大好きな人がいるかぎり、自分の行く先は安心だった。匂いを辿れば、ちゃんと同じ場所にたどり着ける。
 その大好きな相手は、自分の倍以上ある麻袋を二つも抱えて歩いていた。中に入っているのは肉や野菜で、朝市で買い込んだ品である。
「ねぇ、おじ様?」
 見えない視界にえっちらおっちら歩いていたベルは、興味津々で尋ねた。
「お屋敷の中に畑があるって言ってたのに、どうして朝市で買い物をするの?」
 ベル自身未だその目で見てはいないが、クラウドール邸の屋敷には大きな畑や放牧地があるらしい。野菜や肉の類もそこで手に入るらしいのだが、なぜか今日、レメクは朝市に向かっていた。
「作っていない野菜もありますし、なにより香辛料の類が足りません。それに、肉をそんなに毎日食べていては、うちの羊や山羊や牛達はすぐにいなくなってしまいますからね」
 ベルは首を傾げた。彼女の食卓には、毎日のように肉が並んでいたのだ。
 そうして目を丸くしたのは、おそらくその意味に気づいたからだろう。彼女は非常に頭の回転が速かった。
「あの……おじ様、あたし、そんなに贅沢しないから……」
 おずおずと言ってくる少女に、レメクは思わず口元をほころばせる。
「あなたは、私に対して遠慮する必要はないんですよ。あなたはまだ子供であり、私は大人なのですから」
「……でも」
「私の保護下にある以上、あなたは私の……そうですね、言うなれば家族です。家族である以上、遠慮は不要ということです」
 家族、という単語にベルは顔を輝かせた。目がきらきらと輝いている。
「あたし、いい奥さんになるからね!」
「……一応、今は子供でいてください」
「いい奥さんになるんだから!」
「…………」
 レメクはそっと視線を外した。
(……どうしましょうか……)
 ちょっぴり顔が不安に曇る。
「とりあえず、その話は後々に置いておいて」
「あ。猫」
「話は聞きなさい。流してもいいですが……と、おや」
 ベルの声に視線を同じ場所に向けたレメクは、塀の上にちょこんと座る赤茶色のネコを見つけて目を見開いた。
「モンプチではないですか」
「……モンプチ?」
 ベルが首を傾げる。茶虎の猫は「にゃあ」と声を上げた。
「義父がもう着いたんですか」
 猫は「るるぅ」と喉を鳴らす。レメクは真面目な顔で頷いた。
「ありがとうございます。後でお礼を持って行きましょう。ひとまず先を急ぎますので」
 言うや否や麻袋から買ったばかりの魚を取り出す。やや大きめのそれを差し出すと、赤茶色の猫は目を煌めかせてそれを口に銜えた。そうしてとっとと走り出す。
「…………」
 ベルはそれをじーっと見守った。レメクはそんな彼女を見下ろし、大まじめな顔で言う。
「実は今日、義父が来ることになっているんです。……その前に食事の準備を整えておきたかったのですが、仕方がありませんね。とりあえず、急いで戻りましょう」
 そう言って歩き出す相手の姿を追いながら、ベルは先程の赤茶色の猫を思い出していた。 どこかで見た猫だと思う。何度か見たことがある気がする。
「……おじ様」
 ベルはそっと声をかけた。レメクは振り返らずに「なんです?」と問い返す。
「猫とお話できるの?」
「? できないんですか?」
 レメクは不思議そうな顔で振り返った。ベルは首を横に振る。
「ううん。たまにしてる」
 レメクは同意の意味で頷いた。
 その様子にベルは少しだけ眉を下げる。彼女は知っているのだが、彼は知らないのかもしれない。
 なぜなら、そんなことができるのは今まで彼女ぐらいであり、孤児院の誰も、猫や犬と会話をすることはできなかったのだ。
(……レメクはできるんだ……)
 ベルはちょっと口元をほころばせる。
 なぜかは知らないが、とてもとても嬉しかった。

 ※ ※ ※

「や。お帰りなさい、二人とも」
 屋敷に帰ると、なぜかエプロン姿の男が出迎えてきた。
 凄まじい美貌の男だった。おそらく相対した誰もが目を剥き、半数以上がその場で昏倒すること間違いなしな美貌である。あまりの美しさに、直視しつづけることすらできないほどだ。
 だが、そういった本来の反応とは違う反応を返すのが、今相対している二人である。
「お義父さん……またですか……」
「わぁ、ポテトさん。そのエプロン可愛い!」
 ふりふりレースのエプロンに、レメクのほうはげんなりと項垂れ、ベルのほうは目を輝かせた。
 ふふふふふ、とポテトは笑う。
「ご主人様がプレゼントしてくださいましてね。すごく嬉しそうな顔で着ろと言ったくせに、きちんと着用したらすごく残念そうな顔になるんですよ。なんでしょうかねぇ、あの反応は」
 しかし、それを語る彼の笑顔は素晴らしい。計り知れないほどに嬉しそうだ。
「……着るのを拒否する姿を見たかったのではありませんかね……?」
 普通、男がふりふりレースのエプロンなど好んで身につけるはずがない。おそらくアウグスタはポテトが嫌がる顔を見たかったのだろう。それか、怒る顔か。……しかし、彼女の企みはあっさりと潰えてしまったのだ。
「この程度のものを着こなせなくてどうしますか。家事は男の嗜みですよ」
「……いえ、もう何も申しませんが……」
 この義父に育てられた自分は、もしかして人として何か違う常識をもってしまったのでは無いだろうか。少し心配になったレメクだったが、ポテトの次に義父となったステファン老も似たような教育方針だったのだ。ならば、これが世間一般で間違いないのだろうと思いなおした。
 彼は知らない。
 その二人がちょっと世間とは違っていることに。
 そんな彼の横で鼻をヒクヒク動かしていた少女は、目を瞑ってうっとりと呟いた。
「良い匂い……」
 彼女のお腹が「きぅるるる」と鳴き始める。先程食べた『朝食』はすでにそこには無いようだ。……どんな消化速度だろうかと思いつつ、レメクも軽く匂いを嗅ぐ。
「ずいぶんと手の込んだ料理ですね。カボチャのスープと海鮮サラダとローストビーフと鶏の香草焼きですか」
「……なぜ一嗅ぎでわかるんですか……」
 なぜ分からないんですか? と言いたげな目で見返されて、ポテトは呆れた顔になった。意見を求めるようにして小さな少女の方に視線を向けるが、こちらからも同じ「わからないの?」と言いたげな目でこちらを見ている。
(嗚呼……似たもの夫婦……)
 ポテトはしみじみと降参した。
「まあ、とりあえず、玄関先で話をするのもなんですから。とりあえず中に入って食事にしませんか? というか、まずは挨拶ですか」
 ベルとレメクからそれぞれ荷物を受け取って、ポテトは穏やかに笑う。
「お帰りなさい、レンさん、お嬢さん」
 レメクはどこか面はゆそうに目を細め、ベルは顔を輝かせて声を揃えた。
「「ただいまです」」


 レメクの購入した食材は全て貯蔵庫行きとなったが、かわりに貯蔵庫にあった食材はあらかた消えていた。
 もともと残り少なくなっていた所にポテトという料理人がやって来たため、残っていた食材もほぼ使いつくされてしまったのだ。
「美味しいぃいッ!」
 舌鼓をうつ少女を時折見守りながら、二人はそろって台所で買ってきたばかりの食材を捌き始める。大きな肉の塊を処理しやすいように手早く捌いて、ポテトはくすくすと笑った。
「それで、そのお店の方に謝りに行ったわけですか」
「罪から逃げては前に進めません。せめて償える類の罪であるのならば、今できる時に償うべきですから」
 償えない罪を抱える男二人は、そろって視線を下に落とした。
 野菜室に買ったばかりの青菜を入れたレメクは、視線を下に落としたまま、嘆息をついて言葉を続ける。
「けれど、店主もなかなかの人物でしたよ。あの悪環境の子供達が、それでも飢え死にするのを免れたのは、きっとああいった人物が影ながら守ってくれたからでしょうね」
 店主達は「自分達は何もしていない」と言ったが、そうでは無いとレメクは思っていた。
 もし、彼等がかの孤児院の院長達のように、自分の利益だけしか見ていなかったら。そうしたら、盗みをはたらいた子供達は、きっと悲惨なことになっていた だろう。飢えて体のやせ細った子供達は、それほど足が速くは無い。それに、大人達が本気になり、彼等を捕まえようとすればそれはそんなに難しいことでは無 いのだ。盗んだその日でなくても、力無く座っている時にでも見つけて報復すれば良いのだから。
 店主達は、そういった恐ろしい行為を一切しなかった。可哀想だが何もできない、と言う言葉の裏側で、それでも、少しだけでも目こぼしをして、彼等の生きるのを助けてくれたのである。
 それが優しさでなくて何だろうか。
 思いやりでなくて、何だというのだろうか。
「……不思議な気分になりましたよ。この国には、そうやって、弱い子等を守ってくれる人達がいるのだと思うと」
 レメクの声に、ポテトは目を細めた。
 彼は気づいていない。それが感動だということに。
 長い年月を感情を排して過ごしてきた彼だったから、その心の動きが何という感情なのか、なかなか気づけないのだ。
「良い人達で良かったですね」
「ええ」
 頷くその顔は穏やかに微笑わら》っているのに、きっと微笑わら》っている本人だけは自分の感情や表情に気づいていないのだろう。そう思うと少しおかしく、そして少しだけ胸に痛かった。
「ところでレンさん。お嬢さんの食事が終わったら、離れに彼女を連れていってあげませんか? 皆さん、会いたそうにしてましたから」
 レメクはベルと顔を見合わせる。口の端に香草をくっつけたまま目をぱちくりしていたベルは、一度レメクとポテトを見比べ、輝く笑顔で言った。
「あたしも行きたい!」
 レメクに否やは無かった。


 クラウドール邸の長屋の住人は、レメクとベルの訪問を心から喜んだ。
 特にベルは持ち前の愛らしい動作もあって、彼等の愛情をたっぷりと注がれていた。彼等はレメクのことも愛していたが、なにしろ相手はもう大きな大人である。まさか抱きしめたりかいぐりかいぐりするわけにはいかない。
「坊。飯喰ったか?」
「坊。喉乾いたか?」
 せいぜいビスケットや蜂蜜酒をいそいそと持って行くのが精一杯だった。
 それすらも、レメクにはなんとも言えず面はゆいものなのだが。
「……すみません。もう三十二になりますので、坊はよしていただきたいのですが」
 言っても聞いてもらえない。
 ステファン老がいたころからの住人にとって、レメクは未だに子供なのだった。レメク自身が屋敷に招いた人々は、もうちょっと遠慮しているが、それでも感化されているらしい。
「若旦那、よぅ来られたなぁ、よぅ来られたなぁ」
「待っとったで、若旦那ぁ」
 自分の身分とか職業を忘れそうな勢いだ。わらわらと寄ってくるお年寄りに、レメクは何と反応していいかわからず、困り顔で突っ立ってしまった。嫌では無いのだが、なんとも言えずひたすら面はゆい。
 ポテトから見れば、それは恥ずかしがっている、ということなのだが。
(いい傾向ですね)
 一応部外者として、ポテトはひっそりとその場で気配を殺して見守っていた。常には驚くほど存在感のある男だが、闇に溶ければ剣の達人すらも彼を見つけることはできない。
 そうやってこっそり隠れていたのだが、笑顔でちょろちょろとお年寄りの間を走り回っていた子供にはあっさり見つかってしまった。
「ポテトさん、見て見て! これ、すごい綺麗なのっ」
 彼女が見せてくれたのは、もらったばかりの綺麗な石だった。庭を耕している最中に出てきたという石は確かに綺麗な色をしている。
(……これは琥珀ですねぇ……)
 ポテトはにっこりと微笑んだ。クラウドール邸の敷地からは、こういったものが時折ぽろっと出てくるのだが、誰もそれを取り合ったりはしなかった。彼等はすでに、世の中の欲といったものと無縁の場所で生きているのだ。
「よかったですね」
 にこっと微笑んだポテトは、そこで自分を見ているお年寄り達に気が付いた。
 しまった。自分は隠れていたはずなのに。
「ぉおー、べっぴんさんが来とる、べっぴんさんが来とる」
「おー、どっかで見たことがあるような無いようなべっぴんさんじゃ」
「よー来たなぁ、よー来たなぁ」
「えー、儂ぁ目ぇ見えんからわからん。そないにべっぴんさんなんかぁ」
「おおべっぴんじゃあ、胸ないがのう。残念じゃなぁ」
「いやでもよー来たのぅ。ほれ、飴ちゃんやろけ」
 わらわらとたかられた。思わず反射的にレメクを見る。
 レメクは「様をごらんなさい」と言わんばかりの目でこちらを見ていた。どうやら先程様子を見守っていたのを怒っているらしい。微妙に嬉し恥ずかしをしてたくせに、怒るとは何事だ。むしろ今自分を助けてほしい。一応名前繋がりの親子だし。
 なぜか掌に押しつけられた沢山の飴を持ったまま、ポテトは「はぁ……」と力無く項垂れた。なぜだろう。彼等には逆らえない。
「いや、いいのう、やっぱり。若い人等が来てくれるのは……」
 ポテトはそっと視線を外した。自分は彼等よりも年上だ。
「眼福じゃのぅ、いや、ええもん見たわぁ。三人ともべっぴんやからなぁ」
 レメクとベルはそっと視線を外した。彼等二人は、自身を『べっぴん』とは思っていなかった。
「いやぁでも、どうなすったんじゃ? 珍しぃ。儂らン所に来るのは、あんまり無いことじゃが……?」
 長屋の中では長老格の男にそう問われて、レメクは反射的にポテトを見た。行こうと言い出したのはポテトなのだ。
「実は少々レンさんとこみいった話をしなくてはいけませんでして。けれど、お嬢さんだけを一人で部屋に残すのは可哀想でしたから、皆さんの所にお邪魔させていただけないかと」
 そつのない笑顔でそう言ったポテトに、お年寄り達は一斉に顔を輝かせた。
「そりゃあ大歓迎じゃ!」
「嬢ちゃん、何するけ? 積み木け? それとも何か食べるけ?」
 わっと全員がベルに向かった所で、解放されたポテトはぐっと握り拳をつくる。よし! と言いたげなその相手に、レメクはあきれ果てた顔になった。
「……お義父さん……」
 その一言にものすごいいろんな意味を込められてしまった。
 ポテトは知らん顔をする。
「さ。とりあえず、我々は大人な話し合いをするべく席を外しましょうか」
「大人な話し合いをするのに、その手のバスケットは何ですか」
「え。紅茶とスコーンとサンドイッチです。いい天気ですから、そこらをまわって四阿にでも行きましょう」
「……それは普通、ピクニックと言いませんか?」
 ポテトはにっこりとそれを黙殺した。


 クラウドール邸には、大小七つの四阿があった。
 上空から見ると長方形をしているクラウドール邸の敷地は、、南側に森のような木々の連なりがあり、中央下方に本邸がある。
 中央上方は西側に湖があり、東側に田園と平屋建ての建物が一つ。湖からは小川のような水路が引かれ、東の平屋建てと北の放牧地へそれぞれ水を通していた。
 ポテトがレメクと一緒に訪れたのは、その湖のほとり》に建つ四阿である。
 遙か昔に建てられたその四阿は、美しい白亜で作られていた。その建築様式は、驚くことに王城のそれと同じである。
 元々クラウドール家は、王族の血にも連なる大貴族だった。
 先代のステファン老など、前王の叔父であり、当時王位継承権第二位のれっきとした『王族』だったのだ。この屋敷に隠居する前に王位継承権を放棄したが、王都に近い広大な土地を所有する大貴族であることには違いなく、その地位も最高位の公爵だった。
 クラウドールの家を継ぐ者は、そういった者が非常に多い。
 例外として挙げるのならば、初代のクラウドール公爵だろうか。後に女王の子を後継者に迎えたその人物は、王国の要とも呼ぶべき賢者であり、そして、当時において最強の紋章術師でもあった。罪と罰の紋章を宿すほどに。
 ナスティア王国に燦然と名を残すその人物こそが、レメクの前に『断罪官』であった唯一の人。王宮において秘中の秘と呼ばれる偉人、暁の賢者だった。
 史上二人目の断罪官であるレメクが、ステファンの後継者としてクラウドール家に養子に入ったときも、それを理由に納得する者が多かった。
 それでもステファン老と血を同じくする血族達の中には、難を示す者も多くいた。当然だろう。れっきとした王族として公爵位をもっていたステファンと違い、当時のレメクは誰の子とも知れぬ子だったのだ。
 唯一、第一位の王位継承権を持つアリステラ王女と、王宮の最大の謎と呼ばれるナイトロード卿の庇護下にあったが、それ以外は、ほとんどの者がその存在を知らなかったのである。出自など言わずもがなだ。
 だが、偉大な老公の死後、ステファンの所有地をそのまま継承したりせず、公爵位と所領を王に返上したことで、反発者の多くは納得した。
 今では自身に授けられた侯爵位と王都の屋敷だけを受け継いだ彼を、無欲の人だとする者がほとんどだ。
 むしろ、さすがの彼等も思うところがあったらしい。
 義理とはいえ老公の子であったレメクが、全くの領地無しでは『クラウドール』の名を継ぐ者の沽券に関わると思ったのだろう。頼むからどこかの領地を治め てくれと言いだし、結局は王と宰相を巻き込んで協議し、先代が持っていたのとは比べものにならないほど旨味の少ない土地を拝領することになった。しかもそ んな土地を希望したのは本人だと言うのだから、レメクという男の無欲さに王侯貴族達は呆れたものだった。
 当時のあれこれを思い出しながら、ポテトはその優雅な四阿に腰を下ろした。
 かつてこの四阿が建てられた時、このあたりは寂れた場所だったらしい。
 王都は今よりもずっと小さく。今の北区のあたりは今の王城の築城の後に貴族達によって拡張された区域なのだ。現クラウドール邸の敷地は、かつての王都から離れた場所にぽつんと建つ『離れた小さな村』のような場所だったのである。
「あれから何年が経ったのでしょうね」
 白亜の柱を撫でながら呟くと、テーブルの上にバスケットの中身を並べていたレメクがそっけなく答える。
「あなたが突然姿を消してからは、だいたい十三年ですよ」
「……いやぁ、何か棘がありますねぇ……」
 ありますとも、と言いたげな目で見られた。昔なら何の感情も無く見上げられただろうが。
 それを思うと、そんな眼差し一つがとても嬉しい。
 くすくす笑う義父に、彼の内心を知らないレメクは嘆息をついた。
「陛下のことも少しは考えてください。義父上ちちうえ》が亡くなった後、王宮はいろいろ大変だったんですから」
「おや。ベラはとっくの昔に引退してたはずですがね?」
「……引退はしていても、影響はあります。おわかりのはずでは?」
 含みをもたせて言われた言葉に、ポテトはひょいと肩をすくめた。
 レメクと同じテーブルにつきながら、視線を遠くに馳せて呟く。
「ですが、私のような者が長々と傍にいるのは、あまり良いことではありませんしね」
「それは言い訳でしょう、お義父さん。あなたが義父上ちちうえ》を親友として大事にしていたことは陛下も私も知っています。傷心旅行に行くなら行くで、せめて旅先から手紙の一通でも出すべきです」
 ズバッと言われて、ポテトは恨みがましくレメクを見た。
 違うとは言い難い上に、レメクの言は正しく正論だった。
 だいたいにして、自分のような者が『契約者』を放置してどこかをフラフラすること自体、本来あり得ない。
「……呼ばれれば戻るつもりでしたよ」
 とりあえず、言い訳がてらそう言ってみる。
 けれど、おそらく自分の他に誰よりも女王を理解している男は、嘆息混じりにこう言った。
「呼ぶはずが無いでしょう。あなたが落ち着くまで。あの方は、そういう方です」
 ポテトは片手で顔を覆ってしまった。
 まったく。どうしてこう、この子達はこちらの追いつめてくれるのか。
「……人というのは存外強いのだと、思い知りましたよ……本当に」
 強く優しく気高いアリステラ。
 初めて会った時から、その黄金の輝きに射抜かれていた。
 その少女を経由して預けられた小さな赤ん坊も、驚くほど沢山のものを自分に与えてくれた。
 運命にからめとられてしまったのは、いったいいつだったのか。
 原初を問えば真っ先に浮かぶのは黄金の少女の眼差しであり、次に浮かぶのは深い悲しみと孤独を抱えた紫の瞳だった。
 比べることはできない。愛情の種類が違いすぎる。
 けれど等しく、自分にとって最愛の人。
 そして、その二人を通して知り合った最初で最後の『人』の友人は、十三年も前にいなくなってしまったのだ。
「恐ろしくなったのかもしれませんね。初めて……人の死という現象が」
 喪うという事実に打ちのめされたのは、いったいいつ以来だったろうか。
 もうずいぶんと遙かな昔、この身がまだ人であった最後の頃にまで遡るその記憶が、かの友人の死で一気に蘇った。
 恐ろしかった。そう……恐ろしかったのだ。
 死というものをよく知る自分だからこそ、あまりにも恐ろしかった。
 愛おしい者がいなくなるという現実が。愛している相手が……それも、今、すぐ近くにいる『最愛』と言える相手がいなくなるという、未来が。
「逃げたところでどうしようもありませんがね。時は決して待ちませんから」
 ポテトの声に、レメクは目を伏せた。
 時は待たない。それは、かつてレメクもベルに語った言葉だった。
 何をしていたも進む時間という名の流れは、例え目を背け、逃げたとしても決して変わらない。ただ、進む。
 そうしてその先に、生き物は死に至るのだ。
「自分という存在の弱さも思い知りましたよ。けれど、大陸を歩き通した十三年という月日は、無駄では無かったと思います」
 そう、無駄では無かった。
 離れたことでわかるものがあり、また、初めて訪れることでわかるものがある。
 ナスティア王国のこと。女王のこと。名付け子のこと。他国のこと。
 そしてその全ては、無駄では無いのだ。
「これから先、様々なことが起こるでしょう。運命は動き始めましたから」
 ポテトの言葉に、レメクは眉をひそめる。
「回避する方法は」
「あります。ですが、難しい。人というものは、全てがあなたのように倫理を備えているわけではありません」
 レメクは目を伏せる。だが、次にこちらに向けてきた目には、強い力があった。
「ですが、人が人である以上、言葉によって回避できるものもあるはずです。力で相手を服従するしか術がないのであれは、それはただの畜生です」
 その通りだった。
 だが、それがややも理想めいているのは彼も承知のはずだ。
 人は畜生では無い。だが、それと同時、平気で自ら畜生に落ちるのもまた、人という生き物だった。
「……あなたは、人のもつ可能性を信じるのですね」
「信じずして、なぜ人で在ろうなどと思えますか」
「同じ言葉を喋っていても、言葉の通じない者も多くいますよ?」
「そのときは、そのときです」
 一応、開き直る前向きさも持っているらしい。一つの方法に頑なに固執することは、妄信や執着と同じく愚かなことだった。変わらなくてはならないことがあるように、変えなくてはいけないことも世にはあるのだ。
 だが、
「けれど、それでも最後まで諦めたくはありません。諦めればその時に、全てを失うことになるでしょう。例えそれが、自分勝手な自分のためだけの理想であっても」
 その言葉に、ポテトはただ眼差しを細めた。
 言うようになった……そう思った。
 昔はどうでもよさそうだった。何かあっても、ただ「そうですか」で終わるような子供だったのだ。世の中を冷静な眼差しで眺めながら、全てを諦めているような子供……それがレンドリアという子供だった。
 それが、どうだろうか、この変わりようは。
 彼の変化がいつ始まったのかはわからない。だが、決定的な理由は最近にあるだろう。
 目に宿る強い力は、命の尊さを何よりも尊ぶものだった。失いたくないと思うものが無ければ、その強さを持つことはできない。
(……嗚呼)
 ポテトは微笑んだ。
(……あなたはようやく、手に入れたのですね)
 あの時も思ったのだ。運命とはかくあるべき、と。
 レンドリアが幼い子供の頃に諦め、けれど心の奥底で長年求め続けていたもの。
 それが予言された導きの子と重なるなど、これを運命と呼ばずして何と呼べばいいだろうか。
(私は本来、運命などという言葉は好きでは無いのですがね)
 少し皮肉にそう思う。けれど、他に言いようがないのだから仕方がない。
 しかしそれにしても、相変わらずの生真面目さが少し可笑しい。ちょっとぐらい、愚かに正義とかいう言葉を振りかざしてみてもよかろうに。そうできるだけの力と知識をもっているくせに、決してそんな言葉を使わない愛し子の性根が、ポテトにはたまらなく嬉しかった。
(どうも私達は、子供を愛しすぎたようですね、ベラ)
 懐かしい友人に心の中で語りかける。
 相手は決して何の答えも返してはくれない。それはそうだ。その人はもういなくなってしまったのだから。
 けれど、心の中にはずっといる。
 きっと、愛おしい人々の心の中にも。
 ポテトは思いを噛みしめた。幸せだと思った。
 十三年他国を巡って改めて思い知ったのだ。自分の幸せがどこにあるのかを。
 アリステラとレンドリア。
 誰よりも大切な人のいるこの国が、この場所が、自分にとっての『幸せ』であることに。
 心からの微笑みを口に浮かべた所で、ふと走ってくる小さな体に気が付いた。
 ポテトにとっては真正面だが、向かい合うレメクにとっては真後ろだ。だからまだ気づいてはいないらしい。息せき切らせて走ってくるのは、どう見ても長屋のほうに置いてきた少女だった。
「おや」
 思わず声をあげてしまった。
 その声にレメクも気づく。ポテトの視線を追って、彼は走ってくる少女に気づいた。
「ベル?」
 反射的に立ち上がって迎えに行きかけるのに、ポテトは口元を緩ませた。
「まぁまぁ、レンさん。相手が一生懸命こっちに向かっているのですから、悠然と待ってあげなさい」
「は? いえ……ですが、あんなに急いで来るなど、何かあったのかも……」
「あんなに顔を輝かせて、ですか?」
 きらきらと瞳を輝かせ、頬を紅色に染めて駆けてくる少女に、レメクもしぶしぶと腰を下ろし直した。それでも迎えに行きたそうにうずうずしている様子に、ポテトはそっとあらぬ方を向いて口元を押さえる。吹き出しそうだ。
「……レンさん。私は今、なにやらすごく幸せですよ」
「はぁ?」
 笑いを堪えて言うポテトに、レメクは素っ頓狂な声を上げる。ポテトの腹筋が痛んだ。襲ってきた笑いの発作を堪えるのが、これほど苦痛だとは思わなかった。
 レメクの素っ頓狂な声など、聞けるとは思わなかったのだ。
 そうこうしている間にも、少女は四阿に到着した。はぁはぁ息を乱しながら、過たずレメクのいる椅子によじ登り、一生懸命息を整える。
「何事です?」
「ん……あの、ね。今、ね。ゲーム、してるの」
 必死に息を整えながら、ベルは目を輝かせてレメクを見た。
「それでね、今、ゲームを果たすためにね、来たの」
 意味がわからない。
 二人はそろって顔を見合わせた。
 その瞬間、ベルが背伸びした。勢いよく、そして有無を言わさず、レメクの頬にチュッと唇を押しつける。
 彼女は鮮やかな笑顔で言った。
「おじ様のほっぺに『大好き!』ってチューしてくるのが、あたしの役割なの。じゃあ、報告してくるね!」
 そしてポテトは目撃証人であるらしい。
 バイバイと手を振って駆け去る相手に、とりあえず音のない拍手を惜しみなく送ってから、ポテトはゆるゆると笑みを浮かべた。
 レメクを見れば、レメクはテーブルに撃沈してしまっている。
 それはそうだろう。あれは大変効いたはずだ。
 離れている自分にまで心の声が届いたほどなのだ。直接くらったレメクには大打撃だっただろう。
 「大好き!!」という、全身全霊の思いなど。
 ポテトはトントン、とテーブルを指で叩いた。
 撃沈していたレメクが嫌々顔を上げる。
 そのやや赤らんだ顔に笑みを深めつつ、ポテトはこう問いかけた。
 ただ一つ、間違いようのない確信を胸に。


「ねぇ、レンさん。幸せの形とは、どういうものだと思います?」