最近、やってもらってあたり前の人が多い


これは最近に限らないこと。




育つ環境、学ぶ環境によるんだろうな。




もらえるもんは何でももらえ!




そんな根性が根本にある。




環境は常にあたえられてきた。


という状況の中、育つことが多い現代。



むかしなら寺小屋に


少しでも評判がいい寺小屋に


うちのコをお願いします。



菓子折りもって挨拶にいく。



寺子屋はあちこちにあった。



寺子屋には独自のテキストがあった。




地域で、こどもたちを育むんだという気概があった。




なくなったのは江戸時代がおわって、


義務教育が整備されてからじゃないかな。




義務教育が受けられる。



税金を払ってんだから、やってもらってあたり前。


義務教育があるんだから学校に行けばいい。




教えるのは学校の先生。




親が子育てを放棄した瞬間だ。




人さまの子どもに注意をしなくなる。


指摘するのに慣れていない子どもは


ほおを膨らませたり、まゆをしかめたり、口をとがらせたり、


大人になろうとしない。



そもそも大人になる、社会人性を身に着けるために


学べることのありがたさを知らない。




つまり、簡単にいうと、世の中なめてる。



人のために生きる



そんな言葉は欠落していて、


自分のことが精いっぱいと称して


自分中心的。



他人が犠牲になっても自分さえ助かりゃいい。




最近、付き合う人を考えなきゃな、


と、改めて思う。




いいやつなんだけど、なめてるやつ、


そんなやつ沢山いる。



本来は教育なんて、お願いして


いい学びの機会を得るべきもの。




そこに用意してあげ過ぎるのは


いかがなものか。




最近、常に自問自答。




やってあげるのも不幸を生み出す。




学んで成長できない人は


社会に出て路頭に迷う。




それでいい。




そんな確信を得た最近。