はらわたもなくて淋しや蕃椒  子規


唐辛子の渡来は朝鮮対馬経由でなく、

文禄・慶長の役(1592年~1598年)とする説があります。


江戸の頃、大和本草(貝原益軒 宝永5年 1708年)や、

成形図説(島津重豪)に見えます。


具体的には文禄初期の加藤清正説もあります。


本朝世事談綺(菊岡沾涼 享保19年 1739年)の、

『秀吉朝鮮征の時、初めて取り来る』

は大和本草の説を取り入れたものと見えます。


文禄・慶長の役で最初に朝鮮釜山に上陸したのは、

文禄元年四月です。


多門院日記の文禄二年二月二十八日に書かれている、

『赤皮ノカラサ消肝了…辛事無類』

は唐辛子と思われますので、朝鮮説をとりますと、

僅か一年たらずの間に日本に伝わった事になります。


現在は逆の説もあります。

秀吉出兵の折日本から持ち込んだというものです。


唐辛子を愛するキムチの国を思うと意外かも知れませんが、

案外と信憑性があるのではと思います。


当時外国との交易は日本の方が機会が多かったからです。


朝鮮渡来説も江戸後期になると姿を消し

経世家で広範囲に著述を残している佐藤信淵の

天文十一年説が浮上します。


唐辛子になぜ蕃椒の字をあてとかといえば、

一つの説があります。


九州長崎辺りは中国貿易の恩恵を受けており、

とうがらしは(唐を枯らす)から、

ひいては自分達の生活のひびくからとあります。


その他に、唐苛という言葉も見られます。

清良記(寛永5年 1628年)は唐辛子の事かと

決めかねています。


毛吹草(寛文3年~天文5年 1633年~1740年)

には唐菘とあり、


本朝世事談綺には南蛮胡椒、

志太野坂(寛文3年~天文5年 1633年~1740年)

の蕃椒の序には、

『とうがらしの名を、南蛮がらしといへるは、

南蛮にて久しかりしゆへにや』 とあります。