tablaboyの道日記

祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように


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尼港事件として知られる大虐殺事件


真の信仰のあり方、死に際しての心のあり方、日々の精進について書かれてあります。

この事件では、日本人731人を含む多くの住民が拷問、猟奇的殺人、レイプと、想像を絶する残虐さで、虫けらのように殺されたのでした。

その中には女性、妊婦、生まれたばかりの子供もいました。

その到底耐え難い状況の中で、日本人のおばあさんは信仰の中に安心立命し、人々のために無心で尽くしていたのでした。

本当に神仏の愛を心から信じ、祈りつづけていないと、とてもとても到達できる境地ではないですが、人間はどんな状況でも高い心でいられる、というすばらしいお手本だと思います。

何度読んでも涙がでて感動しますので、よんでみてくださいませ。

 

 

「運命を恐れるな」より


“大正九年三月、シべリアのニコライエフスクで、パルチザンの手で、石田領事はじめ日本人七百余名がだしぬけに牢獄にぶちこまれ、二ヶ月半ほどして何の理由もなしに惨殺されたことがありました。この七百余名の中にはたくさんの女や子どももいましたし、生まれたばかりの乳呑み児を抱えた女の人も何人かおり、その痛ましい光景は、とても想像も及ばないほどだったと思われます。

ところがその中に一人のおばあさんがおり、ときどき、
「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」
と唱えていましたが、他の人びとと違って、少しも恐れることもなく、平然として病人や子供の世話をしたり、悲しんでいる女の人たちを慰めたりしていました。これにはパルチザンも驚き、獄長と牧師が銃殺前に彼女を呼んで、
「どういう信仰をもっているか」と尋ねたそうです。

おばあさんは、
「仏さまの大きな慈悲に抱かれているという信仰です。私たちには何の恐れも、心配もありません。私たちの心はいつも平和で明るいのです」
といって、平然として銃口の前に立ったというのです。

これこそ、真実の妙好人そのものでありまして、普段からの深い信仰心の現れでありましょう。過去世からの因縁性の相違も勿論ありましようが、常に神仏のみ心に入りこんでいる祈り心こそ、生死を超越した、神我一体の境地にいつの間にか、その人を導いているのであります。
宗教者として人々の先頭に立っているわけでもない老婆のこういう姿は、より深い感銘を周囲の人々に与えるのであります。

宗教指導者として世に立っている人たちは、よくよく精進して、この老婆に恥じない心境に常に立っていなければいけないと思います。

いうは易く行うは難しなので、日々の精進こそ大事なのであります。
では次にカトリックの神父さんの話を致しましょう。
 
カトリック神父の立派な最期
ポーランドのマキシミリアン・コルべ神父は、一九四一年の二月に修道院から連れ去られて、ついで有名なアウシュヴィッツの強制収容所に移され、非常な虐待と迫害を受けました。

そして七月の末に、コルべ神父が収容されていた第一四号獄舎から一人の男が消えてたことから、その罰として同獄舎の十名が地下の餓死監房に送られることになりました。指名された者の中から、「家内と子供にもう一度会いたい」と叫んだその一人の身代わりに、コルべ神父は挺身して死の獄に赴いたのです。

神父と共に獄についた人びとからは、他の獄のように怒号や呪詛の叫びが聞えず、祈りと歌の声がもり上がり、死の獄が熱烈な聖堂と変わってしまっていたことは、ナチスの手先の者どもに深い印象を与えたといわれています。

しかしその声も日に日に弱くなり、聖母被昇天祭の前日には、はっきりした意識をもっていたものは神父だけとなり、最後の始末に来た獄吏に自ら腕をさしのべて、死の注射を受けたのです。

その清掃に入ったものの伝えるところによると、神父は壁によりかかり、目を大きく見開き、晴れやかな神々しい顔をして、一点を見つめていたということです。”

 

すばらしきかな

かがやかしきかな

愛のために命をささげし者

 

地球上からすべての残虐な行為、悪い想いがなくなりますように

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

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無知ほど損でおそろしいものはありません。

無知ゆえに、この世に不幸、災難、病、苦悩があるといっても過言ではありません。

 

何に対しての無知か?

 

自分を知らない・・・

人間というものを知らない・・・

自分が神の分け命であることを知らない・・・

今の想いが未来を創っていることを知らない・・・

過去の想いが今の状況を作り出したことを知らない・・・

目に見える世界しか知らない・・・

守護の神霊が守っていることを知らない・・・

自分が創造主であることを知らない・・・

意識が主人公であることを知らない・・・

すべては現れて消えてゆくことを知らない・・・

知識として知っていても、行えなければ、それは知っていることにはならない・・・

 

 

「運命を恐れるな」より

 

運命改善の方法

人間は、釈尊や老子のいうように、肉体人間観ではもう今日以上の進化はしないのです。そこで釈尊の空や、老子の無為にいたる道を私は日常茶飯事の祈りの生活のなかから多くの人々 に体得できるように働きかけているのです。

未来に起こるであろう不幸災難を予測して、恐れや不安をもつのは、はじめのほうで申し上げた通り、肉体人間だけを自分だと思っている迷信によるのと、運命改善の方法を全く知らない無知によるのです。へんな宗教のおどかしや、宗教にまつわる様々な常識はずれの事柄を、まともに信じて悩んでいる迷信も、物質世界だけに人間が生きていると思っている想いも、ともに真理の世界からみれば迷信なのです。

姓名学をはじめ様々な運命学がありまして、かなりの適中率を示していますが、これは、運命が過去世からの想念行為によってできあがっているものであることを証明している、ということに他ならないのです。こうした運命を改善するのは、肉体的な自己を捨てきって、神霊の世界の自分にならなければならないのです。

みなさんはきっと、なんてむずかしいことをいう、われわれにとてもできっこない、とおっしゃるでしょう。それはそうでしょうが、肉体の自分自身でそれをやりとげようとしても、とても無理なことです。そこに祈りの重要性があるのです。祈りがなければ、とても運命改善はできないのです。

そこで私は、消えてゆく姿で世界平和の祈りを説いているのです。

消えてゆく姿というのは、この世に現われているすべての事件事柄は、過去世の因縁因果として現われてきたもので、そうした事件事柄はそういう事柄の要素を含んでいて、その人あるいはその集団の運命として現われてきたわけで、その過去世の因縁は、その果をはたして消えてゆくことになるのです。 そういう真理を知らない人は、その事件事柄が自己や自己の集団にとって不利益であったり、不都合であったり、悲惨なことであったりすると、いつまでもその事件事柄に想いを把われていて、せっかく過去世の因縁を果たして消え去ろうとする、因縁波動を再び、運命の渦の中に押しこんでしまうのです。

それでは、いつまでたってもその個人もその集団も、運命を改善するわけにはいかないのです。私の消えてゆく姿の教えは、ここのところで重要な役目を果たすのであります。

そのままいつまでも、事件事柄に把われていたのでは、どうにもならない運命を、それはすべて過去世の因縁の消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に入れきってしまった時に、その人あるいはその集団の運命は、過去世の因縁をはなれた神のみ心そのものを現わし得る本心そのものの人、集団として、生活してゆくことができるようになるのです。 なぜかと申しますと、事件事柄を現在だけのものとして苦悩する想念は、この世の肉体世界、三界(肉休界、幽界、霊界の下層)を超越することができず、いつまでも三界を経巡っていることになり、運命の波から消え去ってゆかないのです。要は、消えてゆく姿として祈りとともに、神さまのみ心の中で消し去ってもらうことが必要なので、そうすれば、現われた過去世の因縁は、そこで神の光明の世界平和の祈りのなかで消え去り、その人あるいはその集団の運命は、神の光明で満たされるのであります。

 

親まかせの幼児のような生き方を

世界平和を祈っている時、その人はすでに肉休身の人間ではなく、神界に昇っている人なのであります。人間はなんども申しますように、神の分生命なのです。実際は何をしなくとも神さまにそのまま通じている生命なのです。それを素直に通じさせなくしたのが、人間の業想念、つまり神と全然別個の小知才覚で、この世の運行をはかろうとしたからなのです。

そこで、その小智才覚の意識を、神意識に還元させるために、祈りがあるというふうに考えてもよいのです。なんにしても、人間は神様のみ心によって、生かされつづけているのだから、明るく和やかに、その日、その日を感謝して生活してゆけばよいのですから、あまり物事を複雑にむずかしく考えず、幼な児のような親まかせの生き方をすることが大事なのです。

人間の親は、先ほどから申しておりますように、神さまなのです。

古代のあらゆる聖者の根本の教えは、すべて人間の業想念を消滅して、神仏と一体化する方法を教えているので、私は現代における最もやさしい方法として、消えてゆく姿で世界平和の祈りを提唱しているわけなのであります。

私たちは体にテープレコーダーをつけて生活しているのと同じなのです。私たちの一つの想いも、一つの言葉も、一挙手一投足もみな記録されているのであります。もし、その記録されたものが自己の運命と現われては不幸であると思うならば、その録音はよいと思う録音にかえなければなりません。

そこでたゆみなき世界平和の祈りの大光明を録音し、今までの不幸災難の原因である業想念を消し去り、断ち切ってしまうのです。

みなさんはこのことを信じて、どうぞ日々の実行にうつしてみて下さい。必ず運命を恐れる気持がなくなります。運命を改善することができるのです。

 

世界人類が平和でありますように

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この宇宙はすべて波動、波の世界です。

どこの波に波長を合わせるか、全部自分で選択することができます。大いなる自由が与えられています。

ただし、その選択したことの結果は自分で受け取ります。 

単純な法則、原理・・・

そのことを理解していれば、その波であることを応用していくらでも幸せに、いくらでも愛深く、いくらでも強く、いくらでもやさしく、いくらでも輝きにみちた人間になれます。いくらでも世界を平和にすることができます。

 

 

「いい時にいまれた」より

 

  真理の言葉は光

 コトバは即ち神なりき、と言って、言葉というのは神であり、そのまま光なのです。真理の言葉は光なのですよ。

ところが「バカヤロー」という言葉は業想念の言葉。

「あのヤロー憎らしい、死んじまえ」

これも業想念の言葉。

世界人類が平和でありますように、と言う時には、平和を願う想いがある。人類の平和を願う広い広い大愛、いわゆる人類愛の言葉です。

愛の言葉は即ち光なのです。

世界人類が平和でありますように、という時には、言葉は即ち光になって、神のみ心になって、宇宙に流れるのですよ。

人間の想いは波なのです。人間はみなこう形に現われているけれども、みんなの心は波が寄っているのです。それで憎しみの多い人は憎しみの多い波を持っている。そうすると、憎しみの多い波が、ここにぶつかってきて、お互いが憎み合うのです。あるいは妬み深いものがあるとする。

妬みの想いをもってぶつかる。同じ波は同じところを流れているから、ぶつかる。同じところを流れているから、また同じグループになるわけです。

 皆さんは世界平和の祈りをするためにここに集まってきている。祈りの統一をするために集まっている。

世界平和の祈りというのは、高い高い高度なそして微妙な人類愛の想いの中に、すでに皆さんは入っている。

世界平和の祈りをしよう、と思っている時には、世界平和の祈りという、高い高い人類の希望、大愛の光の中に入っているわけです。

そういう波に皆さんは合うわけです。

 お互いに体がはなれていても、皆さんは世界平和の祈りという祈り言葉によって、一つに結ばれて光の輪になっている。その光はどこから来ているかというと、救世の大光明の中から来ている。

皆さんが二人寄り三人寄り、五人寄り十人寄って世界平和の祈りをしている時には、光になって、救世の大光明の中に吸い込まれてゆくわけです。そうすると、その人たちの体は神様の光と化している。

変わってしまっているわけです。世界平和の祈りをしている時には、その人たちは神の子の姿をそのまま現わしている、ということになるのです。一人が祈り、二人が祈り、十人が百人が祈り、千人がやり万人がやり、十万人がやる。そうすると、祈っている周囲は光に輝いてゆくのです。

 

世界人類が平和でありますように

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五井先生の真髄は、「全託」・・・

神(宇宙創造者、守護神、大生命、大叡智)の愛であることを信じて、素直にまかせる、命を、運命をゆだねる・・・

 

簡単なようでとても難しいのです。

これは過去世からの修行がものをいうので、信じるということ自体がハードルが高い人には越えられないのです。

そこで禅のような、神というのもを一切排除した、自我の奥底を探求してゆく宗教の道もあるわけなのです。

 

どちらが良いか、悪いかは、その人の霊系統、魂の形、過去世の修行の段階などによると思いますが、一般的に「全託」、信の道は大乗で、大勢が同時に進める道となっていて、浄土宗の日本の開祖、法然上人のおかげでさらに易行となり、大乗の道が広く開かれて、その易行道を引き継がれたのが五井先生というわけです。

 

五井先生曰く

浄土門的法華経即神道=五井先生の教え(消えてゆく姿で世界平和の祈り)

 

 

「いい時に生まれた」より

 

 私の一番こうなった根本は、素直にまかせたということです神様に生かされている、神様有難うございます。神様有難うございます、とスーッとまかせた。アッサリとね。まかせてから理屈を言ってはダメなんですよ。まかせたけれど、どうだこうだと条件や理屈がつく。

 松雲閣(新田道場)に初めて来た時、私は何もなかった。金はない。ないのにお嫁さんが来ちゃった。

来いと言ったら来た。今の家内が(笑)。ところが泊まる所がないんです。家がないのにお嫁さんをもらった。のん気ですね。来るほうも来るほうだし、もらうほうももらうほうでした。

着替えも何にもない。よく来たものと思う。今でも頭が上がらない(笑)。そうしましたら午後十一時半頃、相談に人がみえた。“借りると約束した人が来ない、どうしましょうか”、と言うんです。

それなら私が借りましょう。借りるといったって、その時まだ金はないんです。いくらですか、と聞くと二万円ぐらい。ちょうど家内が二万円を持っていた。そこでその晩から泊まる家が出来た。

 お金もない、住む家もないのに、スーッとまかしていたら、家が出てきた。そういうものなんですよ。

まかせて死んだら死んだで霊界のいい所へ行きますから、それもまたいい。生きていれば生きているで、それでいい。食べても食べなくても、死んでも生きてもどっちでもいいんです。

こんなのん気なことはありませんよ。のん気になったほうがいいですよ。お金でも着るものでも、すべて天から来るのに、自分で作るような気がするんですね。天から来る力でもって自分が動くのです。

天から来なくなったら人間は生きていられない。心臓が止まったらどうしようもない。心臓を動かしているのは自分じゃないのです。天から力が入ってくるんですから、まかせるもまかせないもないんですよ。私の経験としては、すべてをまかせたということでこうなった、ということです。

 

 

世界人類が平和でありますように

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人間の世界は想いがすべてのすべてですから、この想いを光に同化させる、守護の神霊に同調させることが、自己保存の本能、感情想念の世界から抜け出す一番いい方法だと思います。それがそのまま世界平和への道につながり、無限の光明世界を紡ぎだしてゆきます。

 

 

「生命光り輝け」より

 

 

守護霊さんのカ

 いかに妄念がおそってこようと、さわりが来ようと、また病気になろうと、守護霊さんにほんとうにつながっていれば、瞬間的にフッと消せるのです。ただその時、恐れてはいけない。これで業が消えてゆくんだな、浄まってゆくんだな、と守護霊さんに感謝していることです。

病気になるのも、災害の現われるのも、これで業が消えてゆく、消えてゆくのだ、これだけ自分が浄まったのだ、浄まるために業が出てくるのだ、どんな苦しみも、どんなつらさも、すべて消えてゆくのだ、と思って、ひたすら守護霊さんにすがっていることです。悪想念の集合、業は守護霊につながることにより大分減少します。

 守護霊が背負って消してくれるのです。

  神さまの世界は、守護霊、守護天使の働きがなければ成立せず、現象の人間界もすでに滅亡しています。そのお働きをよくよく想い、感謝することです。日本の平和を想い、人類の平和、世界の平和を想う祈りは、守護神霊団に真直ぐつながり、それが光となって日本、世界人類を覆い、水爆も戦争もとめるのです。そして必ず世界を平和にさせるのです。

  つねに我は神と二人である、と想うことです。どんな荒涼たる原野を歩いていよりと、漠々たる砂漠を旅しようとも、自分は一人ではない、神さま守護霊さんと二人である。神さまと伴にあるのだ、と想うことです。神さまにつねに守られ、生かされている自分をじっとみつめること、想うことです。

  輪廻し、煙のように消える業想念をつかむことなく、ただ光明のみを掴む、神さまの光のみを見つめつづけることです。

これが光明思想であり、自分を救い、世界人類を救うことになるのです。

 

 

世界人類が平和でありますように

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人間がなかなか悟れないのは、守護の神霊の仕事を肉体の自分がやろうとして、押しつぶされてしまっている、というのが大きな要因ではないか、と思います。

 

肉体の人間にはたくさんのサポート役の存在があるので、そのサポートを積極的に受け入れる、感謝する、ゆだねる、という素直な心持ちがとても大事だと思います。 

 

それは、「介護」によく似ていると思います。自分だけの力で、介護制度や社会福祉や他人に一切頼らずに、痴呆や病床の親の介護をするとすれば、仕事をやめ、すべての時間を親のために使わなければなりませんし、十分な資力がなければ生活保護ということになります。 

 

守護の神霊のサポートを無視する、拒否する、頼りにしない、ということは、「力尽きる」ということで、実に愚かな態度といえるでしょう。

守護霊さん、守護神さんはすべてをわかっていて、肉体の人間を全力でサポートしていてくれるのですから、そのサポートを十分に受け入れ、感謝し、肉体生活に活かすことが、賢い生き方だと思います。

そういうお話です。

 

 

 

「自由解脱への道」より

 

運命を修正してくれるもの

 そこで守護霊さん守護神さんがついている。前にやった悪いことが、たとえば一万なら一万の悪いことをしても、その人が「守護霊さん、守護神さん」と思って、守護霊守護神のほうへぶつかって入ってゆくと、このグルグル回っている業想念の潜在意識まできて、そこをくぐって守護霊、守護神の中へ入っちゃうんです。そうすると、業想念の三界をこえてしまって、神さまの世界へ自分の想いが入っているんです。グルグル回っているものも、ちょっとふれるぐらいで、たとえば一万も千万も借りがあっても、それが百か十かで済んでしまうもんです。それを運命の修正というんです。

 運命の修正、要するに運命を直してくれるのは誰かというと、守護霊であり、守護神であり、五井先生なのです。自分の努力というのは勿論ありますよ。だけど、自分自身が意気ばって、自分の短気を直そうとか、意気ばって自分の淋しさを直そうとか、意気ばって悲しみを打破しようとかいうのは、長くつづきません。調子のいい時は出来ますよ。「なにを!」と云って出来るけれども、調子の悪い時はどうにもならないです。調子のいいとか悪いとかいうものは度外視して、調子がいい悪いなんて問題じゃなくて、消えてゆく姿なんだ、守護霊さん守護神さん有難うございます、世界人類が平和でありますように、あるいは「五井先生!」と云ってしまうと、想いがいつでも三界をこえてゆくんです。

 いつも業想念をこえていかなきゃならない。三界というのをこえていかなきゃならないんです。

三界というのは、迷いのある世界のことをいいます。いうなれば肉体界、幽界、霊界の低いところを三界というんですが、それをこえる練習をいつもしている。それが消えてゆく姿なんです。

そうすると空になっちゃうんですね。仏教学者がむずかしい言葉で説くような空が、消えてゆく姿をやると簡単に出来てくるんですよ。知らない間に自分で出来てくるんです。

 そうすると、自分でやったことも、神さまがやってくれたことも一つになって、スッと動ける。

たとえば、歩いてAさんの所へ行こうとフッと思う。ところがBさんの所にも行かなきゃならない。

Aさんの所とBさんの所とどっちを先に行ったらいいか、なんて思って、Aさんの所へ行くとBさんが来てたりして、パッといっぺんに用が足せるようなことが随分ある。

あるいは、義理としてAのほうへ行かなきゃならない。しかし心がどうしてもAじゃなくて、Bのほうへ行きたいと思う。それでBの所へ行くと、Bへ行ったほうがいいことがあったり、Bの家へAが来てたりして、両方いっぺんに用が足せるとか、そういうことはたくさんあるんです。

そういうのはみんな守護霊さんがしてくれるんです。

 この肉体の頭ではそれは出来やしません。何がやっているかというと、うしろにいる目の利く人、遠くが見える人、未来のことが全部見えている守護霊、守護神がみんなやってくれるんです。

だから肉体の人間というのは、どんな偉そうなことを云ったって、今、現在の一瞬のこときりわからないんです。一分先、一秒先のこともわからないんですよ。「一晩あけりゃ朝になって、朝になったら飯を食うだろう」と思うだけです。だけど飯は食えないかも知れないし、わかりゃしないんです。

 そのように、人間の肉体の頭では一秒先、一分先のことも、先のことは何にもわからないんです。暗中模索しているわけです。なんにもわからないけど、わかったような気がして生きているんです。

守護霊守護神は、ところがちゃんとわかっている。霊というのは先のことなどみんなわかっている。

だから霊にまかせるんですね。というのは、守護霊守護神にまかせてゆくと、自分の業、自分の悪いくせもみんなどんどん消してくれる。どんどん消してくれるのは守護霊守護神です。それを他力というんです。それを浄土真宗では 「阿弥陀さまにまかせろ、南無阿弥陀仏」というんですね。

 

 

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五井先生は、当たり前のように宇宙天使と交際し、宇宙子波動生命物理学の知恵を降ろし、どういうように平和運動しようかお話合いをし、というお付き合いをしておられたので、向こうの文明世界をよく知っておられました。そして、神界にあるもう完成している地球もご存知でしたので、後は時間の問題だということです。

 

肉体人間側の想いが邪魔しなければ、最短時間で神界の完成図を写し出すことができるので、だから「空」になることが一番大事だとおっしゃっておられました。

今のこの地球の在り方は、あまりにも程度が低く、スピードが遅く、もどかしくて、不自由で、馬鹿みたいで、地球の歴史を霊的に観て、「馬鹿の歴史」とおっしゃっていました。

 

すさまじい戦争の数、殺し合いの数・・・

戦争につぐ戦争、戦争しては相手を殺し、奴隷にし、搾取し・・・

そして同じことをされる番が自分に回ってくる・・・

英語でいうと 「idiot」といいますか・・・

すさまじい愚かさ・・・

 

しかしこの地球を光り輝く星にする天命を持っているので、命がけでカルマの消滅と祈りの宣布にと働かれていたのでした。

 

五井先生の霊覚では、星々の文明の内容、程度もわかっておられたようなので、宇宙天使とほうんとうに兄弟のように親しく交わっておられたと伺っています。

 

やがて宇宙子波動生命物理学が現実世界に応用されるようになると、宇宙天使がたと同じように、自由自在に命を働かせることができるようになるでしょう。それまでひたすら祈り続けましょう。

 

 

 

 

 

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昨日、ロンドンで大きな火災があり、多数の方が亡くなりました。

心よりご冥福をお祈りいたします。

亡くなった方々の霊界での天命が完うされますように、みなさんでお祈りいたしましょう。

これは、マンションを管理しているほうの愛の欠乏が大きな原因であり、もっと掘り下げれば、過去世からの因縁生の消滅ということだと思います。

 

五井先生の教えは、「守護霊、守護神教」とご自身でおっしゃっておられましたが、この守護霊、守護神の働きを感じ取って感謝している人が意外と少ないのです。

人間という存在は、この魂の親である守護の神霊の援助がなければ、一瞬も生きてゆけない存在なのです。最近、つくづくそう感じています。

また霊界に移行した際にも、すべて面倒見てくれるわけですから、常に感謝して意識を通わせていることがとても大切です。

 

 

「神と人間」より 

 

神は愛である。愛であるから、守護神を我らにつかわし、守護霊を任じて、人間世界の悪因縁を消滅し去ろうとしているのである。

  守護霊を信じ、守護神を想い、神に感謝しなければ、いくら因縁の転回や、心の法則を知ったところで、人間は永久に救われない

  こちらが知っても知らなくとも、守護霊はただ、黙って人間を守っていてくれる。

  夢などはその顕著なるものである。

  夢は何故見るか、この問題は世界の学者が種々と研究をつづけているのだが、いまだに、はっきりとわかっていない。

  夢とは人間の業因縁の消滅する姿である、と私はいう。

  想念は必ず現われる。この法則は動かしがたい法則である。この法則のままに、想うことがそのままこの肉体界に現われたら、この人生は、もっともっと以前に滅びていたに違いない。

  何故ならば、肉体の人の心を奥底まで解剖すれば、愛は情に流れて執着となり、恨みは恨みを重ね、悲しみは悲しみ追い、闘争心は常に戦火を絶やさず、情慾の業火は至る所に燃えひろがり、殺傷事件は眼に触れるあらゆる個所に展開されていることは明らかである。

  この想念の感情を、肉体脳髄の念の休止している間に、巧みに夢として肉体世界と離して、描き出してしまうのが守護霊の偉大なる一つの仕事なのである。

現れれば消えるのが想念の性格であるので、夢として描き出されてしまえば、その想念は消えてしまう。肉体世界に現われた場合は、その現れが、また頭脳にキャッチされて、再び同じ想念を幽体に記録してしまうが(それでも現われれば幾分づつか、消えてゆくのである。)

夢の場合はその想念が巧みに戯画化されていて、いったいなんの想念であるか判然としないので、醒めた後で、いくら肉体頭脳で思ってみても、その夢に現われた想念は再び幽体に記録されることはない。

  その想念は夢によって一度断ち切られるので、業因縁がそれだけ消えたことになる。

  たまたまはっきり憶えている夢もあるが、守護霊が予知的に、その人に示す夢(霊夢)以外は、その夢の画が、やはり、その想念の内容を察知できぬように描いてあって、判然としない。

  フロイドという精神分析学者は、この夢をすべて性慾(リビドー)の現れと解釈していて、夢に現われる物質、風景、氏名等によって、それぞれの内容を解剖しているが、私の述べていることとはまるで異なる解釈で、人間の救いには、あまり役立たぬものと思う。              

  判然としない夢は、そのまま判然とさせる必要はないので、ただ、簡単に、自分の悪想念が肉体の悪い運命となって現われるのを、守護霊がその夢と現わして消して下さったのだ、と感謝すればよいのである。

  このことを知ることは大きな救いになると思う。

  この守護霊の働きは、真に感謝しなければならぬものである。

 守護霊は、幽界、霊界、肉体界と三界を通して働ける者なので、幽界において、できつつある運命、すでにできあがって、時間の経過につれて自然に肉体界(現界)の運命として現われようとする悪想念の結果(因縁)をあらゆる手段をもって、その人間の運命として現われぬように修正してゆく。

  この守護霊の働きを、知っている人、感じている人は実に少なくて、肉体人間の大半が、この影の働きを知らないのである。守護霊はその肉体人間が、守護霊の守護の力を知ろうと知るまいと、それは問わず、ただひたすら、運命の修正に全力を挙げているのである。いわゆる菩薩行なのである。

  いったいどういう風に守護霊が運命を修正してゆくかというと、種々の方法がある。

  例えば、転覆した汽車に乗るベきを、忘れ物をして乗り遅れたため、生命の危機を逃れた。という場合、物を忘れた、この忘れ物に守護霊の働きがあるので、守護霊の念が、その人の肉体頭脳に働きかけ、その人の頭の回転を瞬問的に阻止して物を忘れさせるのである。

また他の人を使って、自分の守護する人間を助ける場合もある。

  例えば、ある人が、何か急に友人を尋ねたくなり、別段に用事もないのに、急用でもあるような気持で、その友人Aを尋ねると、友人A一家は、事業に失敗して、まさに一家心中の手前であった。驚いたある人は早速この友人Aのために一肌脱いでやることになった。

  この場合、Aの守護霊は、Aを助けるため、Aと波長の合う友人のある人に、念を送り、Aの家へ引き寄せたのである。この友人なら、Aを救ってくれる、ということを、守護霊は、はっきり知っているのである。

 この二つの例のようなことが、常に人間世界の生活の上に起っているのである。

  守護霊はその被守護体の睡っている時から醒めている時、休んでいる時、いついかなる時間にも、この人間を守りつづけているのである。そして、この人間の発する悪想念の蓄積を浄めるため、たゆまざる努力をつづけているのである。もっとも、肉体界(現界)の救いとしては、この人間にでき得るかぎりの努力を、経験をさせつつ、いざという時に助けるのである。

 ここで、大いに考えねばならぬことは、守護霊にとって一番働きやすい、肉体人間の状態は、常に守護霊の方に心を向けていてくれることである。

 守護霊の存在のいかに重大であるかを知って、常に守護霊に感謝を捧げている子孫ほど守りやすい肉体はないのである。

 もっとも守護霊の生前の氏名など知る必要はない。

守護霊が懸命に、浄めの念を肉体に送っても、その肉体の心が全然他をむいていて、一向に守護霊のほうに心を向けなければ、やりにくくて仕方がない。

  やっと睡りの世界に肉体が入った時、無心になった肉体脳髄から、悪想念の蓄積(その時々の因縁)を夢として消すことより仕方がない。

  そこでこうした人を守るためには、先程の二例のように、他の人に送念して、他の人から注意や、助太刀をしてもらうことにする。この時の相手は、必ず過去世において、守護霊同志、または、肉体人間同志が、因縁浅からぬ者でなければ駄目なのである。

 しかし時には、その被守護体の人間が、あまりにも業因縁が深く、迷(無明)で分霊の光をほとんど覆ってしまっている場合には、いかに守護霊が全力を挙げて浄めたり、奔走したりしても、通じない。仕方がないので、守護霊は、守護神に救援を願うのである。

  すると守護神はこの願いを聞き入れて、大いなる神の光を、その肉体人間に放射する。 

この光は業因縁を通して、分霊に通じ、分霊の光の力が増してくる。この時、なんとなくこの肉体人間の心(脳髄)に宗教への関心が湧いてくる。

この場合、たんにご利益信心的な心であるかも知れない。それでもよいのである。

この人間にとっては、その気持の起ったことが、一歩も二歩もの進歩なのである。

 その時、守護霊は、その機会を逃がさず、その人間に適当する宗教に、その人間を導くのである。また、ある場合は、守護神の光によって、一挙に幽界に転出してしまうことがある。

 いいかえれば、急死してしまうことがある。それは、そのほうが、この人間の進歩に都合が良いからである。

  以上のように守護霊は肉体人間と一つになって、人間を善導しているのである。

 人間が、自己の運命を改善し、幸福になりたいとするならば、ただ、守護霊に自己の運命を委せればよい。守護霊さん、ありがとうございます、守護神さん、ありがとうございます、と常に感謝していればよい。この心が神への全託なのであり、守護霊の活躍を充分にさせる一番よい方法なのである。

  この心でいれば、その人の行動はおのずから、調和した整ったものになり、生活は楽しく楽になるに決まっているのである。何故ならば、守護霊、守護神、と真っ直ぐつながり

、そのつながりによって、その光によって、業生の因縁因果の過巻からいつの間にか離脱でき、分霊本来の力が直霊(神)につながり、肉体をもったままで、人間神の子の実感を真に体得できるのである

 守護霊を知らず、守護神を知らず、ただいたずらに、精神統一法をしたり、座禅を 組んだりした場合、その精神統一で、やや空になった肉体に、幽界の魂塊が威応してくる場合がある。

こうした場合、守護霊により、自然法爾に整った、生活態度、いわゆる明るい楽しい雰囲気とは違って何か、非常識な、他人に不快を感じさせるような雰囲気を持つ人間になる。(このことについては次章で改めて述べることとする)

  私は、座禅したり、静座したりして、心を空にする行法を採らない。

 空観する場合は、良き師匠がいなければ危険である。

 

私は、ただ、素直に、守護霊、守護神に感謝してその人、その人の生活の業に励んだほうが楽に、自然に、神につながり、悟れる、と信じている。

いかなる困難な事態がその人の前に起ころうとも、守護霊の守りを信じ得る人は、必ずその事態は光明に転ずるのである。

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

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「責めてはいけません」より

 

 好き嫌いということ

 結婚は人生の重要なポイントです。自分の好みに従って、好きな人にお嫁に行ったり好きな人を貰ったりすることにきめた方がいいか。好きでも嫌いでもないけれど、上司の人が決めたから仕方なくなく涙をこぼしてでもいった方がいいか、その結果は後にならなければわからないでしょうね。

 実をいうと、好きというのに二つありまして、魂的にもうピタッと吸いつけられて好きになる場合と、いわゆる顔形、あるいは声に出る言葉とか態度、そういうもので好きになる場合もある。

 それから、なんとなく、たゞなんとなくなんとなく、一目見た時好きになったのよ(笑)というようなものもあるし、いろいろあるんですよ。いろいろあるけれども、人間の好き嫌いというもの程当てにならないものはないのです。よくあるんですよ、恋愛でもって、誰が止めても止まらなくて、もう天下にこの人程いい人はないというんで、いった人がありましてね。大分あるんですよ、そういう人が。

一年位して、泣きの涙で私のところにくるんです。だから私が“あなた確か恋愛結婚なんでしょ。好きで好きでしかたなくていった”というと――ええそうです。けれどもう嫌いでたまりません(笑)

   どうして一年の間にそんなに変化があるんでしょうね。

 それは好きということが、本当のものではなかった。魂が好きっていうんじゃなくて、形の世界の、丸顔だったから好きだったとか、四角いから好きだ、四角くて好きだかどうか知らないけれど、そういうんでね。目がきれいだとか鼻が高いとか、それだけで好きになってしまうのですね。好き嫌いというのは本当にわかりません。

 ですから一番問題なのは、自分の心を澄まして、心がすっきり澄んだところでね、見てそれで好きなら、それは間違いないんだけれど、大体好きか嫌いか決める時には澄んだ気持じゃなくて、のぼせてるんです。(笑)冷静な気持で恋愛するなんていうのはないからね。(笑)

 そこで一番大事なのは、自分のこの頭の中の好き嫌いというものと、それから魂いわゆる私がいっている守護霊守護神が好き嫌いというものとが合体して、自分も好きであり、守護霊守護神も好きであるという、そういう形の処へいったり、もらったりすればいいわけなんですね。

 

 素直さが必要

 ところがそれが自分ではわからないんです。わからないからどうしたらいいかというと、素直な気持ということですね。素直に素直に運命に従ってゆく、という形。現われて来たものはみんな自分にとって必要なものなんだ、どんな悪そうに現われても、それはやがては自分の為になるものなんだ、というような素直さですよね。そういう素直さがやっぱり必要なんじゃないですか。恋愛の場合でも、恋愛してしまってからじゃ間に合わないと思うんですよ。

手遅れだと思うんです。

 恋愛してしまうと、はたからなんといったってもう好きだからしようがないんですね。

 それで今頃はなお二十になれば自由なんですから。二十になると、親がどういったって私はいくわ、といえば、家を出てもしかたがないでしょ。だからそういう風に社会がもうなってしまっているから、恋愛しないうちが大事なんですね。

 今質問したような人は、もう子供さんがあるから、今度は子供さんのためにきいているわけなんですがね、そういうわけで、自分が好きにならないうちに、要するに子供のうちから、素直に天に従う、天の心に従うというような生活を、知らないうちに身につけておくことが、一番結婚の勝利者だと思うんです。そうすると、自然に直感力でもって、いい人わるい人、自分の魂に合う人合わない人というのがわかるんです。魂にピタッと合う、魂的な恋愛が出来るわけなんです。誰か親が決めてくれたり、知った人が決めてくれるよりも、魂的な恋愛なら、それが一番いいと思うんです。

 

 好き嫌いというのは当てにならぬ

 けれどもそのためには、どうしても自分の心が、自分の我欲というこの頭の中だけの想念で、好き嫌いと決めるようなそういう習慣がついている間は、恋愛は危険だと思います。この頭だけの好き嫌いというのは、本当にあてになりません。

 若い人には、もうくれぐれもいっておきますがね、顔形が好きだとかあの人は好いたらしいとかいうこと程、おゝよそあてにならないものはありません。恋愛ばかりではありません。

 交際の場合でもそうですよ。四十五十の大人が、昨日まで、あの人はとても立派な人で、私のために非常にいいし、誰にでも親切で、とてもいい人です、ってほめた人がですよ。

 今度翌月になって  “あの人どうした。元気ですか”  ときくと  “ええあんな人、あんないやな奴はないんですよ。あんな自分勝手でどこが好きだったんだか、サッパリわからない”(笑)

 私はよくそういうのをきかされるんです。だから、人をけなすことも勿論いけないけれども、やたらに人を賞めるもんじゃありませんよ。人をほめておくとね、今度けなす時困っちゃう。(笑)だから、私はなるたけ人をあまりほめもしなけりゃ、けなしもしないことにしてるんです。

 人間というのは豹変するんですよ。因縁が合ってる場合、要するに前生の借りかなんかありましてね、一所懸命片方がこの人に尽してくれるわけです。借りを払ってしまうと、もう当り前になってしまう。当りまえの心で見ると、急にこの人がいやになったりする場合があるんです。     

あちらがいやになるとこっちもいやになってくる。そうすると今迄ばかに尽してくれた人が、今度月が変ったら尽くさなくなってしまってね、自分に疎遠にしますから。そうするとこっちが“今迄あんなに私にちやほやしていたのに、なんでちやほやしないんだ”、という風に腹がたってくる。そうするとお互いがうまくなくなってくるわけなんですね。

 そういうのを因縁性の交際というんです。

 それで、結婚の場合も因縁性の結婚ではだめなんです。そこで私はよく、うちの娘の縁談をって、きかれるのです。そうすると二つも三つもこうあるわけなんですね。

 私が、あの人はこういう処がいいけど、ここの処が悪い、とかいうわけです。

 で二人ともいいけれど、まあどっちでも自分の好きな方を選びなさい、って、いい場合にはそういう風にいうんですよ。そうすると向うの人は質問するんです。

 “先生、結婚というものは生れた時からきまっていると思います。決っているのに、どうして先生はこの人だといわないか”とこういうんですよ。

ところが決っている縁談というのは、大旨、悪い場合が多いんですね。

 

 夫と妻の磨き合い

 この世の中というものは、魂を磨きながら神様のみ心を現わしてゆくわけです。

 要するに過去世の業を消しながら、だんだん神様のみ心を現わして、地上天国を創ってゆくわけなんです。だから因縁が消えてゆく姿というものがあるんですよ。因縁を果していかなければならない、業を果していかなければならないものが、どうしても出てくるわけなんですね。        

 それで果していった後で、本心が開いて本当の世界が出てくるわけなんです。だから結婚の場合でも、一番心を磨いてくれるものが、妻であり夫なんですよ。あんまりいい結婚をしてしまいますと、夫は妻をいたわりつ、妻は夫を慕いつつ(笑)という風にね、あんまり仲がいいと、もう二十で結婚しました。四十廻って五十になって、ますますよくなって、六十七十になってなおいい、なんてそういう結婚だとね(笑)心が磨かれないんです。

 あんまりよすぎて、ホカホカしちゃって。(笑)

 魂を磨くためには、刀でもそうですよ。日本刀を磨く時に、灼熱の火で焼いて、柔かくしてトントンうつでしょ。そして最後に綿かなんかでやるんでしょうけれど、初めは焼いたり叩いたりするんですね。そうして鍛えられるんです。それと同じように、人間もあんまりホカホカホカと、はじめから生れた時幸福で、結婚生活も幸福で幸福でしかたがなくてね、死ぬまで、ということになると、魂は鍛えられないんですよ。

 そういうことを守護霊守護神さんは知っているのです。知っているので、守護霊守護神さんほど肉体人間側から守護霊守護神さんを思わない場合、守護霊守護神は仕方がないので、その場合に消えてゆく姿を実演させるわけなんです。

  それで大体前生の因縁的に結ばれるものは、魂的には近いのだけれども、因縁で相擦れあうようなものを選ぶのですね。それで結婚させるわけです。

   擦りあわせておいて、一番身近かですからね。妻と夫と、親と子と、親子、夫妻というのは離れられないですよ。それはいつでもいつでも一緒で擦りあうわけです。いやだと思っても、どうしても見なけりゃならない。口をきき、顔を見なければならない。そこでどうしても擦れあい磨かれて、嫌でも応でも磨かれて、人間というものがわかってくるわけなんですよ。

 

 守護霊守護神がピッタリと合う人を

 そこで、種々と経験して、あゝ愛というのは、要するに自分だけのことを思うんじゃなくて、相手のことを思わなければならない、とかいろんなことがわかってくるのです。擦れあって、だんだんだんだん立派になってくるのであって、一番立派になるための擦り合い、いわゆる砥石のようなものに妻や夫が一番いいわけなんです。あるいは親子ね。つまり夫婦というものは、大体において百組の内の九十何組というのが、大体あんまり(笑)仲よくないんですよ。

   私つらつら観じてみるのにね。(笑)

 それで大体我慢したりしてやってゆく、我慢するために忍耐しなければならない、忍耐するのも 辛い、何とかならないかというんで宗教の門を叩いたりなんかする場合が多いんです。     本当は合わない、いわゆる魂が擦れ合う人をわざと選んじゃったりして、そういう風に使ってしまっているわけなんです。そこで私か霊覚でみた場合に、あき」の人はこのまゝいってしまえば、必ず六〇点ぐらいな結婚をしてしまって、擦れたり擦れ合ったり、出ようと思ったりひっこんだり、いろいろとやりながら一生を送るんじゃないかと思うでしょ。

 そうすると私は一遍あった縁談をこわしちゃう、ああそれはだめですってね。

 一遍決っている縁談でもこわしちゃって、ご破算にして、さあ今度新しく選んでいくのですよ。新しく選んで一番魂のよく合う、波の人を選ぶわけです。だからああこの人も合うな、この人もこっちの面で合うな、百%合うということは殆んどないんですからね。

 九〇%か八五%か、それでこの人もこうだ、こっちの人もこうだ、それでどっちを選ぼうかと、こういう風になってくるわけなんです。そのように説明してあげるんですよ。

 自分の好き嫌いというものを超えて、魂の合う、いわゆる守護霊守護神が好んだ、分霊の自分の本心が合うという人を選はなければならない。だからやっぱりのぼせ上ったんじゃだめです。のぼせないで確かめる。それが打算でソロバンづくで、あの人は東大を出て、月給が今二万三千円とっている、家柄がどうとか…だからいいとこういう風にいったり、親が偉いからいいと、そういう客観的な条件だけで人を選んだら危いんですよ。

  客観的な条件じゃなくて、やっぱりその人の人物というものがいいか悪いか、冷静にみて、自分の心と合うか合わないかということを、見なければだめですね。たゞボヤーッと顔が美しい汚いとか、学歴がいいとか、お金があるとか、というんではこわいですね。

 

 縁談ほどむずかしいものはない

 相談されて一番私は困るのは、学歴もいい、家柄もいい、男振りもいいという人がいるわけですね。そういうのをもってくる。お母さんはこれはもう先生がいいというに決っている、と思って娘のために持ってくるわけ。娘さんにしたって、家柄も学歴もいい、顔も美男だとしたら、これはもうこたえられないからね。(笑) いいと思ってくるでしょ。

  そうすると私がみると悪い場合もあるんですよ。困っちゃうんです。いい、といってやりたくてしようがないのだけれども、これは普通からみればいいのだろうし、お母さんももらいたいんだしね、娘もいきたいんだしね、いいといってやろうかなあ、と思うのだけれども、やっぱりだめな場合があるのです。それは結婚すれば駄目になってしまう、というそういう縁があるんです。

 そうすると私は涙をのんでね、さあね、といいながら、止しましょ、というんですよ。 

 そうすると先生を一遍でうらんじゃうんです。(笑)先生はなんでも悪い悪いっていう、なんてね。私は恨まれるけれども、やっぱりいけないものはいけないと断わらなければならない。

一番いやですよ。形が整ってて悪い縁談というのは、それはその人が他の人をもらえばいいわけだけれど、その人とは合わない。要するにいい人といい人とでも合わないのがあるのですね。どこからみてもいい立派な男性と、立派な女性であっても、結婚すればだめな場合があるのです。不幸になってしまう場合がある。そういうのは普通の人にはわからないんですよ。

 どこが不幸になるかというと、波長があわないのですよ、同じいい人であっても。

 例えば色の場合でも、紫と赤とすれば、これは両方が生きない。紫の中に赤が入っているからね。生きないわけです。片方が死んじゃうわけです。そういうようなのがある。

 いい色であればある程、いい人であればある程、その長所が強いし、その長所と長所がぶつかるんじゃなくて、短所もあるわけなんです。誰だってね。そうすると短所と短所がぶつかると余計にうまくなくなるんですね。そこで片方がとてもすばらしい男性であっても、片方が素晴しくない女性であっても、合う場合もあれば、あんなぐうたらのオヤジの所へよくあのいい奥さんがつとめてるな、と思ってもね、それで結構当人達は満足している。はたからみてやきもきするのは馬鹿馬鹿しい。そういうのもあるでしょ。一人を個人的に見れば、百点あるいは九五点の人であっても、相性としてみれば悪い場合もあるのですね。そういうところがとてもむずかしいのですよ。だから縁談ほどむずかしいものはない。

 

 これから結婚する人へ

 これから結婚する人は、守護霊守護神さんにお願い致します、私共の天命が完うされますように、といつも頼んでいて、頼んだ上において、今度は経験した人の参考的な意見などをきくといいのです。

 そして自分の好みと、先生なら先生にきくのが一番いいんだね、先生のいいというのと、親などのいいというのと、この三者揃うような縁談をやっぱり選んだらいいでしょうね。

 この頭の中の、好き嫌いというのはおおよそあてになりませんね。

 だから一番初めに頭の中の善い悪いというもの、好き嫌いというのを一遍捨てる練習を、常にしておかないと駄目でしょうね。捨てる練習をして、素直な気持で、スーと進んでゆくべきなんですよ

 昔の結婚で、いわゆる見合結婚がありましたね。相手を自分が知らないで、家と家とが結びついて結婚した。しかし昔はそれでもまあよかったわけ。それでも家と家とが結婚しても、嫁しては夫に従いですか、一遍いったら絶対に帰って来てはならないんですからね。帰って来られないようになっていたから、それで我慢し忍耐してやっていた。しかし今はそういうわけにはいかない。

 今はもう自分の自由ですからね。我慢に我慢して嫁いだままでいるってことは、殆んど考えられないことでしょ。だからやっぱり出やすくなっているわけです。出やすくなっているから、いいことを幸いに安直にいって帰って来たんじゃ、なお困るんですよ。

 そこで、やっぱり自分の心というものを澄まして、きれいな心にして、透明に、要するに相手が直感的にわかるような心にならなきゃいけないんですよね。そのためにはやっぱりこの統一会は必要なのです。統一会がどうして必要かというと、統一会は自分の我というもの我欲というもの、自分の趣味趣向というものを、一遍浄化するのです。趣味趣向があっていけないというんじゃないですよ。

 自分が好き嫌いがあっていけないという意味ではないのです。好き嫌いというもの、趣味趣向というものが、浄化されて浄まってくると、正しいものになってくるわけです。人を傷つけたり、自分を傷つけたりするような、趣味趣向というのがなくなってくるわけですね。

 いわゆる競馬競輪をやったり、ばくちをやったりするのが趣味だっていったって、そりゃあんまりいい趣味ではないですね。そういう趣味がだんだんなくなってくると同じように、まあお酒をのんでも、晩酌で少しやる位いならいいけれども、それが妻をぶんなぐったり、子供を怒鳴りつけたりするようなお酒になったら、お酒は困りますよ。

 少し飲めば血の循環がよくなっていいかも知れないけれども、過ぎては及ばないでしょ。

 そういうように趣味であっても趣向であっても、それが浄化されてくると適当になってくるわけですよ。それと同じように縁談の場合ね、妻を選ぶのでも夫を選ぶのでも、心がスッキリ澄んでいると、自分で選んだ人が神が選んだ人と同じなものになってくるのです。だからチョコチョコ好きになっちゃだめだ、とこういうわけなんですよ。

 

人間の尊厳性を高く求めよう

この頃の女の人や男の人は、昔だったら、好いたり好かれたりしてもね、あゝ好きだなあと思っても、なかなか近よらないですよね。手紙出すことも控えちゃうし、話しかけることもしないで、そのまゝ通ってスーと他の処へいってしまうわけです。それは一長一短で、それで悪い場合もあるのだけれども、今の人達は俗の言葉でいえば、惚れっぽ過ぎますよ。男の人と女の人がすぐ好きになったり嫌いになったりする、本当に安直に好きだとか嫌いだとかになり過ぎている。それは自由のはき違いなのですよ。

 もっと自分というものを高く維持しなければだめです。自分の尊厳性、人間の尊厳性というものを高く求めてなくてはね。安直に好きになったり嫌いになったりするというのは、自分を惨めにして自分を馬鹿にしているというのと同じなんです。そういうんじゃなくて、もっと自尊心をもって、本当に見定めなきゃいけないですよ。見定めるまで辛抱するぐらいな、辛抱強さがなければならな手あたりしだいに、側にいる人が皆好きになったり嫌いになったりする人がある、本当に若い時には。だから二十か二十二一の恋愛なんていう程、あてにならないものはないです。側にいて親しく交際う者が好きになるんですからね。近づく機会のある人が好きになってくる。それではだめなのです。

そこでやっぱり恋愛というよりは、親とか親戚とか先輩とかが薦めたもので、しかも自分がいいと思うものを選んだ方が、男の人にとっても女の人にとって1いいと、私は思うのですよ。というわけで恋愛講義になっちゃった今日は。

 

 五井先生や長老導師の先生に結婚のご相談をされた方はたくさんおられると思いますが、結婚ほど難しいものはない、と先生方も悩まれていたと思います。

永安先生のところにもかなり恋愛、結婚の相談に来られていましたが、なかなか理想的な出会い、恋愛、結婚はないと感じています。ほとんどが磨きあうための結婚だと思います。

魂から見た恋愛、結婚に詳しく書かれていますので参考にしてください。

また、肉体の人間は利害、小智才覚で動きます。

女性は「経済力があって、ハンサムで、性格がよくて、将来性があって・・・」と、そういう男性を望み・・・

男性は「気立てがよくて、優しくて、家庭的で、包容力があって、スタイルがよくて、かわいくて、・・・」、それに近い人で・・・と思っていると思います。

しかし、その相手が自分に魅力を感じてくれて、お付き合いしてくれればいいですが・・・・

また、そういう理想的な伴侶では自分が磨かれません。

常に守護の神霊に天命の完うを祈り、そこから直観にしたがって総合的に判断し、流れに乗って進むのが一番だと思います。

肉体人間ですから、相手も自分もお互い、欠点も不完全なところも、経験のたりないところもいろいろあります。まあ、それを大きく受け入れ、消えてゆく姿と理解し、自分の鏡となってくれたことに感謝することで調和の姿が現れてくると思います。

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

 

 

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戦争が始まる気配がありますが、その気配を消す方法があります。

それが祈りなのですが、確信をもって盤石の信念で前進する必要があります。デモに参加しなくても、抗議活動しなくても、国連で演説しなくても、寝ていても世界に平和の光を送ることができ、戦争を止めることができます。

「こんなやさしいことができないやつはどうかしている」と五井先生は言っておられました。

しかも自分も徳を積めるのですから、こんなありがたい話はありません。

 

 

 

「光明の生活者」より

 

寝ていても出来る、起きていても出来る、ご飯を食べていても出来る、何をしていても出来る宗教なんです。祈りなんです。こういうのを本当の宗教というんですね、それを私は教えている。

 

祈りは光明心

 

  先生がそういうんだからいいや、世界平和の祈りをやりましょう、世界人類が平和でありますように、と子供もやってます。お母さんが世界人類をやれっていうから、なんだかわからなくてもやっているけれども、世界人類が平和でありますように、という祈りの中には、心の中には光明心がある。平和っていうのは光なんだから調和の心がある。

だから自然に 

″世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私達の天命が完うされますように

守護霊さん守護神さん有難うございます" 

といっていると、いっているだけで、思っているだけで光明化してくるんです。

  それはなぜかというと、祈りの言葉はすべて光明心から発しているんです。悪い人は世界人類が平和で、とはいわないんです。世界人類が平和でありますようにと思うことはもう良い心なんです。

そしてその祈りというのはどこからきたかというと神さまから来た。神さまが私を通してこれをやれと、これをやればお前さんの周囲が必ず光明化するんだよ、お前たちは光り輝くんだよ、その周囲がみんな良くなるんだ。それが重ってゆけば世界が良くなるんだよ。戦争しようとする想いもスーっと光で消されて消えてしまう。自分だけが儲けようと思う心も消えてゆく。だから一人でも多く、一国でも多く世界平和の祈りをすれば、世界は本当に平和になるんだ、だからやりなさい、というふうに神さまがいっているわけです。

 
 
世界人類が平和でありますように
May peace prevail on earth
 

 

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