tablaboyの道日記

祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように


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とてもすばらしい記事ですので、読んでみてください。

世界はますます混沌として、滅びそうな状況ですが、それに反比例してどんどん地球の波動が高くなり、浄化が進み、いよいよ宇宙子波動生命物理学が世に出るのが近くなってきている感じがします。

 

世界人類が平和でありますように

私達の天命が完うされますように


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この世界平和の祈りの一番と特徴は、個人が救われ、光明を得る道と、世界が平和になる道が、単純な方法で誰にでも同時に成道できる、ということだと思います。

それでないと、とても間に合わない状況に地球があります。

祈って神様の中に入ることが、そのまま地球に光を振りまいて、人類のカルマを消滅させ、新しい科学が誕生できる土壌を作り上げる。

それが、”世界人類が平和でありますように”という祈りで成就できる。

この単純明快さがとてもとても素晴らしいのです。
五井先生は予言というものをとても嫌っておられましたが、
 
1.世界はかならず平和になる。それも最小限の犠牲で平和になる。
2.宇宙子波動生命物理学が完成し、あらゆる武器を使えなくし、人間の想念を科学的な装置で浄化させる。
3、霊界テレビのようなものができ,、神霊の世界に移行した家族と自由に話をすることができるようになる。
4.守護霊、守護神、宇宙天使方の物質化がなされ対面できる。
 
上記は予言されておりました。
 
「みんな救われている」より
 

あなたが今、貧しい中で苦しんでいる。そういう生活も過去世の神を離れた想いが、そこに現われて消えてゆく姿なんだ。貧乏だ、不幸だという想いが頭へ出てきたら、その想いのままでいいから、“守護霊さん守護神さん有難うございます。世界人類が平和でありますように”……というふうに、世界平和の祈りの中にその想いを持ってっちゃう。そうすると貧乏に把われる想いがなくなる。怒りっぽい性質なら、カーッときたらそのまま“世界人類が平和でありますように”というふうに思いなさい。

そうすると怒りっぽい性質もだんだんなくなる。そういう習慣をつけておきますと、そんなこと出来ない、と言って思っているうちに、やっているうちに出来るようになってくる。

 そうすると怒りの想いが出てきても、それが処理できるようになる。世界平和の中に転換しちゃうのですよ。怒りの想いを掴まないことになる。恨みの想いが出てくる。世界人類が平和でありますようにへと祈りのほうに持っていってしまうと、祈りは光、本心の光だから、神様の光だから、その中に入って消えてしまう。恐怖が出てくる。こわいこわい、とどうにもならなくなってくる。そういう時に、“世界人類が平和でありますように”と、祈りの中に持ってってしまう。こわい時には、“世界平和”じゃ間に合わない時がある。

そうしたら世界平和の祈りを提唱している五井先生がここにいますから、五井先生!っと思っちゃえばいい。想いつづけると、短い時間でその恐怖が消えてゆきます。

 

消えてゆく姿は無理のない教え

 私の教えているものは、すべてやさしく想いをなくさせるのです。この世を暗くしている想い、自分のいのちの輝きを遮っている想い、あるいは人類に障っている想い、そういう想いは何かというと、自分を守りたい、人より自分が偉くなりたい、得をしようという想い、個人の場合も国の場合も同じです。

そういう想いを一先ず神様にお返しして、神様のほうから、自分の天命が完うできるように、日本なら日本の天命が完うできるように、そうしたい、というのが私の念願です。

 そうすると個人の祈りでありながら、日本の祈りであり、世界の祈りになってくるのですよ。

そういうのを祈りという。家内安全、商売繁盛をやっているのは、ただ単なる個人の我欲でしょ。

だからそんなものは長く続かない。それで不安がなくならない。観音様や成田山へおまいりしたって、ちょっと自分の意識をごまかすだけで、不安はなくならない。地震がぐらぐらと来ればワーッと飛び出したくなっちゃう。大水が来れば逃げ出したくなっちゃう。そういうのは我欲の念力だからね。

 神様がいつも守ってくれて、自分は神様の中にいるという想い、いつも世界平和の祈りをやっている想い、いつも世界平和の祈りをやっていると、光がこっちに入ってきて、自分の本心が開いているから、それだけ恐怖の想いも消える。

 
世界人類が平和でありますように
May peace prevail on eartyh

 

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  ここまで「私を呼びなさい!」と保証している聖者を私は知らないのです。

それじゃ自立できないよ、というくらい「困ったら五井先生!と呼びなさい」とおっしゃってくださいます。普通、宗教の教祖と呼ばれる人たちは、自分の責任を回避しようと、「私の教えを実行していないからだよ」という風に逃れる人が多いと思いますが、五井先生という方は神(五井の大神様、五つの直霊)の化身であられたので、言葉の責任を全部とれる権能をお持ちであったと思います。それでないと「私を呼びなさい!」ということは、霊的な感受性のお持ちの方はわかると思いますが、自殺行為なのです。

ご縁のある方は遠慮なく五井先生をお呼びしましょう。

 

 

「光明の生活者」より

 

私はどこへでも現われる

 

  私は理屈なんて云っちゃいないんだ。やさしいことばかりいっていて、ポンポンと浄めているうちに、みんな仲良くなってくる。だから皆さんは、私に会える間はかまわず私に浄めてもらい、もし会えなくなれば世界人類の平和だけ祈っていればいいのです。

私にもし会えなくて、肉体がみんなに会えなくなる時には、チャンと現われます。

  この間、ある女性が昔、知り合いだった神道系の行者さんのところへ、何か用があって尋ねていった。そしたらそこにもう一人いて、何か行をやっていた。あなたは霊媒の素質がある、霊媒になりなさい、というんですって。その人は嫌だゝといっていたんですが、無理無理坐らされた。合掌しろといったから合掌した。途端に手がピューッと上っちゃったんです。

当人はどうなることかと思った。ところが眼が開けられなくてどうにもしようがないんです。神がかりになってくる時は、どうにもしようがない。眼をつぶっちゃって、手が上っちゃってどうにもならなくなった。そしてエーイゝと気合が出てくるんですね。神道の行者が、サァお懸りになった、と思ったわけね。その人は五井先生五井先生と念じていたんですが、神懸りになった。

行者は「お懸りになったのはどなた様でございますか」ときいたんです。

これは審神するときの常識なのです。そしたら自分は云おうと思わないのに「五井昌久」というんだって(笑) あゝそうでございますか、どちらにお住いですか、ときいたら「神界の最上級」と云ったんです(笑) では色はどんな色ですか。「金色」と自分が勝手にいうんですって。

今はどちらにお住いですか。「どこにでもいる、どこにでも現われる」私の声そのままになって「さあなんでもお聞き下さい、なんでも教えてあげますから」とこういうんですって。

行者さんが「〇○さんの息子は一寸家を出ているんですが、今どこにいましょうか」ときいたわけ。そしたら「どこにいるか、それは聞かなくてもいい。知らせる必要もない。

この子は今、一生懸命働いているから、今に立派になって帰ってくるから心配するな」と答えたんです。それで話は終ったわけ。

 

      神霊がぎっしりつまっている

 

 そのように五井先生が現われちゃったんです。本当かウソか。本当なんです。

変なものが寄って来ては困るんで、こちらから行って助太刀したんです。五井先生が本当にいったか、霊団の一人がいったか、それは別です。私の霊団にはたくさんいるんです。

お前一寸行ってやれ、ハイよござんす、とバッといってくれるんです。

ピラミットのようにこの霊団の中には上から下までズーっと揃っているんです。この役は誰々という風にね。今日の助っ人は、大したことないからお前行け、まだ守護霊の中に入りたての新参者が行って助太刀してくる。あれは一寸手強いからこの辺が行ってくれ、ハィと行くわけよね。すぐ飛んでいってちゃんと現われてくるのです。そして一役を果してくるんです。

  この婦人の場合もへんな霊媒にされては困るから、バッと防いでくれたのです。そんなところへは行きなさんな、と私にいわれたけれどね。そういうわけで、いざとなると五井先生は幾人にもなって、どこへでも現われるんです。

だから五井先生と呼べば必ず防いでくれます。絶体絶命でも防ぐことを私は保証しますよ。本当に真剣に呼ばなければダメですよ。どんな呼び方でもいい、便所の中で呼んだって行きます(笑)。

中村あいさんの坊やみたいに、うんちがつまつちゃって、便所の中で、五井先生五井先生、ポクのうんち出して下さい、と祈ったら、うんちが出たというんで喜んで私のところに来ましたけどさ(笑) このくらい無邪気ならどこでも呼ぶでしょうね。

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五井先生の言葉は、宝の山のようなもので、あとはどれだけこちらがその言葉を「宝」と認識し、心の中で光らせるか、にかかっています。光らせれば、潜在意識が光に満ち、周囲(接する人、縁者、霊系統の魂の家族)を自然に照らしていると思います。”本心”という詩では、とても格調高く、奥深い、般若心経の世界を光り輝く言葉で謳いあげられています。

 

 

 

「素直な心」より

 

 

 詩「本心」を続もう

  親鸞がいる間はよかったけれど、親鸞が死んでしまうと、浄土真宗なんていうのはおかしくなって、ただ死骸に念仏をあげているだけ、ということになっちゃうんですね。私の母親のお葬式の時に坊さんが来て、お経をあげているんだけども、お経じゃなくて、時間をとるために節ばかり伸ばしてるようなんですよ。それが絶世の美声ならいい気持になって声をきいているけれども、声も悪いのに、節ばっかり伸ばしている。節はうまかったです。節ばっかり練習したってね、それなら歌をうたったはうがいいです。ただそうやればお葬式のような気がすると思っているんです。

お葬式なんていうものは、もっと華やかでなければだめですよ。そこヘゆくと祝詞はいいですよ。朗々として、変な節をつけないで堂々としています。経文というのは長々と読むものじゃないです。人間はこうすれば生きていけるんだ、あの世ヘいけばこうなんだ、ということを知らせてやるのがお経なんです。だから、白光なら白光を読んであげたら一番いいんです。

 “本心”という詩があるでしょう。“ひびき”という私の本に出ています。あれを経文がわりに仏壇にあげてやってごらんなさい。みんな浄まっちゃうから。

  人間というものは肉体ではないんだ、本心そのものなのだ、本心とは神そのものなのだ、仏そのものなのだ、お前たちが勝手に迷って、勝手に悪い悪いと思っているから悪いんで、悪いという想いをはなせばいいんだ、何も悪いものを追いかけていって捕まえることはない、というのがあの詩です。

 

 

本心

 

地球の未来を輝かすために

人類が是非共知らなければならぬ事がある

それは御身たちの真実が

御身たちの本心が

肉体生活にまつわる欲望と恐怖と

そして悲哀と憎悪と云う

黒い翼に蔽われていると云う事である

それよりも亦一層深くしらなければならない事は

御身たちの本心は

御身たちの真実は

宇宙を動かしている大いなる智慧

無比絶対なるエネルギーの源泉に

その基を置いていると云う事である

御身たちの本心は常に神と一つであり

御身たちの真実は神から発する光であり

そして御身たちは嘗ては本心そのものであったという事である

 

欲望 恐怖 悲哀 憎悪

そうした業生の想念は

御身たちが神の光の世界から

肉体と云う形の世界に自己限定したときから起こったのも

現れては消え去る大海の泡沫

夢幻が画く一夜の劇

 

人間が争っているのではない

人間たちが迷っているのではない

争っている想いが

迷っている想いが

今 消え去ろうとして人類の前を 通り過ぎてゆくところなのだ

 

御身たちは只黙って

御身たちの本心が神と座を一つにしている事を想っているがよい

光り耀く神と本心とをみつめつづけるがよい

心を落ちつけ 想いを静め

只只神の大光明を観じているがよい

そうしている時が一番

様々な業生の想いが消え去り易い時なのだ

御身たちよ

消え去る業生を止める事はない

夢幻の苦痛を想いかえす事はない

御身たちが止めさえしなければ

想い返しさへしなければ

業生は再び御身たちの下に戻ってくる事はない

御身たちは今

本心そのものである

神の大光明と一つの者である

地球世界を光一色で描き出すものである

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

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人間は、形としては似ていますが、心の世界、意識の段階は限りなく深く存在し、そのどこにいるか、どれくらいの広がりを持っているか、個人個人で千差万別です。

五井先生が統一の段階、状態を描写してくださっています。

とても参考になります。

 

 

「想いが世界を創っている」より

 

人間の世界というのにはたくさん段階があります。一番上の、頂点の内奥の世界、奥の奥を探ってゆくと、本心の世界いわゆる直毘、直霊の世界があるわけです。

直霊の世界というのは大神様の世界と一つですから、唯一絶対なる神様が各直霊に分かれて、その直霊が分霊に分かれてここにくるわけなんですね。それで奥・奥・奥と統一してゆきますと、一番最後にゆくところが大神様の中、いわゆる直霊の中です。

大神様というのは「いのち」の元ですから、そこへ入っちゃったら、何も無くなっちゃうわけですけれども、その手前に直霊という働きの場所があるわけです。それは本心と言う。

その本心の中に入ってゆけば、本当の統一であるわけです。ところがふつうの宗教の統一の場合には、そういうところまで入らないで、幽界の波の中に入っていって、そこで止まっていて、幽界の生物の波がかかってきて、自分がわからなくなったり、霊がかりになったりいろいろするわけです。そういう世界があるのです。そういう世界を禅宗では魔境という。

魔の境といって危ないから、統一したりする時、見えたり聞こえたりすることは危ない、と禅宗なんかでは言うんです。

 いくら観音様が見えようと、仏様が見えようと、それは本ものではない、そういう世界じゃないんだと禅宗では言うわけですね。ところが人間の素質というものはいろいろありまして、いろんなものが見える素質の者もあれば、見えない素質の者もあるわけです。見える素質の者には、見まいとしたって見えてきたりするわけだし、感じてきたりするわけです。それをただダメだダメだと言われると、その人が悲観しちゃって、かえって変になったりするわけです。

 そこで私たちの統一会というのは、根本の一番根本の深い所を目指す、要するに無我というような、澄みきったもう何もない、自分さえもない無我の境地というのがあるんですよ。澄みきった境地というのがある。光り輝く世界よりももっと超えた、光も感じない何んにもない世界がある。そういう世界が全部広がっちゃった世界というのがあるんです。私たちの統一会はそういう世界にも行くわけなんです。

統一の段階としては、いろいろな段階があるから、直霊の大神様のみ心につながった世界、その線につながって登っていけばいいわけです。それがそうじゃなくて、横に入ってしまって、それで統一したと思う。自己満足しちゃって自己陶酔している。そういう自己陶酔の横の世界に入ってしまったのでは、いつまでたっても縦の大神様のところまでいかないんですよ。

 この会で統一していても、自分ではいい気持ちになったという境地があります。

始めはとてもいい気持ちでよかったんだけれども、だんだん慣れてきたら、いい気持ちということさえなくなっちゃった、何もなくなっちゃった、というような境地になることもある。それはいい気持ちという境地より悪いかというと、そうじゃない。やっぱり一つの段階でして、それからズーッと続けてゆくと、直感的にいろんなことが感じてきたりする。またその先をいって、今度は何も無くなっちゃって、ただ坐っているという境地、しかし悪い気持ちは勿論ない。しかし特別いい気持ちというんでもない。ただスーッとしているような、そういう世界がある。もっともっとゆくと、今度は光の世界があって、光り輝く世界に出たりする。いろんな光の世界にいったりする。もっとゆくと、今度は澄みきったそれこそ、純一無垢な、きれいな赤児の心のような、言葉ではきれいとか美しいとか、光り輝いていると言うんじゃなくて、澄みきったなんにもない、もう紙一枚のへだてもない、神と自分とが全く一つになったような、そういう世界があるんですよ。

 だからこれは言葉ではどうにも説明がなりませんけれども、言葉で言えばそういうわけなんです。だから自己陶酔みたいに、ただいい気持ちになったから「いい」と言うもんじゃないんですね。神様のみ心が行為に現われる それが今度は行ないに現われてくるわけです。統一の世界というものが、日常茶飯事の行ないに現われてまいりますと、その人のやっていることが神様のみ心に叶っている、いつどんなことをやっても、神様のみ心から離れない、ということになるわけですね。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

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人間は、自分の想いがすべて決定している、ということはいつもいっていることですが、時間差があるので、なかなか実感が伴わない場合が多いと思います。
その想いをどこに置くかを決めるのは自分です。
それを大光明の中に置き続けたらどうなるでしょう。たちまち世界は大光明一色となり、光り輝く世界が実現します。そこに世界平和の祈りというスイッチ、五井先生というスイッチ、大光明スイッチが降ろされ、だれでも押せる状態になっています。あとは、信じるか、信じないか、押すか、押さないか、個人個人の選択にまかせれています。
精神を病んでいる人、経済が破たんしている人、人間関係が破たんしている人、病気の人・・
そのままで高い波長、大光明のスイッチを押していただければ、大きな大きな変化を感じることができると思います。24時間無料のこのスイッチを活用しましょう。
 
 
「光明の生活者」より
 

ごいせんせいって何?

 この五井先生というのは、ふつうわからないんですよ。肉体がありましょう。しかし肉体がなきゃ困るし、あれば邪魔になって、五尺何寸の体きり見えませんから、五井先生がほうぼうへ飛んでいったり、どこまでも飛んでいけるし、どこへでもいけるということはなかなか感じられないんです。ところが五井先生というのは、アメリカでも、インドでも、ロシアでもどこへでもいけるんです。一瞬にしていけるんです。そして誰の中でも入れるんです。ですから皆さんが五井先生ッて呼ぶ時には、必ず五井先生がそこにいる。その五井先生というのは何かというと、神さまなんですよ。救世主の姿。

  救世主が仮にみなさんのところで働く場合には、皆さんは五井先生より知らないでしょう、それで五井先生という名前で救世主が現われる。わかりますね。五井先生という肉体のこの人が救世主でもなんでもないです。いいですか間違えちゃいけませんよ。この肉体は肉体の五井昌久で、器です。器なんですよ。容れものです。容れものになるにはなかなか骨なのです。しかし容れものです。ところがこの中に働いている五井先生というのは救世主なんです。大光明です。その五井先生がどこでもいける、誰の中でも入れるんです。

どんな体の中にでも入れる。それをこの間、斉藤秀雄さんがやってくれた。やせた五尺何寸の斉藤さんという人がいますねェ。実をいうとやせた斉藤さんも何もありゃしないんですよ。人間の生命というものは一つなんです。人間の生命というものは一つであって、横にはみんな兄弟姉妹で、二十何億かいる。縦には神として一つなんです。だからこの肉体の五井昌久というところで働いている力も、斉藤秀雄というものに働いている力も、何ノ誰某、何ノ誰子というものに働いている力も、本当はみんな一つなんですよ。本当に自分が神と一つなんだ、ということがわかれば、神さまそのものが働くのだから、どんな魔が来ようと、どんなものが来ようとみんな祓えるのです。いいですか。みんな神さまの子なんですよ。斉藤さんだけが特別出来たわけじゃない、横関実さんも出来る、誰でも出来るんですよ。     

誰でも出来るけれども、本当の意味で空っぽになって、先生が来てくれるという絶対なを確信で呼ばなきゃだめなんです。そうすると斉藤秀雄という人は無くなっちゃって消えてしまう。消えてしまうということはどういうことかというと、斉藤さんの魂が宇宙大に拡大して、救世主の中に全部入ってしまうことなのです。すると救世主の光がそのまま入ってくる。それで五井先生になっちゃった。そうするとどんな浄めでも出来るんです。ですから皆さん一人一人がみんな五井先生になっちゃえばいいんですよ。全部が全部五井先生になったら大変な力ですよ。一人の人が何千人救えるか何万人救えるかわからないんです。いい案配に斉藤さんがやってくれたでしょう。この間も五井先生になった人がありますけどね、正式には斉藤さんが第一号だね。誰でもなれる。どんな子供でもなれる。それで今話をしてもらったんです。それをよくかみしめて下さい。

 

        どんな魔でも祓えます

 

  人間というものは肉体ではないんです。五尺何寸の肉体ではない。肉体は器です。いれものです。容れものでありますから、その中に働いている生命をそのまま100パーセント出せば、神さまになってしまう。100パーセント出すためには神さま! っていつも想わなければならない。

あなた方の場合、五井先生! っていえばいいんです。私は昔、遠慮して、五井先生っていわせなかったんです。守護霊さん守護神さんていわせていたんですけれど、もうこうなると本当のことをいわなければならないからね。本当のことをいわないと仕事にならなくなって来た。それで本当のことをいうと、みんながあまりいうから云わなきゃならない。五井先生というのは救世主なんです。その五井先生というのはこの肉体ではありません。間違えちゃいけません。この器は地上界のものでしょう。しかし働いている光は救世主なんです。絶対なるカです。この五井先生を呼んだら、どんなものも、どんな魔でも祓えます。これは私が保証します。いかなる危機にあたっても、嵐の真只中にても、本当に五井先生! といえば波は鎮まります。

  キリストが船にのって湖に出た。キリストはねているんです。波が荒くなって船が沈没しそうになった。すると弟子があわてて「師よ、どうして寝ていらっしゃるんですか、起きて下さい、嵐です、大変です」といってキリストを起すわけです。

キリストが「汝ら信仰うすき者よ、こんなものはなんでもないじゃないか、お前たちは神さまを本当に信じれば、こんな波などいくらでも押えられるじゃないか、よし私がやろう、波よ鎮れ!」と云ったら、波がスーッと鎮まったという話がありますねェ。あれはイエスキリストさんだけが出来るんじゃなくて、誰でも出来る。誰でも出来るだけど出来ない。何故出来ないか!

 芥子種ほどの信仰があれば、山に向って海に入れ、と云えば山が動いてゆく、それほどの力なんです。だから本当に”神さま”と深く思えば、その人は神さまと一つなんだから、何んでも出来るわけでしょう。そういうわけで、自分の都合のいいことをやるんじゃないんですよ、人類の救いになること、神さまのみ心に叶うことならなんでも出来る。

 

世界人類が平和でありますように

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 人間の苦悩はどこにあるか、というと「この人生を安楽に生きてゆけるかどうか」という漠然なる不安心配、恐怖が常に心の中にあるということだと思います。

その安楽という中には、個人としては健康のこと、人間関係のこと、経済のことなどが入ります。だいたい、健康で、人間関係が円滑で、経済が豊であれば幸せを感じれると思います。

しかし、政治の安定しない国、戦争、内戦のある国では、明日の命もわからない状態で、不安と恐怖が常に大きく心を占めていると思います。

そこで本当の信仰が必要になってくるのです。

五井先生の言葉というのは、神様の光が言葉となっているので、相手の魂の奥底に届き、真の救いをもたらします。しかも、その言葉の責任は自分(神である自分)が負うという響きが相手に伝わり、心底心がほどけるのです。五井先生という方を知った人、信頼している人、「五井先生!」と呼べる人は本当に本当に幸せです。しかしそれはあっちの世界にゆかないとなかなかわからないと思いますが。

 

 

「神様にまかせきる」より

 

肉体の生活が不安になれば、心が怯えてしまう。肉体の生活が侵されるようになると、防備しようと思って懸命になる。そういう形でしょう。ところが肉体の生活は誰がやっているかというと、自分自身の想いがやっているのではなく、本当は、神様の光が肉体を創って、それで働かしているのです。修業させているわけなのです。だから、こちらの肉体のほうの想いが、神様の光の中に入ってしまえば、想いを神様の中に入れてしまえば、神様がそのまま動いて、その人は何があっても平和でいかれるのです。

 私に会っている。お浄めしていると、私の中にある、平和なる光、神様の光が相手に流れてゆきます。流れてゆくと、神様と自分とは別々なものだ、自分は肉体だ、と思っている想いがだんだん消されてゆくのです。消されてゆくと、自分の想いがだんだん神様の中に入ってゆくわけです。それに従って不安がなくなってくる。Hさんじゃないけれど、詐欺にひっかかって、お金を持っていかれてしまった。どうやって食べてゆこうか、実家に泣きつけば食べられるに決まっているけれど、実家に泣きつくのは恥ずかしいし、どうしようもない、死んでしまったほうがましじゃないか、というような想いの人が、私に一遍会っただけで、なんだかスーッとしちゃって、心配がなくなっちゃった。

 私は何を言ったかというと「大丈夫、老後は大丈夫だ」と一言だけです。その一言の言葉の中に入っている光が、彼女に入って、死にたいという業想念を消しちゃったのです。

なんだか心が楽になって、死ぬ気なんかすっ飛んで、安楽になっていったわけでしょう。

 それはどういうことかと言うと、自分は神様に生かされているんだ、ということがわかったわけなんです。意識して頭の中でわかったのではないけれど、本体の心のほうが、神様に生かされているんだなあ、とわかってそれで安心したのです。そういう人が随分あるんですよ。

 教えがどうだかわからない。世界平和の祈りもわからない。守護霊守護神というけどわからない。しかし五井先生に会ったら、なんだか安心してきた、心が和やかになってきた、柔かい心になってきた、不安がなくなってきた、というのはどういうことかと言うと、神様と人間の本心、外に働いている神様(仮の言葉ですよ)と中に働いている本心とを、区切っているもの、つまり業想念というものが消えてきたわけです。それで外の神様と中の本心とがつながった、という時に、安心してくるのです。

それが一番大事なのです。お金が儲かるのもいいでしょう。商売繁盛も、病気が治ることもいいでしょう。それは結構なことです。しかしそれにも増して大事なことは、自分が神様から来ている者であって、神様の力がなければ、自分は生きてゆける者ではないんだ。自分が死のうと思ったって、生きようと思ったって、神様が生かしてくださっているんだから、神様に全部まかせることによって、この自分の人生が完全に開いてゆくんだ、ということがわかることです。

 

世界人類が平和でありますように

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因縁因果の世界では、この世の常識は通用しないので、あちらの世界に適応するために、魂の経済学を学んで実践して、霊界にたくさん貯金しておくことが大事だと思います。

人のために働かせいただいた・・徳を積ませていただいてありがとうございます。

100%自分が正しいのに非難されたり、損をしたり、名誉を傷つけられたり、暴力を振るわれた・・過去世からの借金を返させていただいてありがとうございます。

こういう感じで人生のすべての出来事が光に変わり、徳の塊のようになります。

そういう業因縁は自分の想いで作った有限なものなので、やがて現れて消えてゆく姿になり、信仰を持って祈り続けていれば、次には神の光だけがあらわれるようになります。そうすると肉体界卒業となります。今現在現れているもののほとんどが過去世で積んだものなので、長ーい目を持って、忍耐を持って、達観して、諦念して、祈りで前進してゆく必要があります。

お釈迦様の前世、常不軽菩薩のような生き方が、消えてゆく姿と世界平和の祈りで自然とできてきます。

 

 

「不動の心」より

 

いいことをして、かつそれでも仇で返されるのは、こちらはいいことをして徳を積んでいる上に、それだけまた業を消してくれているのですよ。いいことをして、それを仇で返してくれることはよけいに徳をつむことになるのです。いいことをしてお返しが来ちゃったら帳消しですよ。これをしてやったと思う、あの人のためにしてやったと思うのですが、してやったのではないのですよ。させてもらったのです。何故させてもらったかというと、してやったことがそのまま業が消えてゆく姿なのです。光が出ていったのです。その上、かつ向うが悪口いってくれるのですから、業を背負ってくれるのです。有難いことに、ドンドン業をひろってくれるのです。悪口をいわれるたびに本心が出てくるのですよ。いわれるたびに業がへってくるのです。そういう考え方をしなければだめです。自分は向うのためにしてやって、お返しが悪いものであったらば、それだけ自分の業がへったと思いなさい。目に見えるものでお返しされるよりも、目に見えぬお返えしのほうがよほどよいのです。これを天の蔵に宝を積むというのです。 目に見える宝をもらうよりも、目に見えぬ宝が余程いいんです。目に見えぬ宝はすごいのですよ。

やがてこれは返って来ます。だから自分でもって、これだけしてやったなどと、ケチな考えを起こさないで、もう出来る限りのことをしてやりなさい。返ってくることなど考えなさるな。

いいことをした時には、人の為にした時には、そのまま自分の業が消えています。自分の本心か光り輝いています。

 
世界人類が平和でありますように
May peace prevail on earth

 

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植芝先生は紅卍字という中国の宗教組織の会員で、笹川良一さんも紅卍字の日本の会長のような立場にあったと思います。くわしくは検索してください。

植芝先生は、とても五井先生を高く評価していて、お互いが尊敬しあう関係であったと思います。ほんとうに肝胆相照らすで、なんでもお話され、親友のような、ほんとうに調和した感じが伝わってきます。その当時、植芝先生は世界的な武道の大家、五井先生は40代の無名の新興宗教の教祖という立場で、こういう出会い、お付き合いは異例中の異例ですが、これは神縁だと思います。

 

 

 

「自分も光る人類も光る」より

 

私のところへ来ている人たちは、霊眼の利く人がたくさんいます。光り輝いています、とかなんとか皆さんおっしゃる。しかしお弟子さんの人たちの自分褒めもありますよ。自分の先生は偉く見せたい、と思う。だから私はそういう発言は全然問題にしていない。

ところが合気道の植芝盛平先生、この方も古い紅卍字の会員です。この盛平先生が私のことをべタ褒めに褒めてくれるんです。そうしたら西田天香先生が私の写真をみて、これはいいと褒めてくれたわけだ。誠の人だと褒めてくれた。是非、一度お会いしたい、とこうおっしゃったそうです。紅卍字に入ったら、昱修という名前を下さった。小田先生がさっきおっしやったように、太陽の光、宇宙神の光というものを身に輝かせている、という意味なんだそうです、だから褒めてくれた。私は褒められたら、ああそうですか有難う、と思っちゃう。そうだろうと思っちゃう。神様のほうからそう言ってくださった。サーお前、副処長でとにかく紅卍字の道院を建てる手伝いをしろ、ということになった。それでかしこまりました、というんで、私は自分の会の人たちを、サァみんな入りなさい、と言って片っ端から紅卍字に入れようと思うんですよ。

 そのようにほかの宗教団体の人がやればいいんですよ。五千人いようと五十万人いようと、さあ私か入ったからみんな入りなさい、と言ってみんな入ってくるようだと、宗教界も一つになる。それを運動しようと私は思っている。まず先がけて私は、自分の仲間を全部入れちゃおうと思うんです。合体しちゃおうと思う。そういう考えを持っている。そのくらいの捨て身なことがなくて、何んの仕事が出来るものですか。私の役目はどういうのか、というと、紅卍字会の壇訓にもあるんです。お前、何か提案しろ、お前が提案することはみんな賛成してくれるから、提案しろ、とこう言うんです。紅卍字としては、形としては災害があった時、お金を寄付する、というように現われているけれど、世界平和運動としてはまだなんにも現われていない。そこで、お前がやれ、と言うんで私に命令が来ているんですよ。それは壇に出して提案してあります。

 紅卍字の教えというものは漢文です。漢文を読めない人には珍文漢文ですよ(笑)。それで呉清源先生とか土屋先生とかわかる人が訳しておられる。訳をみると、いい文章です。実にいい教えです。光輝を放っています。私どものように感じる者はいいんだけれど、感じない者はわからない。

しかしとてもいい文章で、中味はとてもいい。訳もうまいんだと思います。でもあの訳だけではまだ難しい。紅卍字は何を考えているのか。というものを私が霊覚で推測すると、簡単に言うと世界平和なんですよ。世界を平和にしなければいけない、人類が平和でなければいけない、今一番大事な時だ、サァ急げ! というように、老祖さんのほうから声がかかっている。それで私を引張り出したんです。何を提案しろというのかというと、祈りによる世界平和運動ということを、私にやらせようと思っている。それで引張り出されたんです。それを壇に出しているんです。それはいいからやれ、とか、もう少し言葉を変えてやれ、とか言ってきます。それはいけない、なんていうことはない、いけないなんていう神様だったら、そんなもの一宗一派であって、大神様でもなんでもない。

世界平和の祈りがいけない、なんていう壇訓があったら、それは神様でもなんでもない。一宗一派だ。一宗一派というのは形があるんです。こういう祈りをして、こういう型を整えて、こうしなければならない、というのが一宗一派。うちの教団ではこういう形をとって、こういう儀式を致します。キリスト教はこういう儀式を致します、仏教ではこう致します、というのは一宗一派です。そういう一宗一派では絶対手がつなげない。自分の形があるから、こっちへ入ってくるわけがない。それほど偉い人はいない。一宗一派を超えたもの、それが紅卍字なんです。

紅卍字というものは、形が一宗一派を超えなくちゃいけませんよ。紅卍字会それ自体の形なんてあるもんじゃない。三拝九拝してお礼をし、何かを食べて何かを燃やして、消して、そんなものでどうするのか。そんな形だけですよ。形の世界をぬけなければ、本当の世界が現われない。

本当の大神様のみ心というものは、形じゃないんですよ。行ないなんだ。光なんだ。光り輝くものなんだ。一挙手一役足が神のみ心の愛と真に叶えば、それが大神様のみ心の現われなんです。わかりますね。三拝九拝したからいいんじゃない、鐘を鳴らしたからいいんじゃない。鈴を鳴らしたからいいんじゃない。そんなものは形の世界です。そういうものを超えた命をかけた世界平和を念願する大希望の行ない、愛と真の行ないが紅卍字の精神

 

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

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また、植芝先生のお話です。

植芝先生と五井先生、お二人とも神の化身で本当に自己の本体が神であることを体験として知っていて、肉体の想念がからっぽの状態で、天命そのものが光り輝いて働いているという形であったと思います。まさに神我一体です。

このお二人が日本に生まれて世界平和のための仕事をしている。

そこに神の深い計画を感じます。

 

 

 

「私に荷物をあずけなさい」より

 

神の化身-植芝盛平先生

 今までの新興宗教の教祖というのは、イエスさんとかお釈迦さまという聖者を除いて、何かに使われているのです。うしろに神さまがついて使うとか、たとえば住吉大神が白髪の老翁になって使っているというのが“生長の家”でしょう。そういういき方ですね。

 ところが本当はそういうことではないのです。この間、植芝盛平先生(合気道創始者)が飯田橋の会場にいらっしゃったのですよ。私とお話が終わったら、佐藤さんという工学博士の日本開顕同盟理事長と、同盟理事の大植さんが見えて、会わせてくれというわけで、植芝先生と会わせました。

その時、佐藤さんが植芝先生に言うんですよ。「私は植芝先生の働きが科学的な原理によってやるのかと思って、大植に聞いたら、植芝先生のうしろに神さまが働いていらっしゃる、とこう言ったけれども、植芝先生本当ですか?」と聞くんですよ。

私は横にいて「ああ、それは違うんです。神さまがうしろに働いていらっしゃるんじゃないんです。神さまがうしろで植芝先生を使っていらっしゃるんじゃないんだ。神さまが植芝先生そのものになっているんです。植芝先生が神さまなのです」と答えたのです。植芝先生はそうなのですよ。ある機会にうちの斎藤秀雄さんが会ったら、「私は神がかりではないんだ、神さまがこの中にいて、私自身なのだよ」と言われたそうです。私の思っている通りなのです。神の化身です。神さまと人間が離れているのでは、ある時は神さまになり、ある時は肉体人間になっちゃうでしょう。それでは本当の仕事は出来ない。もしちょっと間違いをしたら、神さまが離れてしまうでしょう。 昨日言ったことと、明日言うことと違っちゃいます。それは神がかりというのです。自分の言ったことを知らなかったりね。そうじゃない。神さまがこの中に入って、この人が神さまそのものになるのです。それが神の化身であり、植芝先生です。その植芝先生が、私と会わない二ヵ月も前から、誰か二ヵ月の間に私に会わなければならない神人がいる、というわけなのですね。

私は植芝先生の合気道の本を見て、植芝先生に会いたいと思った。そしたら林さんという人が見えて、私は植芝先生とは懇意だから、すぐ連絡を致しましょう、といって連絡してくれたら、ああ、その人が私が待っていた人なのだ、というん、で、すぐ神田の会場へ見えて、お会いしたのです。その時、植芝先生が神の化身であることがパッとわかったのです。

 ということは、どういうことかというと、植芝先生と私の体が同じような状態だということですよ。自己宣伝しているんじゃないんですよ、わかりますか。これからの仕事にさしつかえるから、私はだんだんこれからハッキリ言うのです。今まではあんまりハッキリ言わなかった。ぼかしていたけれども、ハッキリ言わなければならない時機が迫ってきた。それでハッキリ言うんですが、私自身がないということです。肉体の想念がないということです。

 

   光と愛を返す

私は人の顔を見ているけれども、この目で見ているけれども、実は見ているだけなのであって、きれいだとか穢いとか思っちゃいないのです。何か見ているかというと、神の目で、奥からその人の心を見ている。心を浄めているだけなのです。そうすると、向こうが私を愛している、私を一所懸命慕っている。慕っている感情だけ、愛情だけがうつって、こちらが余計に愛する。二重三重になっている。

けれどもこっちの想念は何もない。だから向こうが慕うだけ、こっちが愛するんですよ。

“汝の信仰汝を癒せり”で、向こうが一所懸命慕っているだけ、向こうに感応して返ってゆく。100%愛すれば100%愛される。10%愛すれば10%愛される。向こうの想いがそのままうつって向こうへ返ってゆくのです。その想いが返ってゆくという時に、光をともなって返ってゆく。だから愛されますよ。神の光をともなって、愛の想いとしてそっちへ返ってゆくんですから。だから私は、先生!思う人は可愛いと思うのです。子供なんか無邪気ですからね、先生!って膝の上にだっこするでしょう。かわいい、100%かわいい。私は眼を細めて、まるでだらしのない顔をしている。この間そういうところを写真にうつされちゃったのです。

私はこんな顔をして、子供を見ているのかなと思ってね。悪い顔じゃなかったですよ。うっとりとしているんですよ。それは向こうがうっとりするからです。

 叩けよ、さらば開かれん。求めよ、されば与えられん。汝の信ずる如く汝になれ、というのはそういうことなのね。向こうさんが思う通りに神さまは与えるのです。その与えるものは何かといったら、愛です、光です。想いで向こうは愛するのだけれど、その想いは慕う想いで、我もあるかもしれない。

しかし我でもなんでもそんなものかまわない。こっちへ入ってくると、私のほうへうつって、反復して向こうへ返ってゆく。その時、神さまの光がそのまま入ってゆく。だから五井先生を愛した場合には、神さまの光はそのまま入ってゆく。愛しただけ返ってゆく。

 

 

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