tablaboyの道日記

祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように


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人間は、形としては似ていますが、心の世界、意識の段階は限りなく深く存在し、そのどこにいるか、どれくらいの広がりを持っているか、個人個人で千差万別です。

五井先生が統一の段階、状態を描写してくださっています。

とても参考になります。

 

 

「想いが世界を創っている」より

 

人間の世界というのにはたくさん段階があります。一番上の、頂点の内奥の世界、奥の奥を探ってゆくと、本心の世界いわゆる直毘、直霊の世界があるわけです。

直霊の世界というのは大神様の世界と一つですから、唯一絶対なる神様が各直霊に分かれて、その直霊が分霊に分かれてここにくるわけなんですね。それで奥・奥・奥と統一してゆきますと、一番最後にゆくところが大神様の中、いわゆる直霊の中です。

大神様というのは「いのち」の元ですから、そこへ入っちゃったら、何も無くなっちゃうわけですけれども、その手前に直霊という働きの場所があるわけです。それは本心と言う。

その本心の中に入ってゆけば、本当の統一であるわけです。ところがふつうの宗教の統一の場合には、そういうところまで入らないで、幽界の波の中に入っていって、そこで止まっていて、幽界の生物の波がかかってきて、自分がわからなくなったり、霊がかりになったりいろいろするわけです。そういう世界があるのです。そういう世界を禅宗では魔境という。

魔の境といって危ないから、統一したりする時、見えたり聞こえたりすることは危ない、と禅宗なんかでは言うんです。

 いくら観音様が見えようと、仏様が見えようと、それは本ものではない、そういう世界じゃないんだと禅宗では言うわけですね。ところが人間の素質というものはいろいろありまして、いろんなものが見える素質の者もあれば、見えない素質の者もあるわけです。見える素質の者には、見まいとしたって見えてきたりするわけだし、感じてきたりするわけです。それをただダメだダメだと言われると、その人が悲観しちゃって、かえって変になったりするわけです。

 そこで私たちの統一会というのは、根本の一番根本の深い所を目指す、要するに無我というような、澄みきったもう何もない、自分さえもない無我の境地というのがあるんですよ。澄みきった境地というのがある。光り輝く世界よりももっと超えた、光も感じない何んにもない世界がある。そういう世界が全部広がっちゃった世界というのがあるんです。私たちの統一会はそういう世界にも行くわけなんです。

統一の段階としては、いろいろな段階があるから、直霊の大神様のみ心につながった世界、その線につながって登っていけばいいわけです。それがそうじゃなくて、横に入ってしまって、それで統一したと思う。自己満足しちゃって自己陶酔している。そういう自己陶酔の横の世界に入ってしまったのでは、いつまでたっても縦の大神様のところまでいかないんですよ。

 この会で統一していても、自分ではいい気持ちになったという境地があります。

始めはとてもいい気持ちでよかったんだけれども、だんだん慣れてきたら、いい気持ちということさえなくなっちゃった、何もなくなっちゃった、というような境地になることもある。それはいい気持ちという境地より悪いかというと、そうじゃない。やっぱり一つの段階でして、それからズーッと続けてゆくと、直感的にいろんなことが感じてきたりする。またその先をいって、今度は何も無くなっちゃって、ただ坐っているという境地、しかし悪い気持ちは勿論ない。しかし特別いい気持ちというんでもない。ただスーッとしているような、そういう世界がある。もっともっとゆくと、今度は光の世界があって、光り輝く世界に出たりする。いろんな光の世界にいったりする。もっとゆくと、今度は澄みきったそれこそ、純一無垢な、きれいな赤児の心のような、言葉ではきれいとか美しいとか、光り輝いていると言うんじゃなくて、澄みきったなんにもない、もう紙一枚のへだてもない、神と自分とが全く一つになったような、そういう世界があるんですよ。

 だからこれは言葉ではどうにも説明がなりませんけれども、言葉で言えばそういうわけなんです。だから自己陶酔みたいに、ただいい気持ちになったから「いい」と言うもんじゃないんですね。神様のみ心が行為に現われる それが今度は行ないに現われてくるわけです。統一の世界というものが、日常茶飯事の行ないに現われてまいりますと、その人のやっていることが神様のみ心に叶っている、いつどんなことをやっても、神様のみ心から離れない、ということになるわけですね。

 

世界人類が平和でありますように

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人間は、自分の想いがすべて決定している、ということはいつもいっていることですが、時間差があるので、なかなか実感が伴わない場合が多いと思います。
その想いをどこに置くかを決めるのは自分です。
それを大光明の中に置き続けたらどうなるでしょう。たちまち世界は大光明一色となり、光り輝く世界が実現します。そこに世界平和の祈りというスイッチ、五井先生というスイッチ、大光明スイッチが降ろされ、だれでも押せる状態になっています。あとは、信じるか、信じないか、押すか、押さないか、個人個人の選択にまかせれています。
精神を病んでいる人、経済が破たんしている人、人間関係が破たんしている人、病気の人・・
そのままで高い波長、大光明のスイッチを押していただければ、大きな大きな変化を感じることができると思います。24時間無料のこのスイッチを活用しましょう。
 
 
「光明の生活者」より
 

ごいせんせいって何?

 この五井先生というのは、ふつうわからないんですよ。肉体がありましょう。しかし肉体がなきゃ困るし、あれば邪魔になって、五尺何寸の体きり見えませんから、五井先生がほうぼうへ飛んでいったり、どこまでも飛んでいけるし、どこへでもいけるということはなかなか感じられないんです。ところが五井先生というのは、アメリカでも、インドでも、ロシアでもどこへでもいけるんです。一瞬にしていけるんです。そして誰の中でも入れるんです。ですから皆さんが五井先生ッて呼ぶ時には、必ず五井先生がそこにいる。その五井先生というのは何かというと、神さまなんですよ。救世主の姿。

  救世主が仮にみなさんのところで働く場合には、皆さんは五井先生より知らないでしょう、それで五井先生という名前で救世主が現われる。わかりますね。五井先生という肉体のこの人が救世主でもなんでもないです。いいですか間違えちゃいけませんよ。この肉体は肉体の五井昌久で、器です。器なんですよ。容れものです。容れものになるにはなかなか骨なのです。しかし容れものです。ところがこの中に働いている五井先生というのは救世主なんです。大光明です。その五井先生がどこでもいける、誰の中でも入れるんです。

どんな体の中にでも入れる。それをこの間、斉藤秀雄さんがやってくれた。やせた五尺何寸の斉藤さんという人がいますねェ。実をいうとやせた斉藤さんも何もありゃしないんですよ。人間の生命というものは一つなんです。人間の生命というものは一つであって、横にはみんな兄弟姉妹で、二十何億かいる。縦には神として一つなんです。だからこの肉体の五井昌久というところで働いている力も、斉藤秀雄というものに働いている力も、何ノ誰某、何ノ誰子というものに働いている力も、本当はみんな一つなんですよ。本当に自分が神と一つなんだ、ということがわかれば、神さまそのものが働くのだから、どんな魔が来ようと、どんなものが来ようとみんな祓えるのです。いいですか。みんな神さまの子なんですよ。斉藤さんだけが特別出来たわけじゃない、横関実さんも出来る、誰でも出来るんですよ。     

誰でも出来るけれども、本当の意味で空っぽになって、先生が来てくれるという絶対なを確信で呼ばなきゃだめなんです。そうすると斉藤秀雄という人は無くなっちゃって消えてしまう。消えてしまうということはどういうことかというと、斉藤さんの魂が宇宙大に拡大して、救世主の中に全部入ってしまうことなのです。すると救世主の光がそのまま入ってくる。それで五井先生になっちゃった。そうするとどんな浄めでも出来るんです。ですから皆さん一人一人がみんな五井先生になっちゃえばいいんですよ。全部が全部五井先生になったら大変な力ですよ。一人の人が何千人救えるか何万人救えるかわからないんです。いい案配に斉藤さんがやってくれたでしょう。この間も五井先生になった人がありますけどね、正式には斉藤さんが第一号だね。誰でもなれる。どんな子供でもなれる。それで今話をしてもらったんです。それをよくかみしめて下さい。

 

        どんな魔でも祓えます

 

  人間というものは肉体ではないんです。五尺何寸の肉体ではない。肉体は器です。いれものです。容れものでありますから、その中に働いている生命をそのまま100パーセント出せば、神さまになってしまう。100パーセント出すためには神さま! っていつも想わなければならない。

あなた方の場合、五井先生! っていえばいいんです。私は昔、遠慮して、五井先生っていわせなかったんです。守護霊さん守護神さんていわせていたんですけれど、もうこうなると本当のことをいわなければならないからね。本当のことをいわないと仕事にならなくなって来た。それで本当のことをいうと、みんながあまりいうから云わなきゃならない。五井先生というのは救世主なんです。その五井先生というのはこの肉体ではありません。間違えちゃいけません。この器は地上界のものでしょう。しかし働いている光は救世主なんです。絶対なるカです。この五井先生を呼んだら、どんなものも、どんな魔でも祓えます。これは私が保証します。いかなる危機にあたっても、嵐の真只中にても、本当に五井先生! といえば波は鎮まります。

  キリストが船にのって湖に出た。キリストはねているんです。波が荒くなって船が沈没しそうになった。すると弟子があわてて「師よ、どうして寝ていらっしゃるんですか、起きて下さい、嵐です、大変です」といってキリストを起すわけです。

キリストが「汝ら信仰うすき者よ、こんなものはなんでもないじゃないか、お前たちは神さまを本当に信じれば、こんな波などいくらでも押えられるじゃないか、よし私がやろう、波よ鎮れ!」と云ったら、波がスーッと鎮まったという話がありますねェ。あれはイエスキリストさんだけが出来るんじゃなくて、誰でも出来る。誰でも出来るだけど出来ない。何故出来ないか!

 芥子種ほどの信仰があれば、山に向って海に入れ、と云えば山が動いてゆく、それほどの力なんです。だから本当に”神さま”と深く思えば、その人は神さまと一つなんだから、何んでも出来るわけでしょう。そういうわけで、自分の都合のいいことをやるんじゃないんですよ、人類の救いになること、神さまのみ心に叶うことならなんでも出来る。

 

世界人類が平和でありますように

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 人間の苦悩はどこにあるか、というと「この人生を安楽に生きてゆけるかどうか」という漠然なる不安心配、恐怖が常に心の中にあるということだと思います。

その安楽という中には、個人としては健康のこと、人間関係のこと、経済のことなどが入ります。だいたい、健康で、人間関係が円滑で、経済が豊であれば幸せを感じれると思います。

しかし、政治の安定しない国、戦争、内戦のある国では、明日の命もわからない状態で、不安と恐怖が常に大きく心を占めていると思います。

そこで本当の信仰が必要になってくるのです。

五井先生の言葉というのは、神様の光が言葉となっているので、相手の魂の奥底に届き、真の救いをもたらします。しかも、その言葉の責任は自分(神である自分)が負うという響きが相手に伝わり、心底心がほどけるのです。五井先生という方を知った人、信頼している人、「五井先生!」と呼べる人は本当に本当に幸せです。しかしそれはあっちの世界にゆかないとなかなかわからないと思いますが。

 

 

「神様にまかせきる」より

 

肉体の生活が不安になれば、心が怯えてしまう。肉体の生活が侵されるようになると、防備しようと思って懸命になる。そういう形でしょう。ところが肉体の生活は誰がやっているかというと、自分自身の想いがやっているのではなく、本当は、神様の光が肉体を創って、それで働かしているのです。修業させているわけなのです。だから、こちらの肉体のほうの想いが、神様の光の中に入ってしまえば、想いを神様の中に入れてしまえば、神様がそのまま動いて、その人は何があっても平和でいかれるのです。

 私に会っている。お浄めしていると、私の中にある、平和なる光、神様の光が相手に流れてゆきます。流れてゆくと、神様と自分とは別々なものだ、自分は肉体だ、と思っている想いがだんだん消されてゆくのです。消されてゆくと、自分の想いがだんだん神様の中に入ってゆくわけです。それに従って不安がなくなってくる。Hさんじゃないけれど、詐欺にひっかかって、お金を持っていかれてしまった。どうやって食べてゆこうか、実家に泣きつけば食べられるに決まっているけれど、実家に泣きつくのは恥ずかしいし、どうしようもない、死んでしまったほうがましじゃないか、というような想いの人が、私に一遍会っただけで、なんだかスーッとしちゃって、心配がなくなっちゃった。

 私は何を言ったかというと「大丈夫、老後は大丈夫だ」と一言だけです。その一言の言葉の中に入っている光が、彼女に入って、死にたいという業想念を消しちゃったのです。

なんだか心が楽になって、死ぬ気なんかすっ飛んで、安楽になっていったわけでしょう。

 それはどういうことかと言うと、自分は神様に生かされているんだ、ということがわかったわけなんです。意識して頭の中でわかったのではないけれど、本体の心のほうが、神様に生かされているんだなあ、とわかってそれで安心したのです。そういう人が随分あるんですよ。

 教えがどうだかわからない。世界平和の祈りもわからない。守護霊守護神というけどわからない。しかし五井先生に会ったら、なんだか安心してきた、心が和やかになってきた、柔かい心になってきた、不安がなくなってきた、というのはどういうことかと言うと、神様と人間の本心、外に働いている神様(仮の言葉ですよ)と中に働いている本心とを、区切っているもの、つまり業想念というものが消えてきたわけです。それで外の神様と中の本心とがつながった、という時に、安心してくるのです。

それが一番大事なのです。お金が儲かるのもいいでしょう。商売繁盛も、病気が治ることもいいでしょう。それは結構なことです。しかしそれにも増して大事なことは、自分が神様から来ている者であって、神様の力がなければ、自分は生きてゆける者ではないんだ。自分が死のうと思ったって、生きようと思ったって、神様が生かしてくださっているんだから、神様に全部まかせることによって、この自分の人生が完全に開いてゆくんだ、ということがわかることです。

 

世界人類が平和でありますように

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因縁因果の世界では、この世の常識は通用しないので、あちらの世界に適応するために、魂の経済学を学んで実践して、霊界にたくさん貯金しておくことが大事だと思います。

人のために働かせいただいた・・徳を積ませていただいてありがとうございます。

100%自分が正しいのに非難されたり、損をしたり、名誉を傷つけられたり、暴力を振るわれた・・過去世からの借金を返させていただいてありがとうございます。

こういう感じで人生のすべての出来事が光に変わり、徳の塊のようになります。

そういう業因縁は自分の想いで作った有限なものなので、やがて現れて消えてゆく姿になり、信仰を持って祈り続けていれば、次には神の光だけがあらわれるようになります。そうすると肉体界卒業となります。今現在現れているもののほとんどが過去世で積んだものなので、長ーい目を持って、忍耐を持って、達観して、諦念して、祈りで前進してゆく必要があります。

お釈迦様の前世、常不軽菩薩のような生き方が、消えてゆく姿と世界平和の祈りで自然とできてきます。

 

 

「不動の心」より

 

いいことをして、かつそれでも仇で返されるのは、こちらはいいことをして徳を積んでいる上に、それだけまた業を消してくれているのですよ。いいことをして、それを仇で返してくれることはよけいに徳をつむことになるのです。いいことをしてお返しが来ちゃったら帳消しですよ。これをしてやったと思う、あの人のためにしてやったと思うのですが、してやったのではないのですよ。させてもらったのです。何故させてもらったかというと、してやったことがそのまま業が消えてゆく姿なのです。光が出ていったのです。その上、かつ向うが悪口いってくれるのですから、業を背負ってくれるのです。有難いことに、ドンドン業をひろってくれるのです。悪口をいわれるたびに本心が出てくるのですよ。いわれるたびに業がへってくるのです。そういう考え方をしなければだめです。自分は向うのためにしてやって、お返しが悪いものであったらば、それだけ自分の業がへったと思いなさい。目に見えるものでお返しされるよりも、目に見えぬお返えしのほうがよほどよいのです。これを天の蔵に宝を積むというのです。 目に見える宝をもらうよりも、目に見えぬ宝が余程いいんです。目に見えぬ宝はすごいのですよ。

やがてこれは返って来ます。だから自分でもって、これだけしてやったなどと、ケチな考えを起こさないで、もう出来る限りのことをしてやりなさい。返ってくることなど考えなさるな。

いいことをした時には、人の為にした時には、そのまま自分の業が消えています。自分の本心か光り輝いています。

 
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植芝先生は紅卍字という中国の宗教組織の会員で、笹川良一さんも紅卍字の日本の会長のような立場にあったと思います。くわしくは検索してください。

植芝先生は、とても五井先生を高く評価していて、お互いが尊敬しあう関係であったと思います。ほんとうに肝胆相照らすで、なんでもお話され、親友のような、ほんとうに調和した感じが伝わってきます。その当時、植芝先生は世界的な武道の大家、五井先生は40代の無名の新興宗教の教祖という立場で、こういう出会い、お付き合いは異例中の異例ですが、これは神縁だと思います。

 

 

 

「自分も光る人類も光る」より

 

私のところへ来ている人たちは、霊眼の利く人がたくさんいます。光り輝いています、とかなんとか皆さんおっしゃる。しかしお弟子さんの人たちの自分褒めもありますよ。自分の先生は偉く見せたい、と思う。だから私はそういう発言は全然問題にしていない。

ところが合気道の植芝盛平先生、この方も古い紅卍字の会員です。この盛平先生が私のことをべタ褒めに褒めてくれるんです。そうしたら西田天香先生が私の写真をみて、これはいいと褒めてくれたわけだ。誠の人だと褒めてくれた。是非、一度お会いしたい、とこうおっしゃったそうです。紅卍字に入ったら、昱修という名前を下さった。小田先生がさっきおっしやったように、太陽の光、宇宙神の光というものを身に輝かせている、という意味なんだそうです、だから褒めてくれた。私は褒められたら、ああそうですか有難う、と思っちゃう。そうだろうと思っちゃう。神様のほうからそう言ってくださった。サーお前、副処長でとにかく紅卍字の道院を建てる手伝いをしろ、ということになった。それでかしこまりました、というんで、私は自分の会の人たちを、サァみんな入りなさい、と言って片っ端から紅卍字に入れようと思うんですよ。

 そのようにほかの宗教団体の人がやればいいんですよ。五千人いようと五十万人いようと、さあ私か入ったからみんな入りなさい、と言ってみんな入ってくるようだと、宗教界も一つになる。それを運動しようと私は思っている。まず先がけて私は、自分の仲間を全部入れちゃおうと思うんです。合体しちゃおうと思う。そういう考えを持っている。そのくらいの捨て身なことがなくて、何んの仕事が出来るものですか。私の役目はどういうのか、というと、紅卍字会の壇訓にもあるんです。お前、何か提案しろ、お前が提案することはみんな賛成してくれるから、提案しろ、とこう言うんです。紅卍字としては、形としては災害があった時、お金を寄付する、というように現われているけれど、世界平和運動としてはまだなんにも現われていない。そこで、お前がやれ、と言うんで私に命令が来ているんですよ。それは壇に出して提案してあります。

 紅卍字の教えというものは漢文です。漢文を読めない人には珍文漢文ですよ(笑)。それで呉清源先生とか土屋先生とかわかる人が訳しておられる。訳をみると、いい文章です。実にいい教えです。光輝を放っています。私どものように感じる者はいいんだけれど、感じない者はわからない。

しかしとてもいい文章で、中味はとてもいい。訳もうまいんだと思います。でもあの訳だけではまだ難しい。紅卍字は何を考えているのか。というものを私が霊覚で推測すると、簡単に言うと世界平和なんですよ。世界を平和にしなければいけない、人類が平和でなければいけない、今一番大事な時だ、サァ急げ! というように、老祖さんのほうから声がかかっている。それで私を引張り出したんです。何を提案しろというのかというと、祈りによる世界平和運動ということを、私にやらせようと思っている。それで引張り出されたんです。それを壇に出しているんです。それはいいからやれ、とか、もう少し言葉を変えてやれ、とか言ってきます。それはいけない、なんていうことはない、いけないなんていう神様だったら、そんなもの一宗一派であって、大神様でもなんでもない。

世界平和の祈りがいけない、なんていう壇訓があったら、それは神様でもなんでもない。一宗一派だ。一宗一派というのは形があるんです。こういう祈りをして、こういう型を整えて、こうしなければならない、というのが一宗一派。うちの教団ではこういう形をとって、こういう儀式を致します。キリスト教はこういう儀式を致します、仏教ではこう致します、というのは一宗一派です。そういう一宗一派では絶対手がつなげない。自分の形があるから、こっちへ入ってくるわけがない。それほど偉い人はいない。一宗一派を超えたもの、それが紅卍字なんです。

紅卍字というものは、形が一宗一派を超えなくちゃいけませんよ。紅卍字会それ自体の形なんてあるもんじゃない。三拝九拝してお礼をし、何かを食べて何かを燃やして、消して、そんなものでどうするのか。そんな形だけですよ。形の世界をぬけなければ、本当の世界が現われない。

本当の大神様のみ心というものは、形じゃないんですよ。行ないなんだ。光なんだ。光り輝くものなんだ。一挙手一役足が神のみ心の愛と真に叶えば、それが大神様のみ心の現われなんです。わかりますね。三拝九拝したからいいんじゃない、鐘を鳴らしたからいいんじゃない。鈴を鳴らしたからいいんじゃない。そんなものは形の世界です。そういうものを超えた命をかけた世界平和を念願する大希望の行ない、愛と真の行ないが紅卍字の精神

 

 

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また、植芝先生のお話です。

植芝先生と五井先生、お二人とも神の化身で本当に自己の本体が神であることを体験として知っていて、肉体の想念がからっぽの状態で、天命そのものが光り輝いて働いているという形であったと思います。まさに神我一体です。

このお二人が日本に生まれて世界平和のための仕事をしている。

そこに神の深い計画を感じます。

 

 

 

「私に荷物をあずけなさい」より

 

神の化身-植芝盛平先生

 今までの新興宗教の教祖というのは、イエスさんとかお釈迦さまという聖者を除いて、何かに使われているのです。うしろに神さまがついて使うとか、たとえば住吉大神が白髪の老翁になって使っているというのが“生長の家”でしょう。そういういき方ですね。

 ところが本当はそういうことではないのです。この間、植芝盛平先生(合気道創始者)が飯田橋の会場にいらっしゃったのですよ。私とお話が終わったら、佐藤さんという工学博士の日本開顕同盟理事長と、同盟理事の大植さんが見えて、会わせてくれというわけで、植芝先生と会わせました。

その時、佐藤さんが植芝先生に言うんですよ。「私は植芝先生の働きが科学的な原理によってやるのかと思って、大植に聞いたら、植芝先生のうしろに神さまが働いていらっしゃる、とこう言ったけれども、植芝先生本当ですか?」と聞くんですよ。

私は横にいて「ああ、それは違うんです。神さまがうしろに働いていらっしゃるんじゃないんです。神さまがうしろで植芝先生を使っていらっしゃるんじゃないんだ。神さまが植芝先生そのものになっているんです。植芝先生が神さまなのです」と答えたのです。植芝先生はそうなのですよ。ある機会にうちの斎藤秀雄さんが会ったら、「私は神がかりではないんだ、神さまがこの中にいて、私自身なのだよ」と言われたそうです。私の思っている通りなのです。神の化身です。神さまと人間が離れているのでは、ある時は神さまになり、ある時は肉体人間になっちゃうでしょう。それでは本当の仕事は出来ない。もしちょっと間違いをしたら、神さまが離れてしまうでしょう。 昨日言ったことと、明日言うことと違っちゃいます。それは神がかりというのです。自分の言ったことを知らなかったりね。そうじゃない。神さまがこの中に入って、この人が神さまそのものになるのです。それが神の化身であり、植芝先生です。その植芝先生が、私と会わない二ヵ月も前から、誰か二ヵ月の間に私に会わなければならない神人がいる、というわけなのですね。

私は植芝先生の合気道の本を見て、植芝先生に会いたいと思った。そしたら林さんという人が見えて、私は植芝先生とは懇意だから、すぐ連絡を致しましょう、といって連絡してくれたら、ああ、その人が私が待っていた人なのだ、というん、で、すぐ神田の会場へ見えて、お会いしたのです。その時、植芝先生が神の化身であることがパッとわかったのです。

 ということは、どういうことかというと、植芝先生と私の体が同じような状態だということですよ。自己宣伝しているんじゃないんですよ、わかりますか。これからの仕事にさしつかえるから、私はだんだんこれからハッキリ言うのです。今まではあんまりハッキリ言わなかった。ぼかしていたけれども、ハッキリ言わなければならない時機が迫ってきた。それでハッキリ言うんですが、私自身がないということです。肉体の想念がないということです。

 

   光と愛を返す

私は人の顔を見ているけれども、この目で見ているけれども、実は見ているだけなのであって、きれいだとか穢いとか思っちゃいないのです。何か見ているかというと、神の目で、奥からその人の心を見ている。心を浄めているだけなのです。そうすると、向こうが私を愛している、私を一所懸命慕っている。慕っている感情だけ、愛情だけがうつって、こちらが余計に愛する。二重三重になっている。

けれどもこっちの想念は何もない。だから向こうが慕うだけ、こっちが愛するんですよ。

“汝の信仰汝を癒せり”で、向こうが一所懸命慕っているだけ、向こうに感応して返ってゆく。100%愛すれば100%愛される。10%愛すれば10%愛される。向こうの想いがそのままうつって向こうへ返ってゆくのです。その想いが返ってゆくという時に、光をともなって返ってゆく。だから愛されますよ。神の光をともなって、愛の想いとしてそっちへ返ってゆくんですから。だから私は、先生!思う人は可愛いと思うのです。子供なんか無邪気ですからね、先生!って膝の上にだっこするでしょう。かわいい、100%かわいい。私は眼を細めて、まるでだらしのない顔をしている。この間そういうところを写真にうつされちゃったのです。

私はこんな顔をして、子供を見ているのかなと思ってね。悪い顔じゃなかったですよ。うっとりとしているんですよ。それは向こうがうっとりするからです。

 叩けよ、さらば開かれん。求めよ、されば与えられん。汝の信ずる如く汝になれ、というのはそういうことなのね。向こうさんが思う通りに神さまは与えるのです。その与えるものは何かといったら、愛です、光です。想いで向こうは愛するのだけれど、その想いは慕う想いで、我もあるかもしれない。

しかし我でもなんでもそんなものかまわない。こっちへ入ってくると、私のほうへうつって、反復して向こうへ返ってゆく。その時、神さまの光がそのまま入ってゆく。だから五井先生を愛した場合には、神さまの光はそのまま入ってゆく。愛しただけ返ってゆく。

 

 

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引き続き植芝先生のお話です。

これはあらゆる世界、あらゆる分野に通じるお話で、何度読んでも魂に届きます。

今、アメリカの大統領がトランプさんになって大きな転換をしようとしていますが、「敵をみない」「神さまだけを見る」・・神様とは、真、善、美、愛、調和、光です。

こういう政治をしていただくと調和に向かってゆくと思います。

 

 

  「素直な心」より

 

弓なら弓をやるんだって、的ばっかり狙っていたらダメです。的も何もなくなって、的と自分が一つになった時、パッと当る。合気道の植芝先生じゃないけれど、誰にも負けないというんでしょう。何故なら自分には敵がないから、自分は宇宙と一つだから誰にも負けないんだ。実際に負けたことがない。四人かかっても十人かかっても、みんな素っ飛んじゃうんですね。向うが掛ってくれば、掛ってくる力でもって素っ飛んじゃう。何故かというと、こっちは全然敵を見てない。神さまだけしか見てない。要するに空なんです。宇宙と一つなんだから。宇宙と一つの人に敵いっこないでしょう。宇宙と一つということはどういうことかというと、神さまと一つということです。

ですから、神さまのことをいつも思っていれば、貧乏も不幸も病気もその人を侵すことが出来ないんです。いかなる貧乏の波が押し寄せてこようとも、いかなる不幸の波が押し寄せて来ようとも、いかなる病魔が押し寄せてこようとも、それはその人を侵すことは出来ない。何故ならば、その人は神さまの世界にいるから、神さまの世界は完全円満で悪いものはないんですよ。

 

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昨日につづいて植芝先生のお話です。

今現在、地球上でいろいろな争いが起こっています。

加害者と被害者というように現象の目で見ると見えますが、実はすべて自分が作った原因を自分が刈り取る仕組みになっています。もし自分に原因がなければ自分を侵すものはなにもありません。神の中に想いが入っていれば誰も侵すことはできない。

それを体得するのが武の道。それを植芝先生が体現してみなに見せています。

平和の原理を体現していたのが植芝先生であり、五井先生であったのでした。

 

「明るい心」より

 

 合気道の植芝盛平先生

 この間、うちの人たちが合気道の植芝盛平先生のところへ行って来たんです。

合気道の植芝先生といえば有名な人です。その時の植芝先生の話もやっぱり私と同じなんです。「人間というものは宇宙なんだ、みんな宇宙なんだ、何故皆さんは宇宙だっていうことがわからないのかなあ」というんですね。「自分は宇宙なんだ、光り輝いているものなんだ、全知全能なんだ」というんです。それで植芝先生はちゃんとそれを実証するわけです。

  若い人たちが木刀でもってパッと打ってくると、どうやったかわからないけれど、皆すっ飛んじゃう。いくら力でもって若い者が押えつけても、大木のようにびくともしない。   

五尺ぐらいの人ですよ。それが頭を一寸ふるとみんなすっ飛んでしまう。

「自分に千人かかって来ても、何人かかって来ても、自分は負けることはない。自分には敵はない。何故、敵はないかというと、それは自分が宇宙だから。宇宙に向う敵はない」というんだ。すごいね、それを実際にやるんだから。

そういう人がいるということは、実に有難いと思うんですよ。大の男もちょっと指で押えられたら動けない、というんでしょう。みんな見て来たんですね。力を出せば出すほど動けなくなっちゃう。何故、力を出せば出すほど動けないかというと、向うはやっつけようと思う力です。こっちは宇宙でしょう。もう肉体にいないんですよ。

いくらぶとうとしても、肉体はそこに見えているけれど、実は居ないんです。

業の中にいないんです。神の中に入っちゃっているんです。ぶたれるというのは業の波でしょう。業があるからぶたれるんです。業がない、神の中に入っちゃっているから、いくらぶったってダメですよ。

次元が違うんだから。片方は三次元で一生懸命ぶってくるのに、片方は無限次元の所にいるから、手が届かない。ぶとうと力を入れれば入れるほど、自分の力で飛んでいっちゃう。植芝先生は私のことをわかっていて、私もそういう人だというんです。私はまだ立ち廻りをやったことがないから、人をすっ飛ばすかどうか知らないですよ。けれど、向うから悪い人が来る、会いたくない人が来れば、そのまま会わない。来るのがわかるから逃げることがいくらでも出来ます。だから宗教的には同じです。

 

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合気道開祖、植芝盛平翁のお話ですが、結構たくさんありますので、何回かに分けてご紹介したいと思います。

翁には、息子さん(吉祥丸さん)をはじめ、たくさんお弟子さんがいて、塩田剛三さん、藤平光一さんなど合気道の名人、達人がたくさんいらっしゃるのですが、誰も翁の本当の姿、正体がわからなかったと思います。

盛平翁は「わしの正体を見破ったのは、聖師(出口王仁三郎)と五井先生だけじゃ」という風におっしゃっておられました。五井先生から観た盛平翁は、肉体人間ではなく神(天の叢雲九鬼さむはら竜王大神)の化身だ、とのことでした。また、翁は塚原卜伝の生まれ変わり、あるいは守護神が塚原卜伝か、ということでした。

 

 

 

 

「明るい心」より

 

神の化身植芝盛平先生

  人間というものは宇宙と一つなんです。神と一つなんです。自分の我があるだけ一つになれない。我が全部なくなれば神さまなんです。植芝盛平先生は自分は神だ、というんです。あゝあそこに私が働いている、あそこにも私が働いている、とこういうんですよ。

昔、憲兵なんかを教えていたけれど、憲兵の中に私が大分いる、なんてこういういい方をするんです。それは自分は神さまになって、神の化身だということが本当にわかっているんです。といって威張るかというと威張りはしないんです。

合気道の達人がわざゝゝ、年令的には若い、しかも後から出た私を訪ねて来られて、そして「私はチャンバラばっかりやって損しましたよ。五井先生はチャンバラも何もやらない、はじめから世界平和だからほんとにいいですね。私はあとからついて行きますから、どうか先頭に立ってやって下さい、もう先生の時代です」とこういうんですよね。

それで信者になります、といって維持会員になられて帰ったんですよ。それほど謙遜になられている。 神と自分は一つである、自分は神の化身だとわかると、威張るんじゃないんです。ところが今の宗教家、新興宗教の人などは、神がかってきたり何かすると、威張っちゃう。新興の大宗教の教祖なんてそうなんですよ。教祖も息子もその奥さんも、みんなそうなんです。信者たちが頭を深々とさげても、頭も下げず挨拶もしない。

まるで昔の大名や殿様が通って行くような恰好で通って行く。そういうことは神さまの目から見ればバカなことなんです。威張っていることだけ神から遠いということなんです。

神さまはちっとも威張っていませんよ。いつくしむだけ、愛するだけなんです。

俺は神さまだ、お前は別だ、なんてそんなことは思わないのです。

 謙虚とか何とかということと違うんです。そのまま暖かくて、そのまま柔らかくて、そのまま一つなんです。そういう姿がやっぱり植芝先生にはあるんです。私にもあるんです。

 

 

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「みんな救われている」より

 

このお話は、信者さんが病気の相談に来られて、五井先生の指導を受けたときの様子ですが、とてもとても参考になります。病気の人は常に病気を意識して生活しているので、病気を忘れることができません。しかしそれでは病気とぴったりくっついているので、治る隙間がないのです。そこで五井先生はその想いを取るためにいろいろと指導されるのです。

一番いいのは、守護の神霊に「生きる、死ぬ」をまかせて御心のままという想いになれればいいのですが、守護の神霊は見えないので「五井先生」にまかせるわけです。病気を治す最大のコツは”病気であることを忘れること”につきます。お医者さんがそういう深い理解を持っていただけるともっといい治療ができると思います。

 

 

塚本清子さん談

 「個人指導の時、先生が“今日は病気が治る秘訣を教えてあげましよう。三つの約束が出来ますか?”とおっしゃいましたから、“ハイ、先生のおっしゃることなら、なんでも約束できます”とお答えしました。私は夢であっても、先生のことなら百パーセント信じ、百パーセント言うことを聞き、大変素直なんです。

“あなたは患部を触って、こんなに大きくなって、一体どこまで大きくなるんだろうか、と心配ばかりしている。だからいけない。明日から絶対に患部に触ってはいけない。それが一つ。

 二つ目は私がお浄めで病気の想いを消してあげても、あなたは病気だ病気だ、と家に帰ると思う。私は病気だからいつ頃死ぬのかな、とカレンダーを見れば、私の命日はいつかなと思い、先生が消せば、そばから病気だ病気だと思っている。それではいくら消しても限りがない。もう明日から、決して病気だと思っちゃいけない。

三つ目は、あなたはあと1ヵ月で死ぬか、三ヵ月で死ぬか、と思っているけれど、人のいのちは神よりほかに知らない。丈夫で歩いている人だってあと五分後のいのちかもわからない。今夜にも自動車にはねられたり、ガス中毒で死ぬかもわからない。そうかと言って、今、寝ている人が十年二十年生きるかもわからない。だから、もう今日一日のいのちだ、と思って、半年後だの三ヵ月後だのと考えることは絶対やめなさい。あなたは今日一日、夜までだと思いなさい”

 先生に言われて、約束しますと申し上げました。そうしたら翌日から、何か皮がむけたような気がして、花も星もみなきれい、犬も猫も子どもたちもなんて可愛いんだろう、と思えるようになりました。何か仕事をするんでも病気なんて思わないんです。晩までのいのちなんだから、一生懸命やろう、という気になりました。病気ということを思うな、とおっしゃっても、私は病気の前半をある宗教団体に、後半を先生のところにご厄介になって、その想い方の教えの違いがあって、それこそ病気のことを忘れるひまがないくらいだったのが、先生のお浄めによって、私はすっかり病気を忘れてしまったのです。

 そして世の中がなんて美しいんだろう、と思って、葉書一つ書くにしても、あの人から来たこれが最後だな、と思って見てくれると思うと、本当にいい加減なことは書けない。道ゆく人にただ挨拶するだけでも、あの人昨日会ったのに、もう死んじゃったの。昨日はつんつんしてたわねエ、なんて言われたんじゃいやですから、ねんごろに丁寧に心をこめてお辞儀をするんです。子どもたちも叱れないんですね。夕べまでお母さん、あんなにプンプン怒ってたのに、今朝のびちゃって、いい気昧だなんて言われたらしようがないから(笑)子どもを絶対叱らないんです。

 本当に世の中、今日一日だと思ったら、楽しくて嬉しくて、病気どころじゃないんですね。それで五井先生のお浄めには、体がたまに痛くても、先生のところに一足でも近くよって死ぬんなら死のう、最後のお浄めをしていただいて死のう、と思って通っていたんです。

 そしたら一昨年四月の初め頃、夢を見ました。気がついたら顔に白い布がかかっているんです。ああこれは死んじゃったのかな、と思って(笑)白い布の間からちょっと見ますと、左右にお医者さん一人と看護婦さん、向こうに看護婦さんが大勢いらっしゃる。これはどうも手術されるようだ、と思ったんです。手術されたら治るかも知れないと思っておりましたら、大変いい匂いのものを鼻のところに当てられました。それっきりわからなくなってしまい、翌朝目が覚めたわけです。

六月二十八日頃、頭が痛くて目が廻って、家がぐるぐる廻って寝ておりましたら、上から下から、吐いたり下したり天変だったのです。四日間ばかり、何も□にしないで、苦しくて痛くて寝たきりでおりました。ああそうだ、五井先生にお願いしてみよう、とお腹に手を当ててみた。四日も頂かないのですから、洗面器の底みたいにぺちゃぺちゃなんです。そしたらおにぎりがないんです。こんなに大きな握り拳より大きな固まりがあったのが、なくなっちゃっているんです。どこをさがしてもないんです。しばらく呆然としておりました。 これは一番に先生にお礼申し上げなきや、と思ったんですけれど、治ったこともまた忘れてしまい、今日まで先生にお礼申し上げるのを忘れてまして、どうも申し訳ございません(爆笑)。私は五井先生をよく夢で見ます。夢の先生は大変こわいですけれど、この世の先生は大変お優しい。夢の先生はいや応なしに来てくださるものですから、逃げるわけにはいかないです。コーヒーなら高貴な香りの高い苦い純粋のものであるけれど、この世の先生は、ミルクをまぜたり、お砂糖をまぜたり飲みよくしてくださるから、皆さんこんなにたくさんいらっしゃるんです。

 夢の中の先生は大きな目玉で、眼鏡をかけていらっしゃらないせいか、とってもこわいんですね。 そして守護霊さんですが、ポツポツ頭の中にささやいてくださるんです。お風呂に入ってぽんやりして、世界平和のお祈りなどしてますと『電球を見てごらん。空気中に電気が允ち満ちていても、電球がなかったら光を現わすことが出来ない。それと同じように、あなたたちの身体がなくては、神様のみ心を現わすことが出来ない。だから輝く夜のネオンをうらやましからないで、たとえ2ワットの電球であろうとも、精一杯神様のみ心を現わし、神様のお力をこの世に現わすようにしなさい。あなたは2ワットの電球でも、一生懸命光ればいいんだよ』てことをささやいてくださるんです。そうかと思うと、道を歩いていますと、『あのクズ屋さんとあなたは同じなんだよ。いっぱいリヤカーに積んでいるように、あなたは背中にたくさん業を背負っている。それが見えたら先生の前なんかとても出られないくらい恥ずかしいほどたくさん業を積んでいる。それを先生がしきりやさんじゃないけれど、ポンポンとお浄めして、その業を光に替えてくださるんだよ』ということを、声じゃないんですけれど、教えてくださるんです。それは確かに守護霊様じゃないかと思います。

私はやはり小さい時から、神様神様とすがりついておりましたから、私を守っていてくださる神様があるんだな、と思っていました。斎藤秀雄さん(元白光真宏会事務局長、副理事長)のおっしゃった全託手帳を、私もいつも頂いているようで、考えてみると時には半託になったり、執着手帳になったりしています。ですから専ら、全託全託、すべて何もかも全部先生におまかせしてゆくことにしております。

 夢の中の先生は叱るばかりではなく、時々面白いことをおっしゃったり、見せてくださいます。このこの間も、掌の上に球をころころ転がしていらっしゃるから、宝珠の玉かと思ってみてましたところ、紫や緑や大変きれいに光って、くるくる廻っているんです。そしたら先生ちょっとおひげをはずして、玉を一生懸命磨いていらっしゃるんですね。ああ先生のおひげはああいうことに役立つんだ、とよく見ておりました。その玉は地球なんです。掌にコロコロころがして、地球を磨いていらっしゃるんです。

ほこりを一生懸命払っている。そしたらポッとおひげをまたつけた。あれから先生のおひげを一寸ひっパッてみたくなっちゃう(笑)。昔よく子どもに、どうして先生おひげをつけていらっしゃるの、と聞かれますと、おひげつけていらっしゃれば立派でしょう。だって猫だって犬だってひげがあるよ、と言われて困ったんですけど、先生鼠をとるためのおひげじゃないですけど、やっぱり地球を磨くために(爆笑)、はじめて先生のおひげのお役の立ち方がわかったのです。いろいろ私は面白い不思議な有り難い夢を見るんです。この間も、朝ぼらけのような薄明りの中に、鐘つき堂があり、大きな鐘がある。たくさんの方々が次々と上ってきては、つついていってしまう方もあれば、小さな棒を持ってきて、コンコン叩いていってしまう方もある。そうかと思うと、一生懸命撞木を握っていい音を出して叩いている方もあるんです。あれが(鐘が)五井先生だよ。指先きで一寸突っついて鳴らない、と行ってしまう人もあるし、いのちがけで鳴らしてゆく人もある。鐘が鳴らないんじゃない。お前たちが鳴らさないんだよ。

自分の鳴らしただけのものが返ってくるんだよ。おかげがないと膨れっ面しても、それは自分の鳴らし方が悪いんだというふうに守護霊様でしょうに、いつも説明者がつくんです。霊界のようなきれいな所へ連れて行っていただいて、一つ一つ丁寧に説明してくださる。地獄へ行ってもやっぱり説明してくださる。私はそういうようによく夢を見ます。 私は今まで病気のほうで、息をつくひまもないくらい、厳しいご修行ではございましたけれど、五井先生! と申し上げると、今でも有り難くて有り難くて涙が出るほど有り難いんです。 私は霊的でもなんでもない、平々凡々な家庭の主婦で、毎日仕事着を着て働いている人間が、どうしてこんなおかげを頂いたのかと思いますけれど、それはただ一筋に、もうひたすらひたすら先生を100パーセント信じたところにあるんじゃないかと思うんでございます。

 皆様もどうぞ世界平和のお祈りをご熱心にお続けになりながら、たくさんのおかげを頂いてくださいますように。ご拝聴有難うございました」。

 

世界人類が平和でありますように

May peace prevail on earth

 

 

 

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