バルト三国の…なんとかニアっていう国
突然の一時帰国を終えて、再びポーランドに戻りました。
が、成田空港でチェックインをしようとしたら
「お客様の予約が取り消されています」と言われてしまいました。
どうやら、ポーランドから帰国する際の搭乗記録が残っていないらしく、
けれど私のパスポートにはポーランド出国と日本帰国のスタンプはあるし、
航空券の予約自体の記録は確認できるらしいので、よくわからないけれど
とりあえず航空会社側のミスらしい。
「ああ、そうですか~」と私はのんびりしているのに、慌てている職員。
「申し訳ございません」と謝罪しながら椅子を用意されて、
チェックインカウンターの前に出された椅子にのんびり腰かけている私。
「今、モスクワまでは何とかお座席確保しましたので!
あとはモスクワからワルシャワまでの便の席を何とかしますので!」
と、必死に対応する職員に「ワルシャワじゃなくてもいいですよ~。
モスクワはロシアビザ持っていないから降機できないですけど…
エストニアのタリン行きとかでもいいですよ~。どこでもいいですよ~。」
と、自由な私。
結局、当初の予定通りのフライトに搭乗できることになりました。
ワルシャワよりタリンの方が、今後のルートが決めやすくなるから
タリンに変更してもらえたらラッキーだったのに…と思いながら、
日本を後にしました。
グッバイ日本。またね。
そして、ワルシャワで一泊した翌日、夜行バスで早速移動。
19ヶ国目リトアニアの首都であり、旧市街地が世界遺産に登録
されているヴィリニュスに到着しました。
(三本の十字架の丘から見たヴィリニュス市街)
到着してすぐに目の前のマクドナルドで朝食を取り、
さて、予約したホステルに向かおうと席を立ったら、
ベンチに足をひっかけて、大きく転びました。
右腕強打。
この強打のおかげで、私はリトアニア滞在中ずっと
腕の痛みはもちろんのこと、この痛みからくる発熱と吐き気に
惑わされ続けました。かわいそうな私…!
(三本の十字架の丘)
そんな、悲しいスタートのリトアニアでしたが、
この一年弱の間にすっかり消耗していた旅への好奇心が
日本への一時帰国によって若干リセットされて、
昔の短期一人旅をしていた時のように旺盛に観光に励むことができました。
リトアニアと言えば、バルト三国。
バルト三国と言えば、バルト海に面して並ぶ三国。
そのうちの一国であり、いち早くソ連からの独立を回復したうちの一国です。
ちなみに、杉浦千畝が第二次世界大戦中に多くのユダヤ人に
「命のビザ」を発行した場所が、このリトアニアです。
私は行かなかったのですが、カウナス市にある旧日本領事館は
現在、杉浦記念館 として残されています。
リトアニアには、近代世界史の痛みを感じる場所が数多く残っています。
この写真は、ヴィリニュスの国会議事堂前にあるコンクリートのバリケードです。
1990年3月。
リトアニアは旧ソ連を構成していた15の共和国の中でもっとも早く独立回復宣言をしました。
もちろんすんなりとソ連が「はい、そうですか」と言うわけはなく、
1991年1月。
ソビエト連邦政府は武装部隊をヴィリニュスへ送り込みました。
いわゆる「流血の一月」です。
国会議事堂を武力から死守するために、数万人に及ぶリトアニア市民がここに集結し、
コンクリートのバリケードを作り非武装の抵抗運動を行いました。
その時のバリケードの一部が今もここに残されています。
そして、その時の犠牲者の顔写真が貼られ、横には十字架とマリア像がありました。
また、リトアニア人虐殺記念館にも訪問しました。
ここは通称KGB博物館と呼ばれているところで、旧ソ連時代に
KGBによって虐殺されたリトアニア人を弔う記念館です。
虐殺された人々の写真や、遺留品、そして当時の拷問部屋などを見ることができます。
一ヶ月前、私はポーランドでアウシュビッツ強制収容所の見学を行ってきました。
そのアウシュビッツ強制収容所を開放したのはソ連です。
そのソ連が、ナチスと変わらぬことをリトアニアにて行っていたわけです。
さらに、ナチスによって迫害されたユダヤ人は今イスラエルという国を建国し、
そしてパレスチナ自治区ガザ地区に対しての攻撃を続けています。
なぜ人間はこうも愚かなことを繰り返し、連鎖させていくのでしょう。
私はこの繰り返しと連鎖の謎について、
この美しい街で頭を抱えて悩みこんでしまいました。
人類って、ほんっとに強欲。