仕事をしながら、年10回 海外旅行に行く方法

仕事をしながら、年10回 海外旅行に行く方法

海外旅行に行き続けると、どんな心境になるのかを試したいのもあり、
週末や連休、まとまった休みの日に日本脱出するようにしてみました。

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普段と違うところに泊まり、いろいろな体験をしたので入院体験も「旅」としてブログに書きたいと思います。

 

 

僕は鼻中隔湾曲症を改善するため入院し、鼻の手術を受けました。

 

これは右鼻と左鼻を仕切っている軟骨が湾曲しているため空気の通りが悪くなり、アレルギー症状を悪化させたり、鼻詰まりになりやすくなったりする症状です。(日本人の9割くらいは湾曲しているらしいですよ)

 

この手術は全身麻酔で内視鏡下で行い、術後10日間以上は鼻を閉じていなくてはならないので
口呼吸で過ごす、という苦しい内容ですが、残りの人生スッキリした呼吸で過ごせるならば、と決心した。

 

だいぶ先の予定であれば自分の予定であっても他人事のように感じ決心しやすい、という人間の特性を利用して、半年前にこの手術を予約した。

 

そしてやりました!この手術。昨日、退院しました。
これから10日間ほど仕事も休み、自宅療養です。ストレスがたまっている不機嫌な自分を見せたくないので家族とも、あまり会わない予定。

 


◆手術待たされ、早く退院

 

 

そもそも重篤な疾患がある訳でもなく、若く見える?僕は病院での優先順位は下のほうだった。

手術の前は水も食事もとれないのに、朝から午後過ぎまでいつ手術になるか分からないまま待たされ、その間に2名が同じような手術を行い、結局、僕は一番最後(手術終了17:10)になってしまった。

 

また、僕と同じ日に朝一手術した人はまだ入院するのに、僕だけ早めに退院しなくてはならなかった。手術の翌日に、担当医ではない医者がベッドにやってきて次のような会話をした。

 

医:“明日退院ということでいいですか?”
僕:“できれば身の回りのことも大変なので、もう少し入院したいです”
医:“みんな大変なんですよ!明日の退院でいいですか。”
僕:“……(よくはないけれど)了解しました”

 

同意が必要なのは分かるけれど、選択肢がないなら、いいかどうかなんて聞かないでほしいなぁ。誰よりも遅く切って、早く出されてしまった。

 


◆優しい看護師さんたち

 

入院中の目標として、「手がかからず、可愛がってもらえる優秀な患者」になろうと思っていた。(ある人に言ったら、手がかかる方が可愛いとの意見もあった)

 

僕が印象に残っている看護師さんは麻酔科の方々。全身麻酔の直前は緊張していたけれど、選曲を変えましょうか、とか世間話などもしてだいぶ気がほぐれた。麻酔から覚める時も、胸をポンポンとたたいて、よく頑張りましたね、と言ってくれた。目を閉じた状態で戻りつつある意識の中で、褒めてくれたのが嬉しかった。

 

話は変わりますが、同じ病室に手のかかるおじいさんが居て看護師さんを呼びつけては、説教したり、食べ物を買いに行かせたりと、大変でした。それでも、忍耐強く患者さんの話を聞いて、対応していた看護師さんには本当に感心した。一方で、おじいさんも病院生活でストレスが大きかったのでしょう。

 


◆自宅療養

 

自宅療養中の今、正直辛いです。万全の体制をとっているけれど、口呼吸では睡眠が浅く、
血と鼻の奥に詰めた溶けるガーゼをいつも吐出してばかり。皆さん、鼻をつまんで水を飲めるでしょうか。これが大変なんです。それでもあと11日間たくさん水分をとって療養し、晴れて外来(苦痛解放日)に行こうと思います。


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療養を終えたら、鼻が開通し、たくさんの酸素を吸いたい。そして、滞っていた今年1年の計画を実行したい。医科大の皆さま、ありがとうございました。

十数年ぶりにラトヴィア(ラトビア)を訪問した。ラトヴィアはすっかり新しくなっていて、人はよく英語を話し、より親切になった。語弊を恐れずに言えば、旧ソ連の暗い雰囲気が少しづつ薄れてきたのかもしれない。

 

 

<経済>

街もバスも路面電車も新しくなり、ラトヴィアの経済は着実に発展していることが分かる。リガ新市街のホテルやお店も閉鎖されたり、新しい店に入れ替わっていた。駅前にはフィンランド資本のデパートができ、自由に商品に触れることができない旧ソ連スタイルからはずいぶん明るい雰囲気になった。

 

以前、地方の町の雑貨屋さんで食事をしていると、子供たちが集まってきて食べ物をねだってきた。驚いてお店の人にきいたら、彼らの両親はアルコール依存症であったり仕事がなかったりでお腹を空かせているらしい。また、電車の中で会ったロシア系住民の人からは、生活が苦しい、という話を聞かされた思い出がある。

 

実は現在の統計でも70%程度のラトヴィア人が日常生活に必要な物を買うお金に困っている、と回答している。でも街は発展しているし、10年前に比べて雰囲気はだいぶ明るくなったと言える。

 

ラッツではなくユーロが使えるようになったのも新鮮だ。今ではユーロ決済できるクレジットカードがどこでも使えて、ラッツのコインはおみやげ物となって売られている。

 

 

あとは、改善してほしいのスピードが遅くて本数の少ない電車だろうか。たとえばレーゼクネへは電車で3時間半かかるし1日2本しか電車がない。

 

<農業>

10年前も今も変わらないのが、黒パンやチーズがおいしくて安いことだ。このもっちりして少し酸味のある黒パンやさっぱりした触感のチーズは最高だ。同じ農業国のデンマークやオランダと比較しても、当たり前のものがちゃんと美味しい。ラトヴィアには主要な産業は農業しかないのだから当たり前といえば当たり前だ。

 

黒パンも安い。このスライスされた500gのパンがリガの市場で0.71ユーロだった。デリカテッセンのように作り置きされた料理を量り売りする店では、4ユーロもあればお腹いっぱい食べることができる。

 

 

 

ちなみに10年前は昔ながらのカフェで食事をするときなど、まったく愛想のない店員さんが“そらよっ”といった感じで対応してくれていたが、今はスマイルで“召し上がれ”と言ってくれたりもする。

 

農業しか産業がない、といったがもう一つあるとすれば医療関係だ。医療ツーリズムもあり比較的安価で技術の高いラトヴィアにロシアや他のヨーロッパから治療に訪れる人もいる。レーゼクネのホテルで以前は歯医者が併設されていた。これも隣国のロシアやベラルーシから医療ツーリズムに訪れる人用だったのかもしれない。

 

また、手術着姿を写真に撮ってブログに載せている学生も多いことからも、以前からの農業だけでなく医療に力を入れていることが分かる。

 

<人>

あまりひとくくりにしてはいけないけれど、ずいぶん明るくなったと思う。フレンドリーまでいかないけれどよく気が利くし、英語を話すようになったのは教育のおかげだ。女性は10年前にくらべてメイクをする人がかなり増えた印象もある。昔はみんな飛ぶように歩いていたけれど、バスやトラムが便利になったせいか、歩行速度が落ちた気がする。

 

一方でまだまだアルコール依存症でふらついている人を見かけるし、歩行者の喫煙も非常に多い。タバコをねだってくる人もいる。ちょっと面白かったのが、駅が無人だったので、電車の中で切符を買えるかと近くにいた男に聞いたら、言葉が通じずにタバコをくれそうになったこと。

 

 

さて、未だに電車の写真を撮っているだけで駅員に怒られるなど疑心暗鬼なところもある。それから若い世代でも仕事がなく、オランダに出稼ぎに行ってマリファナを覚えて帰ってきたり、という話を聞くと悲しい気持ちになる。

 

 

それでもまじめで気の利く性格のラトヴィア人は、農業プラスαのことを考えてどんどん発展していくのだと思う。

 

一つ提案があって、ロシア語を勉強したい日本人はラトヴィアに行くといいと思う。ロシアほどビザだなんだで不自由ではないし、物価も安く、ラトヴィアに居るロシア系住民はやっぱり気が利く人が多いので、語学留学するにはちょうどいいと思う。

2日目、サムットソンクラーム県で週末を過ごしていた僕は、メークロン市場とドンハイロー(Don Hoi Lod)に干潟を見に行った。

 

メークロン市場は、線路の上に市場が広がっていて、電車が来ると大急ぎで店を引っ込めるので有名だ。その活気ある市場を見学した後は、ドンハイローにランチに出かけた。

 

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アンパワーでスクーターをレンタルしようと思ったが、どこも取り扱っていなかった。仕方ないのでソンテオ(ピックアップトラックの後ろが向かい合う客席となっている乗り物)で15分くらいだろうか、メークロン市場に向かった。乗り合わせた中学生くらいの男子3人、女子3人は楽しそうにしていて、これからカラオケに行くという、運賃はひとり8バーツくらいだったので、みんなの分をおごってあげた。

 

 

メークロン市場は、カオスのようになっていて楽しい。バナナの花や中には食用カエルまでもが売っていた。(写真は焼きガエル)生カエルは1kgが80バーツと安い。結構、食べる人がいるようだ。

 

 

お店の人にいつ電車が来るか聞いて、15分くらい前から動画を撮るためにスタンバイした。アナウンスが流れると、お店の人たちは商品を整え始める。それからレールのついた台をスライドして下げて、最後に屋根を折りたたむ。そうこうしている内に、電車が汽笛を鳴らしながらのそのそと入ってきた。

 

そして、電車が通り過ぎると、市場は復活する。なぜ、このような市場が出来上がったのだろう。自然発生的なものだのだろうが、面白いと思った。

 

(※ 翌日はこの電車に乗ってバンコクまで帰った。やたら煩く、レールの上を走っているとは思えないほど上下に揺れた。タイ人は無料、外国人は10バーツで乗れた。途中駅を間違えたのか、電車を下りて、渡し船で川を渡って、また電車に乗り継いでバンコクに戻ってくるのに3時間くらいかかってしまった)

 

   

 

さて、小腹がすいた僕は、メークロン市場を後にして、トンハイローに出かけた。最初は宿の人に教えてもらった川と海とが交わる場所に行こうと思ったが、タクシーの運転手さんはそこには何もないので、トンハイローのほうがよい、とのことだった。

 

 

トンハイローは干潟に突き出した土地で、お寺もあり、地元の人が木陰でピクニックをしている場所だった。ボートも出ていて、海を見学したりできる。干潟はどこまでも続いていて、棒状のマテ貝を捕る人たちがあちらこちらに見えた。

 

海産物も安く売られている。僕は海に張り出したテラスのあるレストランに入った。涼しい風が吹いている。そして、たまに干潟で暖められた生暖かい風が吹いてくる。まぶしい干潟を無数に行きかうカニを見ながら、カニを食べた。

 

こんなリラックスした休日を、バンコクから離れて過ごすことができたことに満足した。いつもLCCで田舎に飛んでばかりいたけれど、忙しないバンコクの近くにもこんなゆったりした場所があるのか、と新たな発見のあった週末だった。

 

 

20年以上前からバンコクに通っている者からすると、今のバンコクは発展しすぎてしまっていて、もう少し落ち着いた郊外に行きたいと思った。そこでサムットソンクラーム県のアムパワーで週末を過ごすことにした。

 

 

アムパワーは水上マーケットで知られる観光地だ。バンコクから車で1時間半くらい。海産物も美味しく、庶民的な家に泊まって川辺でのんびりと過ごすことができた。

 

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バンコクからアムパワーまでは、戦勝記念塔近くのロットトゥー(乗り合いワンボックス)乗り場からたくさんの便が出ている(たしか80バーツほど)。しかし、金曜日のロットトゥーは混んでいて1時間先まで予約でいっぱいだった。仕方ないので、タクシーで行くことにした。メーター換算で800バーツもしなかったので、まあまあだろう。

 

 

昼下がりのアムパワーは観光客もまばらで、落ち着いた雰囲気だ。ホテルを予約していなかったので、宿探しから始めなくてはならない。川沿いにはホテルや民宿がたくさんある。水上マーケットの中心から上流に歩いていけば、だんだん安宿が多くなって、さらには民家にホームステイできるような宿が一部屋1,000バーツくらいでたくさんあった。

 

そのうち、雰囲気のよさそうな民家を選んで泊めさせてもらうことにした。民家は川に向かってテラスがあって、居間は広く風通しもよくて気持ちいい。若女将にきくと100年以上前に建てられた家だという。地元の家族がくつろいでいたり、観光客が寝ころんでいたり、とてもリラックスできる宿だった。

 

 

 

夕方になると、蛍を見物に行く観光船や物売りの船などが行きかう。そのたびに目の前の川を船が通るのだが、こちらを撮影している観光客もいて少し気まずい。潮流の差が激しく、流れの向きも絶えず異なっていた。

 

 

夕食は水上マーケット近くの屋台で買った。カニ、イカ、エビ、貝などさまざまな海産物が売られている。いろいろなお店でほしいものを買って、近くの食堂に持ち込んだ。タイのいいところは、食堂で何かを買えば、持込もOKなことだ。食べきれなかったら、食堂付きの猫が食べてくれる。

 

 

二日目は、メークロン市場とドンハイロー(Don Hoi Lod)の干潟を見に行った。

それは次のブログで。

2016年、新年の抱負にも「キリマンジャロ登山」と書いた。
そこから、僕はキリマンジャロについて調べ始めた。

キリマンジャロ空港


<Webから得たキリマンジャロ登山情報>

まず、キリマンジャロ登山についてWebで調べ
いろいろなことが分かった。

・キリマンジャロの登頂を妨げる要因として一番大きいのは
 「高山病」だということ。
 ⇒ダイモックスという予防薬があるが、日本では処方してもらえず
  モシでにて調達した
・いくつかのルートがあり、マラングルートが小屋もあり有名なこと
 ⇒僕は景色がよいと評判のレモショルート(テント泊)を選んだ。
  6泊7日程度で登るので、高度順応できる。
・登山のベストシーズンは乾季で、それ以外に大雨季、小雨季がある。
 ⇒大雨季は登山に適さない。今回は小雨季の4月末(日本のGW)に決めた。
  ※少雨季に予定したことは、後ほど、少し後悔することになる
・キリマンジャロ空港が近く、モシというキリマンジャロ登山の
 拠点となる便利な町があること。
 ⇒ナイロビからだとバスで7時間など移動だけで体力を消耗してしまう
・キリマンジャロ空港へは乗継1回で行けること
 ⇒KLMを使えばアムステルダム(先進国)経由でタンザニアに入れる
  オフシーズンでは、東京⇔キリマンジャロは14万円程度

そして、一番重要なのは現地ツアー会社の選択だ。
これもWebでユーザの評価や書き込みをもとに何社か選んで、
いくつかメールを送ってみた。

1つ目の会社は、返信なし。2つ目の会社は、僕のメールが誰かに
転送されて、その人から連絡があった。僕がメールした会社とは
別の会社からの返信なのだが、Web調べると返信者の連絡先や顔写真
その他いろいろ載っているので、どうやら架空の会社ではなさそうだ。

現地ツアー会社のメールアドレスが、yahoo.comでフリーアドレス
なことに不安を覚えたが、レスポンスがよいのでこの会社に決めた。

ツアーの価格、日程調整、空港からの送迎、モシでの宿泊ホテルや
前金の振込先をどうするか、などのやり取りはスムースに行われた。
ほぼ同時に出発の2カ月以上前から航空券も予約した。

日本に居ながら5万円ほどの前金を国際送金した。みずほ銀行では
いろいろ調べられた。送金先がイスラム教徒も多いタンザニアで
銀行もツアー会社も住所は私書箱だから仕方ないかもしれない。

送金して、もし騙されたら、高い勉強代、と思うしかない、
と思っていたら、入金の確認ができた、とすぐに現地から連絡がきた。
予約したのは2月で、出発は4月末だったが、3月や4月初旬にも
連絡をくれた。だから、とりあえずは入金詐欺ではないと判断した。

それでも、僕は慎重なので、最悪の場合は空港に着いても誰も迎えに
きていないことも想定して、登山の予定に対して前後に予備日を設け、
現地で再度ツアー会社を探せるようにもした。

日本食


<キリマンジャロ登山に必要な物>

キリマンジャロに登った後に考えて、必需品と思うものは次の通りです。
ヘッドランプやリップクリームなど一般的な物とは、異なる物を書きます。

・アルファ米のおかゆ、日本食
 ⇒体調を崩したり食欲がなくても、おかゆくらいは
  食べることができるので、現地の物を食べることができる人も
  少しはもっていったほうがよい
・アミノ酸スティック
 ⇒気休めにあったほうがいい、と思う
・2本目の水筒
 ⇒僕の持って行った保温の水筒だけでは足りずに現地で調達した
・傘
 ⇒ふだん登山で傘は使わない人でも、雨季では必需品となる
  僕はもっていなかったので、現地で地獄を見ることになる
・細かい紙幣の米ドル
 ⇒ガイド、クッカーやポータたちに支払うチップに使うのに
  細かい現金が重宝する
・小さなガムテープ
 ⇒持っていくか微妙なところだが、これがあればテントに
  ネズミが侵入してくるのを防げたと思う(特殊事情か?)
・寝袋
 ⇒現地ツアー会社で借りれるが、頭のところなど臭いのが
  気になる方は、自分のものを持って行ったほうがよい
・押すだけノーマット
 ⇒どちらかというと麓のホテルにて使用。マラリア予防薬を
  持っていないので、できるだけ蚊を避けたかった
・古くなった登山用品
 ⇒ガイドやポーターにチップと一緒に渡すとすごく喜ぶ。
  現地ポーターは、粗末な装備で重いものを運ぶ。それでも
  1日10ドルくらいのチップなのだから、何か渡したくなる。

傘


<キリマンジャロ渡航直前の準備>

黄熱病やB型肝炎の予防接種を行ったほうがよい、とビザ申請時に
タンザニア大使館の方に言われたが、Webを検索したところ
推奨地域を外れていたので、予防接種はしなかった。


たまたま、いつも山用品を買っているお店の店員さんと
話をしていたら、彼も先月キリマンジャロに登ったというではないか。

一人の登山客にたいして、ガイドとポータさんなど5人ほどがついてくれた、
という話やポータさんへのチップなどはガイドと相談して決めた、など話を聞いた。

それから、渡航の4日くらい前に、富士山の次郎小屋に泊まり
雪の富士山を6.5合目くらいまで登って高度順応を行った。

仕事は忙しかったがなんとかアムステルダム行きの飛行機に
乗り込むことができた。

アムスで1泊し、いざキリマンジャロ空港へ。