「おせち」の由来と歴史
「 おせち 」 とはそもそも何なのか?
今回は お正月 にはお馴染みの
おせちの由来と歴史 に迫ってみたいと思うだすぅ~ (^O^)/
もう三が日は明けているだすが・・・
まあまあ、ご覧になって下さいませだすぅ (;^_^A
ちなみに 上の画像は食べ太郎が 3日がかりで作った おせちだすぅ
なんと正月三が日がおせち作りで丸々潰れたのだすぅ (ノДT)
だから記事を更新しようにも出来なかったのだすぅ
そんな訳で・・・今更だけどおせちの記事なのだすぅ
いやあ~めちゃめちゃ疲れただすぅ
さて、では本題に入りませうか (*^ー^)ノ
「おせち」は漢字で表記すると 「 御節 」 となりまする。
それではその 「 節 」 とは何を指しているのか?
「節」とは 「 節日(せちにち)」、
つまり 季節の変わり目 の事なんだすなあ
これは遥か昔の 弥生時代 に中国から伝わった風習のようで、
狩猟の縄文 から 農耕の弥生
へと
生活様式が移り変わって行った時代の人々が、
豊かな恵みを与えてくれた神 に対して節日に供物を奉げていたのだすぅ
中国から伝わった節日は、やがて日本の風習に溶け込み、
日本独自の節日 が定められ、
平安の朝廷では節日に 「 節会(せちえ)」 という宮中行事が催されるようになったのだすなあ
これは神前にお供え物をして 神へ祈願をする宴 で、
その際に供された料理を 「 御節供(おせちく)料理 」 と言うのだすぅ
これが現在で言う 「 おせち 」 の語源 と考えられているのだすなあ。
また平安時代には
元日、白馬、踏歌、端午、豊明が五節会として特に重んじられたようだすぅ。
つまり節会は正月だけではなく年に何回か行われていたのだすぅ (・ω・)/
さて、江戸時代 になると庶民の暮らしは豊かになり、
それに伴い 食文化も発展 して来ましただすぅ
そして庶民が節会を真似て 独自の御節供料理 を作るようになって行ったのだすぅ
皆さんもご存知でせう、
数の子は子孫繁栄 とか、鯛はめでたい
とか…、
この 語呂合わせ、駄洒落 的なものは、
きっと 江戸時代の流行 だったのでせう (-^□^-)
食べ太郎が好きな江戸時代の絵師 「 鳥山石燕 」
師が好んで描いた 妖怪画 には 洒落 や 語呂合わせ や 暗喩 など、
その画の中に 様々な謎解き が散りばめられていまする ( ̄▽+ ̄*)
そこから推し量るに、こういった 風俗の土壌 が江戸時代にはあったのでせう。
そしてその風俗があればこそ、江戸時代に現在のおせちの原型が生まれたのでせう…たぶん
※…全くの素人の個人的見解ですので責任はもてません (;^_^A
ちなみに民間では節会ではなく 「 節供(せちく)」 と言ったようだすぅ。
そして時代と共に神前へのお供えの風習も無くなり、
現在の 「 節句(せっく)」 へと変化したのだすなあ。
節句に神前へお供えする風習が消えていった中でも、
年の 一番初め の節句であり、
且つ料理が一番 豪勢 な正月だけはその風習が残り、
現在のおせちの習慣が出来上がったのだすぅ (^~^)
では何故豪勢かと言うと、年神様 をお迎えするからなのだすなあ
そしてまた 今年も一年豊作であります様に との願いも込められているのだすぅ。
また、この年神様の中には
大きな音や火が苦手な神様 もいるので、
保存の利く料理を作っておいて、
正月は竈に立たずに 静かに過ごす という意味もあるようだすぅ
更に、正月くらいは 竈の神様にも休んで頂こう という事も含まれているみたいだすなあ。
そしておそらくはそこから転じて、正月くらいは お母さんに台所仕事を休んで貰う
という理由になったのでせうなあ、きっと
そして 「 おせち 」 という言葉がいつから使われるようになったのかと言うと、
第二次大戦後の時代に デパート が商戦の一つとして
御節供料理をおせち料理と略して 売り出したのが始まりみたいだすぅ。
付け加えるとその現代のおせちのルーツである御節供料理は
もともとは重箱に入っていた訳ではないのだすなあ。
これは 武家で祝いの席 に食されていた 「 祝い膳 」 が元になっているのだすぅ (´∀`)
祝い膳とは、めでたさを重ねる という意味で重箱に詰めた料理を重ねたものなんだすなあ
・・・という事で、貴族に依り始まった御節供料理が、
庶民の手を経て変化し、武士の文化を取り入れ、戦後の復興の風に乗り、
現在のおせちの形になったという訳なんだすなあ~
さてさて、では次回からはおせち料理に込められた意味などを
食べ太郎が作った三段重を紹介しながら、三回に渡って解説して参りませう :*:・( ̄∀ ̄)・:*:
更にその後は食べ太郎が3日がかりで作った
全19品 のレシピも順次ご紹介して参りまするよお
ではではお楽しみに~