<城下町福江>

5月22日月曜 曇天

いよいよ翌日はフェリーで博多へ帰る日。
五島にいられるのもこの日が最後ということで、港に近い福江の町で宿をとった。

福江は城下町である。
ホテルの部屋から城が見える。
ホテルの最上階は大浴場になっており、
ここからも市街地と港が一望できた。
夕食後、時間ができたので城まわりを散歩することにした。

 

宇久五島氏の居城として江戸終末期に完成した石田城。
一万五千石程度の小藩にしては非常に立派なツクリをしていて、
掘割、石垣など大変な経費であったろうと思わせる。
普通はこの程度の藩ならば土塁に裸櫓でも十分のもの。

現在城の敷地は学校や資料館など公共施設として使われている。
城跡を学校に使っているといえば茨城の水戸もそうであった。
本当は記念公園にしてしまうよりも、そうあるべきかもしれない。



さて、城は現在こそ市街地に飲み込まれてしまっているが、
完成当時は三方を海に囲まれた大変珍しいものだったそうである。
ということは、陸から攻められ防戦することを考慮して作られたということか。
城内から石垣の下を通る抜け穴もある。
海には常に船をつないでおり、万が一の際は城主はここから落ち延びることに(どこへ?)。
ということはやはり陸から攻められることを想定して城が作られたのであろう。

しかし、海から遠距離砲撃を受ければ為す術がないことは誰か進言しなかったか。
さらには城のある地点よりもやや小高い土地がある。
徒歩2分程度のそこは現在繁華街であるが、陸から攻めるならばここが要地だろう。
当時の大砲でも十分射程距離に入る。
(当時東京湾のお台場に据えられた旧式砲の射程は1500から1900m)
高いところと低いところで砲戦をすればどちらが有利か、素人でもわかろうというものだが。

まあ、そもそも城下まで攻め込まれて勝てる戦はないということか。
実際城は完成から二年で明治維新を迎え、写真の如く観光名所になっている。
要塞も軍隊も本当は平和の象徴。
使われるときはドウシヨウモナイときだということに違いない。

五島最後の夜は城下町を散歩して以上のような印象を得た。

 

翌朝、良く晴れた福江港を出発。
博多までは9時間の船旅。昼食も夕食も船の上である。
港で買い込んだ弁当を食べつつ外を眺めた。
トビウオが船の行く手に現れては消えた。

<完>