さくちゃんが病気になって移植医療が必要になり、そしてさくちゃんが亡くなりずっと考えてきたことがあります。

移植医療とは。

これに関して、ずっと考えてきました。

というより悩んできました。

普通の医療だったら、治療を受けることは個人の問題で、でも移植医療は医療を受けるのに脳死や心臓死のドナーの問題があるからです。

これは想像で、こういったことを想像すること自体失礼なことなのかもしれないけれど、もし自分の子供が脳死になり、機械の力をかりなければ生きられないとしたら、私はきっと子供の心臓が止まる最期の瞬間までそばにいたいと感じると思います。

でも私は、娘のさくちゃんが移植を受け、救ってもらった経験があるので、もし自分の子供が脳死になったら提供するという決断をすると思います。

また、自分の子供が移植が必要になったら移植させたいと思います。


これは私が経験したことがもとで、ある日突然子供の死に直面した方が感じたり思ったりすることとは違うし、考え方は人それぞれだし、それが尊重されるべきだと思っています。


心臓が止まった時、提供の意志は持てる、提供することに希望を見出だせる、これは経験したことだから言い切れます。

本当は個人個人の死に係わるような移植医療はないほうがいいと考えることもあります。

でも、医療の進歩で移植医療ができ、それで救われる命が沢山ある、救われる家族がいる、そのことは本当に希望が持てることだと思っています。

移植医療は何が正しいのか、何が正しくないのかなんて誰もわからないと感じます。

とにかく医療とは、ただ生きたい、生かしたいということが全てで。

テレビである看護士さんが言いました。「医療現場で働く中、自分自身にも人間として、こうしたほうが良いとか、しないほうが良いとか考えはあります。でも子供にとって最善と思うことを家族が考えるならばそれを尊重して支えたい」と言っていました。

私は、この言葉を聞いて、考えていた気持ちが楽になったというか。

ドナーの方にはドナーの方の考えや想いがある。

移植医療に反対の人には反対の人の考えや想いがある。

移植を必要とする人にはその人の考えや想いがある。

だから、選択するということがある。

今の移植法案改正でそれぞれの想いで選択できる、それぞれの想いが尊重されるのはA案しかありません。

子供の脳死判定や提供に親として疑問があれば拒否する。

法的脳死判定を受けなければ厳格に脳死と判定されない。

救いたい、救ってほしいという気持ちも尊重されます。

改正の際、どうしたら救える命を救えるかということが根本にあり、移植医療を推進したくない、どうしたら廃案できるか、ではないことを考えてほしいと思っています。


治療法があるのに死をただ待つ、大切な命を失う、ドナーやレシピエントの方々の想い、これらの気持ちは国や改正反対派の方々が負ってくれるわけでもなく、当事者がずっと忘れることなく背負って生きていかなければならない想いです。

それなのに自由な選択のある希望すら与えることに前向きになれない、というのは良くわからないのが正直な気持ちです。

国は日本として納得のいく結論を出して欲しい、心からそう願います。

※このブログは個人としての考えなので引用等はお断りさせて頂きます。