オリンピックのエンブレムと、その周辺のデザインが、盗用疑惑として世間を賑やかしています。

他人のものをそのままコピー貼り付けしたものは論外として、所謂”似てる”デザインという事は、まぁあるのだとは思います。

僕はこれが盗作かどうか、多分それ程興味無い。センス云々についても特に言う事はないです。でもまぁ、普通にスマートだなというか、言ってしまえばツマラナイとは思います。
そして、そのツマラナさと同時に何かしらの違和感を感じています。それが何なのかなと考えていました。

世の中の優れたデザイン達は皆、その依頼者のニーズに応えながら、商業的に成功する事を目的として生まれています。それはデザインに限らず、客商売ならお客様のニーズに応える事を目標にすると思います。

でも、ニーズとは、何だろうか?と考えます。広く一般に売れる為には、世の動向とか、流行りに敏感であり、皆に受け入れられるように、常に平均値を探るような作業にもなります。
例えばひとりの大金持ちが快楽で作品を依頼したなら、その人個人の価値観と言う事になるのでしょうが、それは商業的観点とは少し違うように思います。

ところで、資本主義社会においては、競争が社会を動かす原動力であり、またその切磋琢磨が世を向上させていくという理想を持っていると思います。競争の種類は多種多様で、同じものを売る2人のセールスマンにも競争はあり、お互いを向上させ得るシステムがあると思います。ある製品を如何に使うかを分かりやすく伝えたり、使用例を提示して見せたりもすると思います。
また、営業マンが売る製品を作る人も、より使い易く改良したり、付加的な機能を加えたりして、消費者のニーズに合わせて改良していくと思います。

さて話が飛びますが、奥野良之助さんという生物学者の書いた「さかな陸に上がる」という、生物の進化論がありますが、それによると魚類から両生類、爬虫類、哺乳類と、それぞれ各類の中で、先ずはそれぞれの環境の中で強くなる為に適応して形を変化させていく訳ですが、次の類へと進む”進化”の過程は、常に、寧ろその類の中で環境に適応出来なかった種が、新しい荒野を求めて全く違う形態に変えていく結果によるらしいですが、

今僕たちは、商業ベースで生きている中で、その環境で生きる為には、その類での中で”適応”を考えるのは当然です。しかし、そこに適応しない、次の荒野を目指す種も又、社会の中には在って、時々天才的と言いたくなるような表現を見せてくれる訳です。

僕は化学専攻でしたが、大学時代に研究室で教授が言っていた言葉を思い出しますが、即ち偉大な研究とは、今まで無かった荒野に、それを応用した多様な仕事を生み出す事だと。

話を戻すと、オリンピックのエンブレムという、国のイベントを象徴するデザイン。作者によると、様々な展開例とか、使用用途を視野に入れて少しずつ変化させて今の最終形に出来上がったものらしいのです。なるほどその様な意図なら、時代のニーズの適応を主眼としていますから、何処かに類似したデザインになるのも必然と言えるでしょう。

でも、

オリンピック主催というイベントにおいて、国をあげてコンペを行って選考するデザインにおいて、そこはやはり僕たちは、”荒野を切り開く”デザインを期待してしまう訳です。つまり商業的時代のニーズに適応した優秀さ”の外側にあるもの”を求めていたのだと思います。そして、オリンピックというものは、そういう浪漫を持っていなければならないと、やはり今でも僕達は夢を見たい訳です。

それは恐らく、天才のみが成せる事だと思います。でも、日本にはそんな天才がいると思うし、そういう人を見つけ出すコンペであって欲しかったと思う。
社会に適応出来ない、成長しない僕のようなピーターパンは、その裏切りを感じているのだと思います。