ベッリーニ/ロマーニによる、この作品は反戦のオペラと言えます。若いふたりのロマンを描いたシェイクスピアのロミオとジュリエットとは内容が違います。


戦争は人が死にます。今の戦争は近代兵器による殺戮によって、殺す人間が殺される人間の眼を見るという事は、まずないでしょう。しかし、ロメオの時代の戦争は、剣で殺すにしても銃で殺すにしても、殺し合いの中に人対人のリアルなコミュニケーションがありました。事実、オペラの冒頭でロメオは和平交渉に自ら乗り込んで来る訳ですが、その時の彼は、過去に直接人を殺してしまった痛切な悲しみを背負っています。それは、政治家が官邸の中で平和を訴える行為とは、そのリアリズムにおいて全く違う。だからこそ戦争をもう繰り返したくないというロメオの訴えがあります。しかしそれは、正に彼に殺された当人の肉親であるカペッリオの憎しみによって否定されます。なんとリアルな憎しみの連鎖によって戦争は継続されるのでしょうか。

そして、さらにロメオは愛するジュリエッタにも、共に逃げようという思いを躊躇われてしまう。

追い詰められていくロメオは、結果的に新たな戦いへと、手を血に染めていかざるを得なくなっていくわけです。

更には愛するジュリエッタの死に直面し、誰を恨む事もなく自らの死を選んでしまう。

あまりにも純粋な心を持つロメオ。
それをベッリーニは女性歌手(メゾソプラノ)で表現しました。宝塚的な、中性的な男性(人間として)として、その純粋な心を描いているのです。

ここで、実はミャゴラトーリと演出との話し合いが行われました。ベッリーニ自身が、自らの時代(イタリア統一運動の時代)の現代劇としてこの作品を作り、それがドニゼッティ、ヴェルディと受け継がれて、更に僕たちが、今僕達が生きている時代にも照らし合わせてこの作品を上演すると考えるならば、お客さんにとってそれがリアルな形として受け入れられるテノール(男性)ロメオにも意義があると(過去にもテノール歌手ロメオによる公演は行われています)。しかし同時に、ベッリーニが、女性だからこそ表現できるとして描いた純粋さ、メゾソプラノ(女性)ロメオは当然基礎にするべきであるし、それを追求するべきです。

しかし、テノールにしても、メゾソプラノにしても、それを演じられる歌手、つまり『男性である自分を俯瞰出来る男性』、逆に『その男性を表現できる女性』は、実に稀な存在です。

しかし今回、結果的に、しかし実に幸運なキャスティングとなりました。

森山京子さんがロメオを受けて下さった時に、岩田氏から出た言葉は『この勝負、勝った』(何と勝負してるのか知りませんが(笑))です。更に、寺田宗永に対しては『彼は僕にとって、本当に特別なテノールです。テノールとして唯一、彼であればロメオを考えられる。』と言っています。
今回、先日の演出レクチャーの中で、実に百戦錬磨の森山さんにして、今尚、ロメオという男性を演じる事に対しての不安の言葉が岩田氏に向けられました。寺田にしても然りで、正に今日、音楽稽古の中で、ロメオ像に向けた苦しみを常に発していました。それくらいに、ロメオは男性であり、また、中性的なのです。

今回のプロダクションでは、このふたりのダブルキャストによる、もちろん演出、指揮、スタッフ総動員での、ロメオを探す現場になるかも知れません。ベッリーニが、1830年に、ロメオに込めた思いは何か?その壮大な挑戦と言えます。

もちろん、その鍵を握るのはジュリエッタです。それはまた次回のブログにします。

どうぞ、公演に足をお運び頂きたく思います。
ダブルキャスト・2つの公演で、全く違う作品になるかも知れません。もちろん追求するものは、ひとつです。

出来れば両日見て、それを感じて頂きたい!

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さて、今回は僕自身もロレンツォとして出演させて頂きますが、楽譜を見て行くと実はロレンツォとカペッリオは、いわゆる、ベッリーニの美しいメロディを持っていないことに気づきます。
逆に言うと、このオペラの中で「音楽」を持っているのは、ロメオ、ジュリエッタ、そしてテバルドです。
前回も書きましたが、このオペラでは、冒頭にロメオが和平協定を提案するにも拘らず、カペッリオの、肉親を殺されたというほぼ個人的な恨みによって戦争は継続されます。

しかし、オペラの終盤を見れば、ジュリエッタの死(実際には仮死ですが)に直面したロメオとテバルドは、決闘中にも拘らずお互いに相手を殺すことを止めます。テバルドはジュリエッタの死は自分の責任だと嘆き、ロメオは絶望し、自らの死を選びます。

戦争を止めるには、恨みの連鎖を断ち切らなければならない。カペッリオは過去に殺された肉親の恨みから新たな戦いに発展させてしまうのに対して、ロメオとテバルドは違う。ここが、ベッリーニがこのふたりに音楽を持たせた(音楽のある人物にした)、反戦に向けての表現だったのかも知れません。
テバルドには、前回のカヴァレリアでトゥリッドゥの痺れる哀愁を歌いきった青柳素晴と、ピュアで繊細な表現、また躊躇いなく弾ける瞬発力を待つ布施雅也にお願いしました。

そして同じように音楽を持たないロレンツォ。ロレンツォは真ん中に立ちながら、あまりに無力です。理屈や正論が何の役にも立たないことを身を持って表しています。
1幕フィナーレで、合唱(兵士達)を含めた全てが闘いへと引きずり込まれ、イタリア中が恐怖に震えるのだと歌う中で、たった一人だけ「pietà !」と歌っているのですが、これは絶対に客席には聞こえないでしょう。しかし、敢えてひとり歌わせているのです。
そんなロレンツォは、深く美しい音色を持つ、藪内俊弥が歌います。深い音楽性を持っている藪内が、音楽を持たないロレンツォを表現するという、滲み出るであろう葛藤と哀愁は楽しみです。僕も頑張りたいと思います。

是非、当日足を運んで頂けたら幸いです。

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「カプレーテイとモンテッキ」は、
ロメオ・モンテッキとジュリエッタ・カプレーテイ(ロミオとジュリエット)のお話です。
ロミオとジュリエットと言えば、圧倒的にシェイクスピアのものが有名です。ベッリーニが「カプレーテイとモンテッキ」を作曲した時代に既にシェイクスピア作品は知られていたと思われます。しかし、ベッリーニ/ロマーニ(台本)は、あえて「カプレーテイとモンテッキ」として別の作品を作ったのです。
「ロミオとジュリエット」はシェイクスピアのオリジナル作品ではありません。彼も元にした台本があり、遡ればギリシャ神話にまで行き着きます。
シェイクスピアはこの物語を、若いふたりの“悲恋の物語”として描きましが、しかしベッリーニ/ロマーニが同原作から作った「カプレーテイとモンテッキ」は、“恋物語”ではありません。言わば、反戦のメッセージを込めて、若きロメオの苦悩と、世界に翻弄されるジュリエッタの、その成長をすら描いたように思います。

演出の岩田氏曰く、この作品はベッリーニが作曲した時代の社会情勢が練り込まれたものであると。即ち、フランス革命の後、貴族とブルジョアが対立しながら、イタリア統一運動に進む社会。そこでは圧倒的に若者が、未熟ながらも主張し先導し、数え切れない犠牲を背負いながら巨大なエネルギーに立ち向かっていた。

少なくとも、今回の、ミャゴラトーリの公演では、そのように作ります。

冒頭近くで、ロメオからの和平協定の提案の知らせを受けたカプレーテイ家の当主(ジュリエッタの父)であるカペッリオが言う言葉があります。
「Fu vendicato. Il mio soltanto è inutilo.」
(奴らの恨みは晴れたかも知れないが、俺のはまだだ)
実はこれが、いわゆる戦争の本質なのです。それは近代の世界大戦においてすら、突き詰めればこのような位置関係の中で民衆は犠牲になっていくのだと。

この物語において、従ってカペッリオの位置は重要です。彼一人の“恨み”の為に世界が戦争へと動いていく、この狂気。
今回、それを表現したい思いで、カペッリオを須藤慎吾と大沼徹にお願いしました。これは岩田氏が熱望したキャスティングです。

全てのキャスティングは岩田氏との協議の中でイメージして行っています。これから、別の役についても順次紹介していきたいと思います。



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拘りのミャゴラトーリ公演
「カプレーテイとモンテッキ」
是非、足を運んで頂けたらと思います。





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