前回、日本語教師を始めたことを書きました。

 

どうすれば誰もが上手く日本語を習得できるかを知りたくて
自分の身体を使って、様々な言語習得法や教授法を試してみました。
 
 

英語を1000時間聞くヒアリングマラソンというのもやりましたね。

 
 
聞くだけでは話せるようにはならない!
 
という証明は出来ました(爆)
 
 
 
 
同時に日本語教育だけではなく、言語学の勉強も続けました。
 
今思い出しましたが、そういえば学会にも行ってましたね。
本質的ではなく、なんの役にも立たない研究発表が多かったです。
 
 


文法に関しては例外が多すぎてスッキリしないと思っていましたが


音声の勉強をしていて
 

人間の出せる音声は、民族や人種に関係なく
この範囲内なのだ


と思うと、面白かったですね。


人間の声帯、舌や口唇、口蓋を使った組み合わせでの「肉体が限界」となって


母音は、ここからここの間と決まっていて
それをどう分割するか、あるいは中国語のように高低差を付けて種類を増やす

子音も種類は多くとも無限ではない



その中から、言語によって採用しているものが違うわけです。

採用というか、自然に淘汰されて残ってきたと言えばいいのかもしれませんが。
 
 
 
 
そんな感じで
言語習得法の一環として、ある日
 
 
子どもが自然に環境で話されている言語を習得するように
言語環境を作って、その中で自然習得をする
 
という活動を知り、始めてみることにしました。
 
 
それも、日本語と英語という2言語だと対立が起こるので、3言語以上の多言語でという理論です。
 
 

そんな人工的な環境で、子どもではない大人ができるのか?
 
と正直信じてはいませんでしたが
 
 
理論としてはもっともだ
 
と思い、自分自身で実験してみようと考えたのです。
 
 
 
当時、上の娘が3歳。
離婚した翌月のことです。
 
今思えば、人生の転機でした。
 
 
 
*書いていて気づきましたが、理論としてはもっともだ、というのはエスモーズのコラムを初めて読んだときにも感じたことなんですよ。
 
(写真の松原さんが怪しすぎたのと、書いてあることはもっともだというギャップで、一度会って確かめなければと思ったのでした)
 
 
 
 
理が通る物事に根源的な興味を持っている
 
ということですね。