なかなか暇がなくて書きたい事が書けない日々を過ごしております。皆様いかがお過ごしでしょうか?

すっかり寒くなっちまいまして、個人的に苦手な季節の到来にビクビクしております。本日は前回の続きと行きたい所ですが気になるニュースも溜まっているので、少し時事ネタを突っつきたいと思います。

中川昭一が死んじゃいましたね。これについて何も書かないのも不誠実だと思いますので、今日はその辺から少し書いて行きます。

彼についてはそれこそボロクソに書きまくって来たし、大っ嫌いだったのですが、死んじゃったとなると、かわいそうな感じがしてしまう。日本人的メンタリティーバリバリの三日坊主です。バカだのクズだのゴミだの辞めちまえだのと、散々罵倒して来たので、いざ死んじゃったとなると、なんか複雑な気持ちがしてしまう。まあそれでも、自分が口汚く罵倒して来たのは、まぎれも無い事実なので、彼が追いつめられていた力学に加担していたのは自覚しております。

とは言っても、彼が酩酊会見をしたときなんかは、このブログでは彼の酩酊自体は批判しておりません。むしろ彼を恥だと騒いでいる世論の方こそ違うだろと書いた。彼を支持したのは誰なんだよと。彼の恥は我々の恥だぞと。海外のメディアからバッシングされているのに対しては、うるせえ、余計なお世話だぜとまで書いた。中川を批判するのは俺たち日本人であって、外人がとやかく言ってんじゃねえよと。それに中川氏が吹き上がってぶちあげた核武装論に対してナンセンスだと叩いていた連中こそナンセンスだと擁護した事もあった。議論する事自体は自由なはずじゃないかと。

酩酊会見直後のエントリー

大臣をクビになった直後のエントリー

まあそういう事を書いたのは書いたのですが、別に彼の方向性を擁護していたわけでもなんでもないので、自分が彼を罵倒していたのは消えませんし、別に後悔もしていない。申し訳ないとも思っていない。だけど、やっぱり死んだとなると、さすがにちょっとかわいそうな気がしてしまう。あの酩酊会見がターニングポイントとなって、大臣を辞めてから選挙には落ち、まさに踏んだり蹴ったりだった事でしょう。

しかしそれも彼の自業自得、同情の余地は一ミリもない。と言いたい所だけど、やっぱり死んじゃったとなるとさすがに同情したくなるのが人情と言うもの。大臣を辞めて半泣きしていた時も若干気の毒な感じがしましたけれど、死んじゃったというのは次元が違う。

しかしかわいそうだと思う事と、彼を美化して利用しようとする力学とを混同してはいけませんので、これだけは今だからこそはっきり言っておく必要があります。死人に鞭打つようで何ですが、彼と彼を利用する勢力は保守とはとてもじゃないけれど呼べるような代物ではない。

麻生とか安倍とか保守を装う頭の悪いバカが、保守の要を失ったとか騒いでいますが、麻生とか安倍のようなクズ共も保守ではない。もっとも遠い所にいる対局にいる存在です。だいたい「美しい国」だから、もしくは「とてつもない国」だから、我々は郷土愛を持つのではない。偶々この国に生まれて、この国のいろんな人達と関係を持ったから、この国を愛憎入り交じったムカつく所もあるし情けない所ばっかりだけれど、最後の最後は日本人という属性をぬぐい去る事は出来ないという意味で自分が日本人である事を否定出来ないように日本という国を肯定せざるを得ない。

それはいい国だからでもなければ、美しい国だからというわけでもない。どんなに情けなくて薄汚い国であっても、「我々は日本人である、なぜならば日本人であるからだ」という循環論法でしか説明出来ない感情こそが愛国とか保守の要にあるもので、自分が思う美しい国とか、いい国であるとか、こういう国であるべきだとか、そういうのは自分の価値観でしかないわけだから、それぞれ自分が大切だと思った価値観を大切にするのは、人に迷惑をかけない範囲においては人それぞれの自由。だけどそれを誰かがこうであると押し付けるのは余計なお世話。まして国家権力がそれをエビデンスにして敵を排除し、何らかの制度を作り込もうなんて言うのは、どのように舵を取ろうとしても、それがどんなに正論であったとしても、ある人にとってはただの抑圧でしかないわけで、少なくとも保守であるのなら、そういう事に敏感であるべきであって、よっぽど慎重にやらなきゃマズい。

どこに敵がいるとか、誰々は愛国心が無いとか、そういう事は保守でもなんでもない。愛国心が無くても、愛国心があっても、金持ちでも貧乏人でも、エリートでもニートでも、男でも女でも老人でも若者でも、田舎者でも都会人でも、もしくは日本に住んでいるけれど日本国籍を持っていなくとも、日本に住んでいないとしても、ムカついても嫌いでも、「我々は仲間である、なぜならば我々は仲間だからだ」という根幹の所を保守しなくて、何が保守出来るというのか。

バカ左翼みたいな「みんな仲間」わかりあえる、みたいな寝ぼけた事が言いたいわけではなく、わかりあえるから仲間なんじゃない。意見が異なっても、価値観が違っていても、我々は日本人であるしか無い、アジア人であるしか無い、地球に住む人間であるしか無い。

家族だってそうで、「善い家族像」みたいなものを守っている家族が善い家族なのではなくて、ボンクラな親でも、アホな子供でも、その家に産まれた以上、家族であるしか無い。善い家族だから家族を守るのではなく、家族だから家族を守るのであって、時にぶつかったりムカついたりする事までひっくるめて家族のコミュニケーションに含まれている。善い母親像とか、理想の父親像とか、同じく理想の子供の姿とか、そんなもんを目指して、プレッシャーに右往左往するなんてのは、クソの値打ちも無いわけで、家族の絆なんてもんは、何かがあるから絆があるんじゃなくて、絆があるから絆がある。絆が無い人に、絆を作れと言ったって無理な話で、誰かに作ってもらうものではない。選択的夫婦別姓で壊れちまうような絆なら、絆なんてはじめっから無いのと同じ。

亀井静香が経団連に向かって、人間を人間扱いしないからこんな国になっちまったと言ったと批判されとります。根拠が無いとか、人気取りだとか言われている。確かにそうかもしれない。自分も正直この人の事はあまり好きではない。政策的な事に関して言えば、かなり厄介な奴が権力を握っちまったなとも思っています。だけど、子供の教育が危ない!!とギャーコラ喚いて、道徳教育だの詰め込み教育だの、愛国心教育だのと騒ぐよりはよっぽど健全な保守だと言える。人の上に立つ責任のあるべき立場にいる人間に、人間を人間として扱え、それが礼儀だろ、と説教する方が百倍マシです。

直接子供の教育とか、親の振る舞い方とか、そういう事を何らかの制度によって縛るのではなくて、家族の絆みたいなものを壊さないような余裕のある社会を守るとか、平等に教育を受ける権利を護持するとか、そういう事を守るのが保守であって、生まれた瞬間からある教育格差を是正するどころかブーストさせるような政策を延々と打っておきながら、それを是正する気配もなく、ただ末端に愛国心を持てとか、家族を大切にしろとか、道徳を守れとかって、ふざけんじゃねえぞって話です。

そんなものは親とか教師や大人達が教育し、子供が勝手に学んで行けばいい事で、いい国だと思えるような、人が尊厳を持って生きられるような国家や社会を守り、腐敗を断ち切って、道徳が空念仏ではないような枠組みを護持する事をやらないで、誰もが余裕も無く、腐敗が横行し、道徳が単なる絵空事でしかないような、空洞化した国家を作っておいて、偉そうに言ってんじゃねえぞって話です。保守すべき所が間違ってんだよ。保守を語っているくせにバカか。

ある意味「日本的インチキヘタレ保守」とでもいいましょうか、保守の復権は是が非でも必要だと(かつてあったのか?)自分は思いますけれど、「日本的インチキヘタレ保守」の復権では意味が無い。本末転倒です。

彼らがヘタレ的な行動作法で活動するのは別に彼らの自由なので、ムカつきはしますが勝手にやってればいい。ああいったヘタレはヘタレで、勝手にオナッていていいけれど、だけど保守を語るのだけは頼むから勘弁してほしい。

ああいうクズが人気が出ちゃう事は金輪際無いだろうけれど、あいつらのせいで保守というスタンスが貶められて、不必要なものと思われかねない。というか思われちゃっている。これは大問題です。ああいうマスカキザルとは別に保守を再生させる(というか新たに構築するというか)必要がある。

彼らが敵を作り、追い込まれてしまうのは、あの余裕の無さと、自分達で線を引き敵を設定しているからであって敵が元々いるわけではない。じゃ無きゃ自分も攻撃はしない。そういう事がわからずに特定の人間にしか通じないコミュニケーションに閉じて勝手に追い込まれて自滅して行く様は痛々しくて見ていられない。そこにアクセプタンスがあるのならそれでもいいのかもしれませんけれど、その承認が彼らを救っているのかと言えば、救っておらず、自滅して行く足かせにしかなっていないように見える。拳を握り虚空に向かって突き上げるのではなく、拳を開いて握手をすればいいのに。

中川氏がしでかした不始末と同様の振る舞いを、仮に小泉元首相がやっちまっていたらどうなっていただろうと想像しますと、あの野郎のことだから、きっと上手く立ち回って下手をすれば人気のリソースにしていたかもしれない。森元首相が仮に同じ境遇に落ちたらどうだっただろうと想像すると、きっとバッシングにもめげずに鈍感に対応していただろうなと思う。

そういう意味で言うと、中川氏とか安倍晋三にしろ、麻生太郎にしろ、小泉とか森のような図太い鈍感さと言うか、いい加減さと言うか、ある意味での余裕というものが無い。それは多分人としては魅力的ではないのだろうけれど、巧みに振る舞う奴よりは純粋な所があるからこそなんだろうとも思える。だからバカなんだろうけれど、本当は政治家の器ではないというだけで、普通の一般市民として生きていれば、それなりに害はない存在のようにも思える。彼らの悲劇は政治家の家系に生まれちゃったという事なのかもしれません。分不相応な役割を期待されちゃった。

中川昭一氏を批判していた姿勢は全く後悔はないし、改める気もないけれど、中川氏のご冥福をお祈りいたします。


さてせっかくなのでもう少し時事ネタを突っついて行きます。最近気になったニュースを見ていると、益々ネットでの情報が世の中を動かすようになったなと実感している次第です。
一例としては、最高裁の一票の格差に対する判決の手のひらを翻すかのような判決なんかが典型でしょう。基本的に合憲とはなりましたが、かなり厳しい条件付きの合憲で、次に何の進展も無ければ違憲になりそうな判決でした。レジームが変わって急に手のひらを返す最高裁の判事達の浅ましさももちろん、散々しらばっくれて来たバカマスコミも、政権交代の影響か、記者会見妨害問題の露見の影響か、かなり踏み込んで書いている所も見られた。

弁護士出身のこのブログでも散々批判した那須裁判官がかなりブレまくっているのが笑っちゃいました。前回は是正する姿勢が見られたから良かったけれど、その後何もやってないので問題だと言っていた。コイツ大丈夫か?

合憲か違憲かを判断するのであって、是正しようと努力していたら合憲で、実効性が無かったから違憲だというのは、実際の法の運用に基づいた基準とは何の関係もない。情緒的ながんばってるから許す、がんばってないから許さないと言ったレベルの、意味の分からない言い訳です。

一般人の気持ち的にそういう感情があるのは理解出来るけれど、それが合憲なのか違憲なのかを判断する際に、こんな恣意的な基準で判断して偉そうにしている連中がこの国の法の番人を気取っているわけです。絶望的な気分になる。

この男なんかは、この間の衆院選の最高裁判事の国民審査で、かなり異例なレベルで×をつけまくられたので、その事が響いているのでしょうけれど、言い訳が小賢しい。

コイツが痴漢冤罪事件をプロパガンダ的に利用した事や、和歌山カレー事件の意味の分からない判決を出した事、一票の格差問題には常に合憲を出して来た事、弁護士でありながら国家権力のケツをなめるような振る舞いはネットで結構広がってましたので、それがそのままダイレクトに影響した。バカマスコミが何も報じなくとも、プロパガンダを翼賛していても、一定の人々がちゃんと監視しているぞという事を示してもいる。

同じように最高裁の判事として、法のもとでの平等の精神に反して、一票の格差に合憲を出して来た判事は、いずれも今回の審査での不信任を、かなり異例な数字で叩き出し突きつけられている。基本的に殆ど×にする人が一定の割合でいて、後はよくわからないので、全く何もつけずにスルーしてしまう人が大多数。そして一応×をつけてみたものの途中でめんどくさくなって止める人が一定数いる。なので一番先頭に名前が載っている人が一番不信任の数が多いのが通常なんですけれど、今回の不信任には明らかにネットでのコミュニケーションによって、自覚的に不信任票を投じている層が、まだまだ人口的な割合で言えばマイノリティではあるものの、かなりしっかりと数字に表れるだけの世論というか輿論(戦前は「よろん」を輿論と書き、「せろん」を世論と表記した。輿論とはリテラシーを持ち、知的水準がそこそこのレベルであり、耳を傾けて聞くべき市民の声という意味で使われて、世論とは情報操作に右往左往して、人気主義に引っかかり、目先のすっきり感や不平不満に吹き上がる、耳を傾ける価値のない声という風に区別されていた。輿論に耳を傾けても、世論に惑わされるなと。これが戦後、よろんも、せろんも、世論と表記されるようになる、戦後民主主義の陥る帰結を考えると、結構重要な問題ではないかと)が作られている。

それがマジョリティーを形成するにはまだまだ時間はかかるでしょうけれど、そういう輿論というのは、下らない世論的な井戸端話よりは説得力がありますので、説明さえ上手く出来れば人を説得しやすい。今はそれにネットという情報の有効な伝達手段によって次第に広まって行きますので、身に覚えのある人間に対しては結構脅威に感じるのではないかと思います。

こういう浅ましい人間の行動作法に楔を打ち込んで恫喝する効果が、ネットの情報空間の中にはあるという事を証明した事になる。

もちろんネットの中でも、ゴミ情報から目から鱗の情報と様々ではありますし、あまりにもゴミ情報が多いので、諦めちゃっている人も結構いますけれど、ちゃんと機能している事を今回証明しているような気がします。希望の全くない時代にこれは希望と言えるのではないでしょうか。

これと同じで、ウィニーの判決が無罪になったのも良かったですね。政権交代が起こったからなのか、この手のひら返しの判決に対しては、浅ましい連中で困ってしまいますが、元々この問題が有罪であるわけが無い。どこをどう考えたってこんなものを有罪にするような要素はどこにも無い。包丁は時々人殺しの道具に使われる。包丁を作っている人はその事を十分承知で、包丁を作っている。だけど包丁を使った殺人事件が起こったって、包丁を作った人は罰せられない。こんな事は当たり前の話でしょう。

車も事故によって年間凄まじい被害者を出す。その事を車を作っている人も売っている人も、メーカーもわかっている。だけど事故で人が死んでも、事故を起こした人が罰せられるだけであって、車のメーカーや作っている人が罰せられるなんて事があるわけがない。

それと全く同じで、ウィニーを使って悪用した人がいるとすれば、その人が問題なのであって、制作者が問題なわけが無い。元々悪用する為に作られたわけではなく、ファイル共有ソフトとして便利なものだったから、それが広がった。制作者に仮に悪意があったとしたって、そんなものは証明出来ないのだから、制作者自体に問題があるわけが無い。こういうクリエイティビティをこの国はずっとぶっつぶして、既得権益を守るような下らない事ばかりやって来たから、将来性ゼロの国に成り下がっている。その一つに司法の無知無教養が原因としてある。マスコミがギャーコラ喚いても、司法がしっかりと判決を出せば済む話です。

こんな当たり前の判決が出たからと言ったって、別に当たり前の話なので、本来であれば喜ぶような話じゃないはずなのですが、この国ではそれが喜ばしい、珍しい事になってしまう。政権交代によってチェックが常に働いている状態が担保されてこそ、司法もバランスを保てるのかもしれません。ちょっとくらい気の利いた判決が出たからと喜んでいると、大概その裏では、良からぬ事が進んでいて、国民が表面的な囮に引っかかってスルーしてしまうというパターンが繰り返されても来ましたので、素直に喜べないし、疑心暗鬼ではありますが、少しずつまともな国家として変わって行く為のスタートラインに近づいていると思いたいです。

この問題はそもそも役人の情報漏洩を責任転嫁する為にウィニーの開発者が血祭りに上げられた構造がある。まさかそれを司法が追従するとはさすがに思っていませんでしたが、一審の判決はまさに役人の失態を隠蔽するかのような力学に追従した、お門違いの判決によって、ウィニー制作者を血祭りに上げた構造がある。こんなふざけた判決を出すような国が法治国家とは言えない。記者クラブの談合マスコミも批判するどころか、この判決のケツをなめていた。当然テレビとか新聞くらいしか情報を収集する手段の無い人にとってはプライオリティの低い話でしかなかったのかもしれない。しかし一部のネットではこの問題は大変な騒ぎになっていた。それが多少の援護射撃になっていたのではないかと思えます。

それを考えれば既存のバカマスコミが記者クラブ体制を護持しようとどんなに振る舞っていても、時代の変化には太刀打ち出来ない。自動車が開発されてしまえば、どんなに馬車の既得権益をガチガチに握っていたとしても、それは意味がなくなる。そういう変化が情報空間では益々進展しているという事を実感出来ました。これは楽しみでもある。

前回の続きはまた後日に。本日はこれにて。