オバマが大統領になりましたね。いやあ面白かったです。それにしてもやっぱりアメリカっつうのは凄い国だと改めて思わされる劇的な変革でした。普段はアメリカの欺瞞を書きまくってますが、ちゃんとスイングバックが働いてバランスを取り戻そうとする。どっかの国とはえらい違いです。

翻って我が国をみてみますと、クソ与党の彌縫策、具合が悪くなります。まあでもバカ与党のクソ政策のおかげで、次期選挙のアジェンダセッティングも出来たような気もしますので、それはそれで悪い話ではないような気もする。

ようするに、官僚機構の高コスト構造をそのままで、消費税によってバラマキをやるのか、官僚機構の無駄を排除してバラまくのか、このどちらかの選択になる。バケツの穴を塞ぐ事なく水をくむのか、バケツの穴をふさいでから水を汲むのかということです。これはポピュリズム的にもわかりやすい争点になる。

後はとっとと解散してくれればいいのですが、なんか任期満了の嫌な予感が過る今日この頃です。

しかしアメリカの変革をみてから国内を見ると、絶望的な気持ちになります。小室哲哉がパクられたとか、守屋が実刑を喰らったとか、比較的どうでもいい類いの話ばかり。そして本当目眩がしそうなどうでもいい話題として、巷で騒がれている、田母神論文。

ハァーッ、溜息が出てしまいます。バカバカしいので書く気も起こらないのですが、そんな事を言い出すと、国内問題は何も書けなくなるので、下らないとか言いつつも、今日はこの話題に少し突っ込んでみようかと思います。

まあいろいろな意見が飛び交っていますが、ありがちな議論には自分は一切興味ありません。今の日本でこういった問題が扱われる視点というのは、ハッキリ言えばクソと一緒。彼を批判する言説も、擁護する言説も全てひっくるめてゴミだと思っている事を最初に書いておきます。

なのでそういった視点からの物言いではありません。言ってみれば田母神論文が問題になる構造を問題にするという感じでしょうか。それではおっぱじめます。

まず常識的な線として、田母神論文というのを一通り読みましたが、正直別にたいした事は書いていない。ただ物事を二元論的に切り分ける、バカ保守っぽい頭の悪さは垣間見えますが、言っている事自体はとんでもない事を言っているわけではありません。

逆に言えばそういう視点がある事自体は原則自由であるべきですし、彼はその事でサンクションを受けたものの、簡単に自説を曲げたりもしないわけですから、責任はキチンととろうとはしているように見えます。

立場的にそういう事を言っていい立場ではないという言い方も、だから更迭されているわけですから、自分の考えを隠しておいて、面従腹背でいられるよりは可視化されている分だけマシだともいえる。

ようするに役人が歴史や安全保障を盾に取って自分の所に権益をもっとよこせと愚痴っているって感じでしょうか。まあこの国では毎度毎度繰り返される図式です。

この問題は「チルチルミチルの青い鳥は本当に青かったのか問題」といいますか、複数の視点を自動的に肯定否定の二元論に切り分けてしまう不毛さが何しろ厄介です。

過去は正しかった、もしくは過去は侵略戦争であった、わかりやすく両者をXとしましょう。簡単に言えば両者は似た者同士、コインの裏表です。10円玉を転がして、裏になるか表になるかの違いに何の意味も含まれていない、10円は10円でしかないのと同じで、この違いはほぼ意味がなくどちらも同じです。

10円の表が本来のあるべき姿だ!!否10円の裏こそが本来のあるべき姿だ!!って感じでしょうか。どっちもただの10円じゃんか、で話は終わってしまうくらい下らない。

人はXであったという事に成長の過程のある時点で気付きます。そしてそれ以後の人生は過去は正しかった、もしくは正しくなかった、つまりXだったという前提で展開して行く事になる。それが大東亜戦争肯定論者もしくは否定論者にとってそれぞれ幸福で心地いい視点であるからです。

自分の信じた視点を肯定するという事は、自分の生を肯定する事と同じです。Xだったという視点がそれぞれ肯定されるという事は、それぞれにとって自分の生を最初から肯定する事と同義であり、それが出来るという事がそのまま幸福の根拠となり得る。

チルチルミチルが青い鳥がもともと青かったという事を知る事によって、もともと幸福は自分達のすぐ間近にあったのだと気付き、彼らは幸福になるというか幸福である事に気付くわけです。だから我々は青い鳥をというか、青い鳥という物語を追い求めて止まない。

これに対してある疑問が生じます。鳥はもともと本当に青かったのか?Xという視点は本当に正しいのか?歴史の偽造なのではないのか?

X信者達は歴史がXであったという前提のもとで生きています。チルチルミチルは(あの物語以後の世界を想像するとすれば)鳥はもともと青かったという前提のもとで生きている。過去の思い出、現在の出来事はその前提のもとで解釈される。

幸福を感じているXという前提に基づいた彼らの生の過去の記憶は、彼らにとっては真実と区別がつかず確かな実在性を持つ、それが今現在の彼らを形作っているものでもあるからです。

その幸福はまやかしであり、その幸福に基づいて解釈した過去もまやかしであると、別の視座から記憶の虚構性を指摘しても、X信者達にとってX信者達を成り立たせている当のものであるその記憶が虚構であるはずはない。そういう風には思えない。思えればX信者になるわけもありません。それが虚構であるとすれば、その人の生そのもの、その人自身が虚構であるという事を受け入れるという事になる。

解釈の変更が仮に起こるとすれば、その時点で記憶も書き換えられる事になる。つまり今までの価値観とは間逆の価値観で過去をとらえ直し、書き換えてしまうわけで、自己解釈の変更と過去の記憶の変更は一体化している。なので当の本人にとっては記憶が間違っているという事は有り得ない。常に変化した自己解釈に伴う正しい記憶に書き換え直されてしまう。

しかし外部からそれを眺めれば、記憶は後から作られたものであり、その前提で思考しているその人の人生も虚構であり得る。青い鳥は本当はもともと青くなかったのかもしれない。そしてそのもともと青くなかったという事実こそが、もともと青かったという記憶、そしてそれを信じ込んで生きる生に影響を与え作り出している原因になっている可能性もある。記憶は真実を隠す為の偽装であるのかもしれない。

過去の記憶というのは未来の出来事によって簡単に解釈が変わる。今付き合っている異性との関係が未来に幸福をもたらせば、その人との記憶はよい記憶となり、騙され散々な目にあい、奈落の底に突き落とされれば、その思い出は苦い経験となる。

客観的事実、実在の出来事というのは、常に我々の曖昧な解釈によって浸食を受ける。自分はそれが悪い事であるとか言うつもりはありませんよ。人であれば必ず陥る事であるといって差し支えないでしょう。実際問題この世に完璧な客観なんて有り得ず、所詮主観の複合体でしかないわけですから。

しかしそういう事が起こる事自体はしょうがないとしても、その事に自覚的か無自覚かというのは決定的です。自分の立っている立ち位置を絶えず疑うという作法のないまま、人の言っている事を叩いていても、お前も同じだよで話は終わっちゃう。言ってみれば二元論の極と極というのは相互依存関係であり、補完関係であり、お互いの存在故にお互いが成り立つというものでしかありません。

単純に考えれば、もともとXであったか、ある時点でXになったのかという事しか有り得ないように感じてしまいます。しかしここには常に実在と解釈が混同されてしまうという問題を引き起こし、解釈をめぐっての争いなのか、実在をめぐっての争いなのかがわからなくなってくる。

つまり解釈の問題と実在の問題を分離して問わねば、我々の記憶によって実在をねじ曲げてしまう恐れがあり得るわけです。なのでそこを混同したまま正しかったか正しくなかったかというコインの裏表であるXをめぐっての闘争を繰り返しても、実際なんの意味も成さない。異なる解釈、異なる記憶、異なる前提で話していても、通じるわけがないわけで、どちらもある意味正しく、ある意味間違っている。

なので解釈の成り立ちそのものを問う作法が重要になります。それはもともとXだった事を問うわけでもなければ、ある時点でXになった事を問うわけでもない。それはある時点でもともとXだったという事になった、という視点を導入する事です。

記憶として残っていない過去、己が消去してしまっているかもしれない過去、記憶や今の自分の解釈では問えない、それを成立させているそのものを問う行為です。現在の自己を自明の前提として過去を問うのではなく、現在の自己そのものを疑い、その成り立ちを問う。

自分の信じている前提を疑う事によって、実在に対する解釈の浸食に絶えず自覚的であろうとする為には必要な事です。そして自覚的であろうとする自分そのものを疑いさらにその事を問う。自覚的であると感じた瞬間にある種の線を引く事になるわけですから、次の瞬間には何らかの無自覚が発生しているかもしれず、足場は常に崩れていく。

簡単に言えば、他人の痛みがわかるのか?という問題と一緒で、自分は自分でしかないわけですから完全には他人の痛みは永久にわからない。しかし全然わからないかと言えば、頭が痛いとかお腹が痛いとか、人に裏切られて心が痛いとか、そういった経験はあるわけですから、全くわからないというのも違うような気がする。

しかし自分の頭が痛いという感覚と、他者の頭が痛いという感覚が同じであるのかどうかというのは比べる事も出来ないしわからないので、その痛みをダイレクトに知覚する事が出来ない限り、不可能な気がする。では思考実験としてダイレクトにその痛みを取り出して知覚出来る方法があったとする、そうすれば他人の痛みがわかるのかといえば、他人の痛みを自分で知覚した瞬間にそれは自分の痛みになるわけで、他人の痛みではなくなってしまっている。

掴んだ瞬間に手の平から逃げて行くかのような、知覚した瞬間に別のものに変じているかのような、永久に追いかけても追いかけても捕まえた瞬間に、捕まえたかったものではなくなってしまっているかのような状態。

であれば、他人の痛みを理解するなんて事は永久に不可能なのだから無意味だ、他人の痛みに鈍感になり傷つけても自分にはわかりようも無いし、人が苦しんでいてもその痛みはわからないわけだから知ったような顔をするのは欺瞞でもあるので、無視するのがいい、という風になるかと言うと、それもそれで問題が生じてしまう。

痛みをわかったような顔をする事は欺瞞になるが、人が痛がっているのを無視する事もまた道義的問題が生じる。この狭間の中で常に人間という理不尽な存在の不可能性、他者との関係性の中での不可能性にコミットメントする事が、他者との関係性の構築に不可欠であるのと同じように、自己への疑いのまなざしもそういった矛盾を知った上で尚という姿勢が必要とされるわけです。それが出来ないと思うのなら、真実をめぐって自分の解釈を振りかざして他者を攻撃する資格はないと言える。

これが無いと実在の解釈によるねじ曲げ合戦に陥ってしまいがちです。ある解釈が実在と混同されてしまうと、その解釈にそぐわない実在の排除が始まってしまう。そういう悲劇は枚挙に暇がありません。もちろん自分はそういう事を絶えず続ける自信も無いし、実際出来ないし、やってないので、人が何を思おうと自由であると認めちゃった方が楽だと思えてしまう。

つづく!!