アゲイティス・ビリュン/シガー・ロス

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前回話がかなり暴走してしまったので本日は控えめに行きたいと思います。今日も音楽ネタで、シガー・ロスの、アゲイティス・ビリュンについて書こうかと思います。シガー・ロスを初めて聴いたアルバムがこの二作目のアゲイティス・ビリュン、なんて読むのか最初はわかりませんでした。何せアイスランドのバンドで、アイスランド語ですから。しかし一度聴いたらそんな事はどうだっていい些細な事だと思ってしまいます。自分は初めて聴いた時に脳天に電撃を喰らったような衝撃を受けました。(もちろん生きていますので、電撃を本当に喰らった経験はありません比喩です)そんな表現がピッタリ来るような衝撃を受けました。陳腐な言い方で言えば癒し系と言うのでしょうが、そんな簡単なものじゃありません。自然の偉大さ、世界の混沌、一筋の希望の光、遺伝子に書き込まれた原始の大海の記憶、母親の胎内に宿る命、壮大で崇高で、優しく、そして悲しく、歓喜と祝福に溢れたメロディ、広大な大地、すべてを包み込む母なる海、文才がないもので、陳腐な言い方しかうかびませんが、心が傷ついた時には、慰めを、喜びに溢れている時には、祝福を、怒りに満ちている時には、寛大な心を、悲しみに包まれている時には、立ち向かう勇気を、何でもない時には、良質なメロディを、どんな時に聴いてもポジティブな感情になれる、素晴らしいアルバムです。油断すると泣きそうになります。
Introは逆まわしのメロディから始まり、まるで朝日が昇るような再生の歓喜の瞬間に立ち会っているかのような予感をさせてくれる出だし、Svefin-G-Englarの始まりにまるでピンクフロイトの名曲、エコーズを思わせるポーンという音、それはエコーズよりも少し音が低く、エコーズがピーンという張りつめた空気をたった一音で切り裂く感じなら、シガー・ロスはポーンという暖かみのある優しさ、その音が繰り返されながら、オルガンとゴリゴリにフィードバックが効いたギターで、聴くものを別世界に引きずり込む、歌声は決して上手くはないが優しく、美しく、別世界を漂う聴き手の自意識を包み込む、大地を這うようなコーラスに支えられ、高音のボーカルは聴き手を包みながらともに中空を漂う。心臓の鼓動がやがてリズムとなり、Stara'lfurのストリングスに美しく彩られたメロディに心を奪われ、今度は大地にしっかりと立ったボーカルの、これまた優しい歌声に綴られていき、途中でボーカルとギターだけになる所は何度聴いても鳥肌が立ちます。やがてこの曲の最大の盛り上がりであるクライマックスを壮大なストリングスが奏でます。歓喜の瞬間を祝福するかのようなメロディ。続いてFlugufirelsarinn、オルガンとフィードバックの効きまくったギターで、再び聴くものを混沌の海に引きずり込みます。そしてボーカルはその混沌と向き合うかのように力強く、サビの部分は聴くものの背中を押してくれるような、勇気に満ちた崇高な美しさ、元気が出ます。Ny' Batte'i、不協和音を奏でているかのようなフォーンセクションとフィードバック音、そしてベース音が地を這うように主旋律を奏でてゆく、ボーカルはやや控えめに一歩一歩確かめるかのように曲は進み、やがてドラム音がリズムを奏で始め、ボーカルの声も力強くなっていく、再びベース音と静寂、そしてすべての辻褄が合うかのように美しいクライマックスで曲は最高潮を向かえ、ドラム音とフォーンセクションでフェードアウトします。Hiartao" Hamast (Bamm Bamm Bamm)、オルガンとハーモニカ、フィードバック音で探りを入れるかのような調子で曲は始まり、ボーカルも呟くようにそのメロディに乗りながら静かに曲は進んでいく、そのボーカルと絡む高音のコーラスは美しく、曲の単調にさせない効果を持ちます。そしてサビは時が一瞬止まり、大きな波となりすべてを飲み込む。二度目のサビを向かえた後、美しいストリングスが波の引いた後の余韻を静かに奏で曲は終わりを迎える。Vio"ar Vel Til Lofta'rasa、静かにフェードインしてくる美しいピアノの音とメロディ、やがてベース音とストリングスが絡み、そしてギターのボトルネックが彩りを加え、インストなのかと思っていると、唐突にボーカルが入って来る、まるでボーカルも楽器の一つであるかのように、これ以上必要なものもなく、まして足りないものは何もないかのように、美しいメロディは続いていき、ギターの爆音フィードバックからクライマックスへと繋がる、美しいストリングスがそこにも絡み合い混沌を向かえる。Olsen Olsen、遥か遠くで微かにボーカルの声が聞こえる、そこに優しいドラムのリズムが乗り、ベース音が主旋律をタイトに響かせる。やがて遠くに響いていたボーカルの声が、控えめに手前にやって来て、サビで美しいコーラスと絡み、クライマックスの前菜のように、静寂とフィードバック音の中、フルートのような音色で美しいメロディが響く、再び元に戻り、サビを向かえ、一時の静寂の後、ピアノとストリングスで、先程のフルートのような音色が奏でたメロディを響かせるクライマックスの予感、そしてフォーンセクションも加わり最高潮の始まり、男性コーラスも力強くそこに加わり、まるでパレードのようなお祭りのような、クライマックスが響き渡る、それが過ぎ去った後の寂しさを残して曲は終わります。A'gaetis Byrjun、アルバムのタイトルにもなっているこの曲、正攻法のギター、ベース、ドラム、ピアノで優しく始まります。前の曲のリプライズっぽいメロディを奏でながら、リバーブのかかりの少ない生のボーカルの優しい声が曲を丁寧に綴っていきます。やがて着実な必要最低限のコーラスもそこに絡ませながら、あくまで正攻法で、バンドサウンドで、派手さはありませんが、美しいメロディは言うまでもありません。そしてAvalon、美しいメロディ群の残響音のように、沈んでいく太陽のように、アルバムがこれで終わりである事を静かに告げます。しかしそれは永遠の終わりではありません。一曲目に戻れば再生のメロディは再び始まります。また終わりがあるからこそ、アルバムの曲が美しく歓喜のメロディを鳴らすのでしょう。人生も同じです。永遠に死なない人間はいません。かぎりがあるからこそ人生は美しい。例え誰かの人生が終わりを遂げても、別の誰かの人生は始まる。どんなに駄目な社会だと不満を言っていても、生まれてくる子供達は必ずいます。その子達が生きて行こうとすれば、もちろん絶望もあるのでしょうが、であるからこそ必ず希望も存在するのです。どんなに不満があったり、不平等だったり、善い事や悪い事を行ったり、どちらも中途半端だったりしても、必ず死は訪れます。死なない生き物はいません。だからこそ人生は儚く、そして美しく、時には醜かったりもしますが、そういう事も全部ひっくるめて生きるという事なのだと。そういう事をこのアルバムは教えてくれます。
アイスランドと言いますと真っ先に思い出すのは、歌姫ビョークではないでしょうか。もう歌姫というほど若くはありませんが、シガー・ロスにも彼女と同じ匂いがします。それがおそらくアイスランドという国の土地柄、歴史的なものなのでしょう。そういうバックボーンを共有している空気を感じる事が出来ます。昔あれは何回めのフジロックだったのか忘れてしまいましたが、その時の何日か目のどこかのステージのヘッドライナーがビョークでした。自分の友達がそれを見に行った時の話をしてくれたのですが、ビョークの歌声に感動して涙が出て来たと言っていました。その話を聞いたとき自分はさすがに泣くのは大袈裟なんじゃねえか、と思いました。実際CDでしかビョークを聴いた事がありませんでしたから、素敵な音だとは思いましたが、いくら何でも泣きはしねえだろと思っておりました。彼女の事はシュガーキューブス時代からファンでしたし、ソロになってからも追いかけていましたから、素晴らしいのはわかっていましたが、当時の自分はおそらくこういった、所謂癒し系の音楽に癒されなければならないほどの人生経験を積んでいたわけではなかったんだと思います。癒すべきものがなかったのだと。もちろん当時はそういう風には思えませんでしたし、当時は当時なりの迷いや悩み、苦しみは感じていたのでしょうが、対処法を学んだ今考えると、たいした事ではなかったと思います。しかし当時はそのたいした事無い事が、たいした事だったのでしょう。あの頃よりは多少経験を積み、迷ったり悩んだり苦しんだり傷ついても、何とか折り合いをつけながら生きて行く事を学びました。それが年をとるという事かもしれません。年齢を重ねると我慢する事は増えますが、いたわってもらえる事は相対的に減っていきます。悩んだり苦しんだりする事柄のデプスは深くなりますが、我慢するべき立場と理由が背中に伸しかかってくるのではないでしょうか。関係ねえぜ、では上手い事いかなくなってきます。(老人になればいたわってもらう事は増えるのでしょうが、自分はそこまで年寄りじゃありません)おそらくそれが孤独を知るという事なのではないでしょうか。他人と分かち合えるものは意外と少ないものです。そういう事を知ると、ビョークのような音楽が引っかかるフックが心のささくれとなってたくさん出来るのでしょう。それが人間的な厚みと呼ばれるものかもしれません。自分はまだまだたいした厚みはありませんが、少なくともビョークの歌声で涙した友人の気持ちが今はわかります。
世の中お涙ちょうだい路線の音楽や映像、書籍に溢れています。しかし自分は薄っぺらなそういうものはヘドが出るくらい嫌いです。所謂癒し系と呼ばれるものの殆どがクソです。なんでこんなもの観て泣けるのか理解に苦しむものもあります。それはビョークで涙する事を理解出来なかったのとは違うと思います。クソはどこまでいってもクソでしかありません。最初のスタートラインの次元が全く違うのです。自分がこの先もっと様々な経験を積もうがなんだろうがクソには感動出来ません。人を感動させようとして作られたものには何もつまっていません。本当に人が感動するものというのは、薄っぺらなものじゃなく、混沌や困難に向かい合っている人間だけが奏でられる次元というものがあります。そういうものをビョークやシガー・ロスは持っているのだと思います。
前回のエントリーでも書きましたが、なぜこの国では骨のあるミュージシャンが生まれにくいのかという事を、外国のミュージシャンと比べるといつも疑問に思う事があります。ヨーロッパやアメリカでは毎年、一組か二組位は必ず凄い奴らが登場します。若いガキンチョに毛が生えたような奴らが、世界中の度肝を抜いてくれます。人生経験もないはずだし、知識も少なく、世界も知らない、混沌や困難に立ち向かう経験の少ないはずの、大人になりたての若者が、同年代はもちろん、大人達の心の琴線に突き刺さるメロディーを奏でるのです。それが決定的にこの国の音楽シーンとの違いなのではないでしょうか。子供というのは基本的に、大人が向かい合う社会といずれ向き合う為に、勉強したり、スポーツをしたり、いろいろな体験を大人に守られた籠の中で積んでいき、社会に出た時の耐性を養うと言います。しかしガキの頃に学校で学んだ事や、スポーツが直接役立つ事は殆どありません。多くは物事を論理的に考える為の練習であったり、科学的に努力する練習であったり、精神的なタフさを多少なりとも身につける為の、あくまでも練習にすぎないのです。殆ど社会に出れば間違いなく少なくとも一度や二度は叩きのめされて挫折感を味わい、それを乗り越える事によって人間的な厚みが生まれ大人になる、誰もが一度は通る道のはずです。その大人になる為に通る道を、通り抜けたばかりかもしくは通る前の年齢であるにもかかわらず、どうしてヨーロッパやアメリカの若者には出来て、日本の若者には出来ないのか、いつも不思議に思います。ごくたまに、なかなか骨のある奴らが出て来たなと思う事は、もちろん日本のミュージシャンにもあります。しかし外国の若者に感じるような、例えば魂を揺さぶられるような興奮を味わう事は殆どありません。これはただ単に自分の耳がおかしいのでしょうか。若い頃から洋楽ばっかり聴いて来たので、単なる洋楽かぶれが原因なのでしょうか。
言語が日本語だからなのでしょうか、否、シガー・ロスはアイスランド語ですし、前エントリーで書いたモグワイのようにインストならばそもそも関係ないでしょう。日本語というのが外人から見てどのように聞こえるのか、自分が日本人である以上確認しようがありません。しかしそこにも確かに理由はあるのでしょうが、決定的な理由とは言えないと思います。自分は非常に稀ですが多少日本人でも聴く方々は存在します。日本語の歌詞というのは自分が日本人であるせいか、非常にスムーズに頭の中に入ってきます。それは全然悪い事ではないはずです。しかし歌詞というのは音楽の一部分でしかありません。全体で何を伝えようとしているのか。もちろん聴き手が作り手の正確な意図を理解するのはほとんど不可能です。歌詞があればわかりやすいというのはあると思いますが、心に響く音楽を聴いて、勝手に聴き手が深読みするだけかもしれませんが、そういう深みのあるミュージシャンというのが日本人には少ない気がします。大御所や、成功を掴んでいる人ならいざ知らず、若いパッと出の人が奏でる音が、同年代にも、いい大人の心にも突き刺さるというのは非常に希少です。
この国の土地柄や歴史的な背景が原因なのでしょうか。土地柄や地域性を出すと、ベタベタした伝統と呼べば聞こえはいいですが、すでに死に体となっている需要のあまりないものばかりです。ましてそれがメインストリームの音楽と融合したりすると、完全な自己満足の押しつけ、オナニーしている所を見せつけられているような気持ち悪さがあります。聴いている人々も人前にもはばからず一緒にオナニーに耽っている。それは何にも向き合っていなく、短絡的な慰めを手にすれば救われると勘違いしている、新興宗教の信者と変わりません。きちんと現実に向き合う姿勢のない音楽はクソです。以前その役割を果たしていたのだとしても、もうその役割が終わっているのだとしたら、それを愛する人達だけが寄り添って、人目につかない所で勝手に愛でていれば済む話です。それを現実に向き合う現代のリソースとして活用する事は不可能であるにもかかわらず、その事に気付かず迎合している姿はオナニーを人前でする事と同じ位恥ずかしく唾棄すべき行為です。
歴史的な背景はどうでしょう。この国は決定的に過去の歴史を叩き壊し、新たなレジームを築いた時期が少なくとも近代に二度存在します。一度めは明治維新によって近代化を遂げた時と、二度目は前大戦に負けて占領軍によって戦中戦前のレジームからシフトした時です。どちらも程度の違いこそあれどんな国でも経験するレジームチェンジなのですが、決定的に他の国と違う事があります。原理原則が定まらず、国民すべてが簡単に忘却してしまう所です。明治維新の時に膨大な血が流れたにもかかわらず、国民すべてのコンセンサスとなる決定的な原理原則というのが生まれませんでした。それを作り出そうと試みた初期の元勲たちの意図が、次第にネタではなくなり、本気で天皇陛下万歳となり、暴走していく事になります。原理原則を利用する人間、すがる人間、堪忍袋の緒がキレたとアメリカと戦争になりますが、そこにはどうすれば近代化を遂げ、一人前の国になるかと言う原理原則は存在しません。誰も勝てるとは思っていないにも関わらず、戦争するしか道がないという事になり、戦争してメッタクソに破れます。他に道はなかったのだ、と言われたりしますが、死んでもいいから一矢報いるでは本末転倒です。明治の元勲達が行おうとしていた微妙な舵取りを、その後の政治家や官僚達は間違えていきます。そもそも勝てる見込みのない戦争をするしか選択肢が本当になかったのだとしても、それ以外の選択肢をなぜ持つ事が出来なかったのか、それを持つ事が国を繁栄させる原理原則のはずです。戦後それまでのレジームが変わり、占領統治によって戦前的なものをことごとく捨て去っていきます。しかし当時例えば吉田茂や白州次郎的な、面従腹背してどうすれば独立国としての誇りを取り戻せるのかという微妙な舵取りも、次第に政治家も官僚も国民も忘れ去り、本気で対米追従しか選択肢がない今に至っています。アメリカの核の傘に守られて、朝鮮戦争でぼろ儲けして、そういう国で平和を謳歌しているくせに、戦前的な価値を全面否定し、思考停止的に反米、非武装中立うたうバカ左翼と、どうすればアメリカの属国としての立場から本当の意味で独立する事が出来るのか、三島由紀夫が市ヶ谷で割腹自殺をする頃までは、この国にも保守本流というものがあったはずなのに、そういう事をきれいサッパリ忘れ去り、アメリカの子分として振る舞う以外に選択肢がなく、自衛隊を海外に出せば一人前の国になれるなどと勘違いしている、インチキ右翼、アメリカの属国としてそんな事をどんなにやったって、どこの国からも尊敬なんかされるわけもないのに、それ以外の選択肢を全く持たない、独立国としての振る舞いを獲得すると言う原理原則が忘れ去られてしまっている、そういう図式になってしまっています。簡単なちょっと前の歴史すらすぐに忘れ去ってしまう。この国の音楽がマネでしかないのは、それを支えるバックボーンとなる国の歴史が忘れられてしまっているからだと思います。そういうものがなくては、日本人独特の音など出せるわけもありません。
例えばイギリスの労働者階級の若者は、一生その階級からの出口はなく、安い賃金とそれを癒してくれる酒、週末にサッカーを観に行き暴れるくらいしか楽しみがありません。彼らが社会的に認められる方法があるとすれば、サッカー選手になるか、ロックスターになるしかありません。そういう絶望的な階級社会に向き合うリソースとして音楽は存在します。黒人のヒップホップもそうです。この国の音楽にはおそらくそういう向き合うべきものがないのだと思います。そんなに真剣に考えなくても、そこそこ楽チンに生きて行ける、その民族性がこの国の音楽シーンを支えているのだと思います。楽な環境に身を置きながら刹那的なたいした事のない快楽に身を委ねる。そういうものが人の心に伝わるわけはありません。無軌道な自由を謳歌している民族にはそういう音を奏でる事も、聴く耳も、もちろん需要もないのかもしれません。なんか暗い気持ちになってきますね。
アイスランドは小さな島で、75%は住む事の出来ない溶岩台地からなっています。火山、地震、温泉が多い事で知られ、首都であるレイキャビクの気候は穏やかだと言われていますが、平均気温は5℃、北極に近い高緯度にあるので、我々からすれば過酷な環境なのではないでしょうか。歴史的にはノルウェーに支配され、後にデンマークに支配され、アイスランドは深刻な窮乏状態に陥り、デンマーク国王フレデリック三世によって、政治権力のすべてを剥奪されます。その後飢饉や疫病によって人口は半分以下に減り、ヨーロッパの革命の波を受けてデンマークの王権が弱まると、デンマークに従属しつつも独立国としての地位を獲得します。第二次大戦によってデンマークがナチスの占領を受けると、アイスランドにイギリス軍が進駐してきます。その後独立を果たし現在に至るわけです。日本もこれほど寒くはありませんが、負けないくらい濃密な歴史を持った国です。国民をいいように操ろうと振る舞う連中の好き勝手にさせない為にも歴史を学ぶ事は重要ですし、語り継ぐ事が何より重要です。
コミュニケーションは他者に自分の意志を伝える手段です。会話や、文字を記録する事、表現、様々な手段が存在します。しかし意思を他人に伝える事は簡単な事ではありません。簡単に他者とわかりあえるものではないからこそコミュニケーションは切実なのだと思います。この国はみんな一緒、わかりあえる、という幻想が蔓延っています。そういうものが大本にあったのではコミュニケーションへの切実さが生まれにくいのは仕方がない事なのではないでしょうか。その事に敏感に反応している方々が生きにくさを感じているのは現在でも存在しますし、みんな一緒になれない人が疎外感を感じたりして、様々な問題が起こっています。誠意を持って謝罪すれば、意味もなく友好をうたえば、北東アジアの方々とわかりあえると錯覚する事と、戦前の大東亜共栄圏を築けば、欧米列強の手からアジアの人々も救われるはずだと錯覚する事と、コミュニケーションに甘えていると言う次元では根は同じです。わかりあえると思っている、こんなに思っているのになんでわかってくれないんだ、それではストーカーと変わりません。今この国はこれまでの甘えの構造を残したスキームでは回らなくなってくる可能性が顕在化しています。嫌でも向かい合わなければならない現実が待っているかもしれません。甘えていても嫌な事から逃げていたいと思うか、そんな豚の幸せは嫌だぜと向き合うか、人それぞれですが、そういう風に多様性が生まれればコミュニケーションは一層切実になり、みんな一緒という価値観は甘えている人が存在してもやがて壊れていきます。日本の伝統が壊れたとか、たわけた事をほざくバカがきっとこれからも出てくると思いますが、コミュニケーションの切実さを知れば、他人と簡単にわかりあえないと知れば、どうすれば人とわかりあうか真剣に考えるようになるのではないでしょうか。そうすれば簡単に騙されたとか、裏切られたとか、ヒステリックになる必要もありませんし、その上で築き上げた信頼関係こそ、本当の信頼関係のはずです。そういう国になればおそらく音楽ももっと素晴らしいものが出てくるようになるのではないでしょうか。いつになるかわかりませんが、生きているうちにそういう日が来る事を祈ります。シガー・ロスを聴いてそんな事を思いました。