親戚や近所の方々、亡き父から、
「公園」という言葉をよく聞きました。
昨日、弟とその話になりました。
そのことを、記録として残しておきたいと思います。
2011年6月24日
一宮町歴史民俗資料館に行ってきました。
水神平遺跡の説明資料がありました。
旧長山公園甕棺 出土見取図
故夏目恒四郎氏原図
やはり長山駅周辺は、長山公園だった。
一宮町歴史民俗資料館のお兄ちゃんに、
その項をいろいろ訪ねると、
「ココにはそのような資料は残っていません。」
と、そして、
「昔、桜ヶ丘ミュージアムで展示会がありましたよ。」
と教えてくださいました。
「ありがとうございます、行くしかないっしょ!」
こばは、いざ、桜ヶ丘ミュージアムへ。
一階の展示室をひととおり見たのですが、
手がかりはありません。
「ちょっと休憩。」
ロビーの長いすに座りました。
すると、テレビの映像が私に襲い掛かってきました。
こ、こ、これは・・・
豊川まちなか写真館セレクション
『長山遊園地』でした。
そして、
広報とよかわに掲載されていたことを知りました。
長山遊園地
現在のJR飯田線の一部にあたる豊橋駅・大海駅間を運営していた私鉄・豊川鉄道が、集客事業の一環として同鉄道線長山駅近くに建設。1930年(昭和5年)に開設された「つつじ公園」が前身。1932年(昭和7年)頃に「長山遊園地」を開園。遊園地の中心には改築により不要となった豊川駅初代駅舎が移設され、休憩所や食堂・喫茶店・娯楽施設として活用。園内にはトラックのあるグラウンド、すべり台・ブランコ等の遊具がある広場、鳥・キツネ・タヌキ・イノシシ等を飼う小屋、花壇などが造られた。温泉や宿泊施設も作られ、グラウンドでは運動会や花火大会なども開催された。
閉園は太平洋戦争中で、食糧増産を目的として畑へと開墾。
豊川鉄道も国有化されて遊園地は復活することなく終了。戦後になって、遊園地の跡地は住宅地へと転換され遊園地の面影はなくなりました。
長山遊園地から豊川(とよがわ)を望む
和服姿に洋日傘の3人が立つのは、かつて水神平の台地上にあった長山遊園地の東端と思われ、見つめる方向は豊川の上流側です。したがって、写真右側の尾根線は吉祥山へ続いており、その手前には八名井や江島の家々が見えたはずです。昭和13(1938)年に今の江島駅の下にできた初代江島橋の姿はまだなく、
川面からおよそ20㍍の位置から眺める風景は、観光客を呼び寄せる魅力のひとつになっていたことでしょう。また、この近くにある宝川堤防の桜並木も「公園の桜」として名所のひとつでした。この絵はがきは、大正後期から昭和初期のものです。
広報とよかわ 2008.10.1 より抜粋
私が生まれたとき、すでに遊園地はありませんでしたが、
宿泊施設址?、ブランコ、女神像が存在していたこと、
かすかに記憶しております。
2011年8月14日 のことです。
甥っ子との楽しいお遊びの間、
空いた時間を使って行ってきました。
この場所から豊川(とよがわ)を眺めるのは、
35年ぶりだと思います。
もう少し詳しく調べてみたいと思っております。
長山遊園地(長山公園)/原図と空中写真
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豊川(とよがわ) 1
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水神平遺跡
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豊川駅
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