感得日誌

感得日誌

日常の生活から、日々、感じ得た「気づきの瞬間」を思うままに綴る。

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 時々、本を読むには、どういう読み方が良いのかと考えることがある。

 読書には、その目的に応じて、全く違ったレベルでいくつかの読み方がある。詩集・ポエムを速読するものではない。それらは明らかに味わいながら読むものである。逆に、技術的な専門書を必ずしも熟読・吟味することはないと思う。

 読書というものは、「読書」という意味において一括りしてしまう感がある。しかし本来は、その目的によって読み方の技術もちがえば、心構えもちがう。速読法などはその典型で、どうやったら早く読めるか、多く読めるかという技術的なことよりも、目的に合わせて、その本をどう読むかが大切である。

 哀しい時、ふと開きたくなるような本がある。辛い時に、心の支えとなる本があるかもしれない。そういう読書は「心の糧を得る読書」だと言える。また、あるテーマにそって企画を練り発表する場合などは、関連する膨大な情報から「知識を得る読書」だとも言える。


 私は30歳をすぎた頃から、明らかに自分の中にある読書観が変わった。それは「智慧を掴む読書」である。―――その本を通して「智慧を掴む」。しかし「智慧を掴む読書」と言っても、著者が語っていることをそのままただ掴んだだけで、そこから「智慧」を得ることはできない。

 「本」そのものに書かれてある文字から得られるのは、「知識」であって「智慧」ではない。印刷された文字は、あくまで「情報」である。つまり「本」それ自体に、「智慧」は存在し得ない。

 例えば1冊の本を、一生懸命、線を引きながら読む。これも大変すばらしい読書のスタイルだと思う。「これは著者の一番言いたいことだなぁ」と思って線を引く。著者の言っていることの要点に「なるほど」と頷き、驚きを得ながら、線を引いて読み進める。しかしこれは、それほど高度な技法ではない。学校の国語のテストでもよく問われていた、読書するうえでの初級過程でもある。

 「智慧を掴む読書」とは、自分の知らなかったことを著者が語っている、その中から「新しい知識を手に入れた」ということではない。「智慧を掴む読書」とは、「著者が語っていること」と、それとは違う全く異質なものが、私の中で結びついて化学反応(Chemistry)を起こすことだと思う。

 化学反応は、1つ以上の物質が他の物質に変わる過程をいう。つまり、「本」そのものに書かれてある文字、著者が語っていること、そこから得たものが自分の中にある「何か」と作用し、融合されて「生み出された価値」―――それが「智慧」であり、「智慧を掴む読書」ではないかと思う。

 化学反応(Chemistry)を通して、初めて新しいものが生まれてくる。その新しいものこそが、読書をしたことの成果であり、結果であり、目的でなければならない。―――これが私の読書観である。

 ただ本を多く読めばいい、ただ本を速く読めばいいというのは何かの錯覚で、読書による化学反応を通して、今までの自分の考えや、生き方が「ぐらり」と揺らぎ、新しい発想とか、自分なりの思想が生み出される。それこそが重要であると思う。


 これはなにも読書だけではない。人生にも通じるものではないだろうか...。
 いろんな経験をただ積めばいい。いろんな失敗をどんどんすればいいというものではない。自分の成長のために、いろんな出逢いを大切にすることも重要ではあるが、ただ出逢いさえすればいいというものではない。

 本当に大切なことは、その経験から得たもの、その失敗から得たもの、その出逢いから得たもの、これら全てそれぞれが作用し合い、自分の心の中で融合されて、初めて新しい価値が創造される。それこそが「生きる智慧」となるのではないだろうか。


 「知識をたくさん身につける」―――それはもう、あまり必要のない時代。断片的な知識をどれほど身につけたとしても、それは雑学にしかならない時代に突入している。学んだ知識が、どうすれば創造性や洞察力に結びつくのか。それこそが重要である。それは分類された知識の中から生まれてくるのでは決してない。

 自分の中にある、さまざまな分野の異なった知識や経験が、ひとつのテーマを中心として有機的に結びついた時、そこに私が生きる目的に沿った、価値の創造性や洞察力が生まれてくるのではないだろうか。


 英知を磨くは何のため
    君よ それを忘るるな
  労苦と使命の中にのみ
     人生の価値(たから)は生まれる


 ここに示された指針を常に自身に問いながら、価値ある人生を、生涯、追い求めていきたい。

「働くとは、傍(はた)を楽にすること!」
いい言葉だなぁ、と思う。

仕事の根幹は「人間愛」である!
これが私の仕事に対する信念である。

誰かの役に立つ。誰かに喜んでもらう。誰かのために...。

仕事とは本来、「人が喜んでくれたら嬉しい!」という、
この人間としての「原点」を学べる場所ではないだろうか。

仕事とは本来、人間としての「原点」を学びながら、
私が、より本来の私に成り得る、人間的成長を実現するための、もっとも有効な手段であると思う。
まちがっても、仕事は、やらされてするもんじゃない。


「仕事は利用するもんじゃ~~~~~!!!」
「やらされてる思うから不満しか出ぇ~へんのじゃ!」
「負け犬根性なんか身に付けんな!! ボケぇ!!!!」

ある時、私が恩師としたう方から、このようなお叱りをうけた。
本当に有り難いことである。

「上司を利用せぇ~~~!!」
「会社を利用せぇ~~~!!」
「すべて自分のために!―――利用するから、感謝できるんじゃ!」

表現の良い悪しはさて置いても、
「おまえは、おまえを生きろ!」という声なきメッセージを頂戴した。

その方は、私の中にある「未知の私」に向かって、
本気で叫び、本来の私を呼び覚まそうと伝えていただいたのだと思う。
「クソ生意気な!―――自分をナメるな!」と。


イチローは野球を利用している!
美空ひばりは歌を、岡本太郎は芸術を、黒沢明は映画を利用した!
全部、自分のために利用して、そこで自分を磨いたから、より自分らしく輝いた。

そうではないだろうか。


しかし、私たちの現実はどうだろう...。
会社のここが悪い。上司のやり方が気にくわない。
会社とは、こうあって当然。上司というものは、こうあるべき。
会社も上司も、何にもわかってない。 こんな会社で、やってられない。
この仕事は、自分には向いてない。嗚呼...orz

―――何にもわかってないのは、私である。

仕事の中に、会社の中に、上司の中に、生き甲斐・やり甲斐はない。
仕事に対する、自分の生きる態度と、心の姿勢の中に、生き甲斐・やり甲斐が生まれるのだと思う。


会社に不平や不満がある時点で、会社に心を囚われた会社の奴隷である。
上司の愚痴や文句を言ってる時点で、上司に心を奪われた上司の奴隷である。
会社を利用し、上司を利用してこそ、自分が自分を生きることができるのだと思う。


自分に向いている仕事なんてない。
自分に合う(Matchする)仕事なんてない。
なぜ会社が、社員に合わせないといけないのか。
なぜ上司が、部下に合わせないといけないのか。
そんなパラダイスが存在するわけがない。

本当に大切なことは、
私が、仕事の中にある本当の「価値」を理解していないだけ。
私が、自分の中にある本当の「価値」に気づいていないだけ。
私が、その仕事を通じて、より私らしく生きるための「必要な価値」を見い出すことができれば、
その仕事が、たとえどんな仕事であったとしても、それは、私が生きる「最高の舞台」ではないだろうか。

仕事は、種類ではない。
仕事が苦しければ苦しいほど、「未知の私」を発見し新たな「私」を呼び覚ますことができる。

そうではないだろうか。これはキレイごとなのだろうか。

もちろん熟慮を重ねたうえで、転職や退職を決断する場合もある。
しかし、たとえそうであったとしても、
苦しみは苦しみの中で、それらの「価値」を見い出すことができさえすれば、
振り返ったときに、心から感謝できるのではないだろうか。


仕事は、満ち足りた能力があるから働いているのではない。
仕事は、働きながら、仕事をするための能力を身に付ける場所でもある。
しかも、授業料を払うのではなく、莫大な経費を投資され、かつ給料までもらいながら...。
そのうえ失敗まで許され、その失敗を通して人間的成長も得られる。
(もちろん医者など失敗が許されない仕事もたくさんある...)


目的のない人は奴隷である。
何のために仕事をするのか。
私は、1ケ月〇〇万で、その会社に自分を売っている奴隷ではない。

奴隷は、やりたくない仕事をやらされる。
その人にとって、上司は敵であり!会社は敵でしかない!

日々の仕事―――。
いったい何のために、この仕事をするのか?
頭を下げ、お金と戦い、時間と戦い、人と戦う。
どうしてこれほど思いを込めて、仕事に取り組むのか?
なぜ大切な人生の大半を、仕事に捧げ生きていくのか?
問い、問い、問い続けながら、しっかりと「私の道」を歩んで生きたい!

戦争、紛争、核兵器、軍事競争、飢餓、貧困、経済破綻、環境破壊―――
私たちは、これらの拡大に目を背けたまま、
止むことのない地球的規模の危機を直視するとき、
この世界が凄まじい速度で進化する反面、
社会の構造システム自体が、なんの変革もなく少しも進歩していないことを知る。

これまでの世界史をふりかえっても、
「結局、人類というのは数千年たっても変わらない」
「戦争はなくならないし、人と人とが憎しみ合う」
「この人間の性(さが)は変わらない」
―――時折ふと、そんな「全否定の思想」に陥りそうになる。


私たちは、ありのままの人間、ありのままの世界、ありのままの現実を直視するとき、
そこには、「怒り」「憎しみ」「恨み」「哀しみ」の混乱しか生み出せないのだろうか?
私たちが、この心の混乱を鎮めるためには、「ありのまま」に目をふせるしかないのだろうか?

この世界から、
「戦争、紛争、核兵器、軍事競争、飢餓、貧困、経済破綻、環境破壊」の一切が消え去るまで、
私の「心」に、
本当の意味での、平和を築くことはできないのだろうか?
人間性に豊かな、慈悲の心を湧き上がらせることはできないのだろうか?
喜びと感謝に満ちた、誇り高き真の幸福を生み出すことはできないのか?

私たちは人間主義を掲げている。
だから、ありのままの人間を、ありのままの世界を、ありのままの現実を愛することができる。
―――そのことを、本当に言い切れるだろうか?これは綺麗ごとなのだろうか?


もちろん、このことを本当に言い切れるのは簡単なことではない。
こうしてキーボードを叩きながらでも、いろんな逡巡が湧き上がってくる。
しかし私はあえて、
「ありのままの人間を愛する。ありのままの世界を、ありのままの現実を愛する」―――そう叫びたい!

これはあくまでも、
大きな問題を抱えたまま、それを放置し続ける人間を支持し、
冨を優先し、紛争や環境破壊を容赦なく引き起す世界を容認し、
大切な人々の命が奪われ、尊厳が傷つけられた現実を肯定するものではない。


私が、心から尊敬する池田大作創価学会インターナショナル会長は、
本年6月「持続可能な地球社会への大道」と題して、次のように提言された。

以下引用―――
『自分を取り巻く状況に対する怒りや悲しみを、他者を傷つけ、貶めるような破壊的な行動に向けるのではなく、自分を含めて多くの人々を苦しめている社会の悪弊や脅威に立ち向かう建設的な行動へと昇華させる中で、社会を「希望」と「勇気」の光明で照らしていく』

『「他のためにし、他を益しつつ自己も益する」行動、そしてさらには、人道的競争の理念を時間軸に開いた「未来のためにし、未来を益しつつ現在も益する」行動に、意欲的に踏み出すことを切に願ってやみません』

『人間の可能性は無限であり、人間が創造することのできる価値にも限りがない。その価値の発揮を良い意味で競い合い、世界へ未来へと共に還元していくダイナミックな概念として位置付けてこそ、「持続可能性」の真価は輝くのではないでしょうか』

 【持続可能な地球社会への大道:池田大作創価学会インターナショナル会長】


ここで示された提言を、
私たち人間が生きるこの世界で、そして現実の場で方向づけていくのは、
人間や世界や現実を対象にした、怒りでも、憎しみでも、恨みでも、哀しみでもない。
人間を、世界を、現実それ自体を、ありのままに愛するということではないだろうか。

これは「怒り・憎しみ・恨み・哀しみ」を排除する意味でもない。
あくまでも人間がもつ自然な感情である「怒り・憎しみ・恨み・哀しみ」は、
今ある問題を現実の場で解決していく動機づけであって、原動力であってはならないと思う。

まして提言で示された、人間がもつ無限の可能性や価値創造力を信じるとき、
虚無主義に陥ることは有り得ないのではないか。


私には、愛する3人の子どもがいる。
子どもが私の言うこときかない。子どもがお腹をすかして泣いている。子どもが人を傷つけた。
―――この場合、これらの問題に対する私の反応は必ずしも、怒り・憎しみ・恨み・哀しみではない。
まして虚無主義に陥るものではない。

子どもを心から愛しているからこそ、その問題を放置せずに、今、「私にできる最善のこと」をする。
ただそれだけではないだろうか。


以下引用―――

『「同じ地球に生きる責任感」や「未来への責任感」が大切といっても、日常の生活実感を離れて一足飛びに身につけられるものではありません。顔の見える関係や身近な場所で築くことのできないものが、世界や未来といった次元で築けるはずがないのです』

 【持続可能な地球社会への大道:池田大作創価学会インターナショナル会長】


私にできる最善のことといえば、
愛する子ども本人からではなく、「子どものことをよく知る」と自称する近所の評判を、
そのまま「子ども本人の価値」として判断しないこと。

問題の原因を、現象の表面だけを見て判断することなく、
不安だからわがままを言っているのか、その真の動機を理解するように努めること。

私は心を混乱することなく、一度立ち止まって、
「これまで、親の自尊心に影響する子どもの成績には関心を示していたが、
子ども自身の幸福には関心がなかった」ことなどを、愛する子ども自らの鏡として反省するよう試みること。

例をあげればキリがない...。

しかし、ただ言えることは、
混乱した心から生み出される結果は、更なる混乱でしか有り得ない。
私自身の心に平和を築き、慈悲を湧き上がらせ、
喜びと感謝に満ちた誇り高き人生を、私自身が確立していくことこそ大切なのだと思う。
そのうえで、『日常の生活実感を離れて』私にできる最善のことは成し得ないのではないだろうか。


以下引用―――
『苦しみを根本的に解決する力は、自分の外にあるのではない。内なる無限の可能性に目覚め、それを開花させる中で自身が変わり、周囲の人々をも「幸福」と「安心」の方向へ導いていく』

『「私たちが望む未来」は、「私たちがつくりあげる未来」との自覚が伴ってこそ、手に届くものにすることができる』

 【持続可能な地球社会への大道:池田大作創価学会インターナショナル会長】


混乱する世の中であるからこそ、これらの提言を胸に刻み、
私自身の中に、「心の平和」を築く日々の歩みでありたい。

私の知人に、犬が大好きなご夫婦がいる。

休みの日、4匹のワンちゃんたちを連れて、
夫婦一緒に散歩している姿を見かけるのがとても微笑ましい。


本当に犬が好きな人は、
雑種とか血統書つきだとか、そんなことはまったく関係ないようである。
なにしろ犬が好きなのである。
そしてたまたま、自分と縁のあった犬を飼い、その犬を心から可愛がる。

かといって、
「私の犬だけが大切」「私の犬だけが可愛い」「血統書つきの犬なんてくだらない」
などと、そんなことも言わない。


そのご夫婦は、
飼っている犬に、いろいろな欠点があることも認識している。
おそらく血統書つきの犬よりも、市場的な価値は低いことも認識している。
そのうえで、自分が飼っている犬を大切に愛し育てる。

そんなご夫婦の、ワンちゃんに対する愛情に触れるたびに、私の心は和む。
ワンちゃんに対する愛情が、そのご夫婦自身の日常を光り輝くものにしているのだと感じる。


それでは、人が人を愛するとはどういうことであろうか。
人が人を愛するためには、なにか条件は必要なのだろうか。

どんな人間にも、欠点のない人はいない。
そんなことは誰しもよくわかっているはずだ。

しかし人が人を愛するとき、
その欠点が愛することへの妨げになることはないだろうか。

その人を本当に愛するためには、
「この欠点さえなければ...」という条件を必要としていないだろうか。


人は、本当にその人を愛するとき無条件に愛する。
そうではないだろうか―――。


人は、欠点がないからその人を愛するのではない。
はたまた、本当にその人を愛するとは言っても、
必ずしもその人の欠点まで愛するわけでもない。いや、欠点をも愛することだってできる。

人は、本当にその人を愛したとき、
その人の中にある欠点は、「愛するあなた」の嫌いな「点」であって、
決して欠点があるから「愛するあなた自身」を嫌いになるわけではない。

たとえ、その人が欠点だらけであったとしても、人は無条件で愛することができるのだと思う。

これは、自分に対しても同じである。
(上記の「人」「あなた」を、「私」「自分」に置き換えてみてください)

はたして私は、本当の自分を愛しているだろうか。
この性格、この欠点、この容姿、
そんな条件のもとで、私は自分を嫌いになってはいないだろうか。

人は、成熟していくにしたがって、自分の欠点がより多く自覚できるようになる。
そして自分の欠点を恥じたり、できれば自分の中から排除したいという気持ちになる。
私は、その恥じたり排除したいという、自分の自然な感情を無くす必要はないと思う。

しかしその感情を肥大化し、自らに心理的負担を強いたとしても、あるものがなくなるわけではない。
あるものをないように見せかけて、実際の自分と違った自分を演じたり、
実際の自分と違った自分を相手に印象づけたりすることで、自分が自分を嫌いになってしまう。
それは正しくないように思う。


ありのままの自分でいけないことなど決してない。
もし、ありのままの自分ではいけないという理由が、どうしても必要ならば、
それはただひとつ―――
自分が自分を嫌っているということだけである。


たとえ欠点だらけであったとしても、人は無条件で人を愛することができる。
ありのままの自分の姿を受け入れて、そのうえで自分を磨こうとする人こそが、
人間として、本当の魅力を発揮できる。

これが、私の信念である―――。

人は何かを目指し、その第一歩を踏みだした時、
もっとも不安になる。もっとも恐怖を感じる。その時、本当に強くなりたいと願う。

だから、不安や恐怖は弱さの証明ではない!
それは挑戦の証であり、前進への飛躍台だと思う。

ありのままの自分の姿を受け入れて、そのうえで自分を磨こうとする人こそが、
人間として、本当の魅力を発揮できるのではないだろうか。


ありのままの自分を受け入れることは、簡単なようでとても難しい。

ありのままの自分を、なかなか受け入れられないのは、
長~いこと、ありのままの自分には価値がないと、「間違って」思いこんでいるからかもしれない。
でもそれは、どこか「勘違い」をしている。それはなにかの「錯覚」だと思う。

自分自身に、なかなか自信がもてないのは、
「ありのままの自分に価値がある」と、励ましてくれる人に出逢わなかったのか、
「ありのままの自分に価値がある」のに、価値がないと思わせた人に、騙されているのかもしれない。

しかし本当の真実は―――「ありのままの自分」に価値がある!

ありのままの自分の姿を受け入れるとは、自分を「正しく理解する」こと。
自分を「正しく理解する」ことが、「自分を信じる」ための真の第一歩ではないだろうか。


以前、私は強烈な劣等感をかかえながら生きてきた。
だから、本当のことがぜんぜん言えなかった。
ホントは自分のこと好きなんだけど、いつのまにか嫌いになっていた。

虚勢をはって、弱いのに強いふりをして生きるのは、とてもしんどかった。
だから、だんだん人を避けてしまう。そしたら、いつのまにか孤立してたよ。

そうなると夫婦も家庭も仕事も、なにもかもうまくいくはずもない。
毎日、毎日、まずい酒ばかりを呑んで依存症になってしまった。


人は、自分を「正しく理解」し、「ありのままの自分」を受け入れ、
自分に欠けているものをそのまま認めると、闇の中に小さな光がさす。
―――自分の弱さと握手する!なんかそんな感じ...。

今までさんざん嫌悪していた、自分の弱さと握手するなんて、
自分のメンツやプライドが許さなかった。

でもその時、初めて叫んだよ―――「もう、いやだ!」「たすけて~」って!
その瞬間、メンツやプライドなんかどっか行ってしまった。

心の姿勢を正して「ごめんなさい」と言えること。
しっかり手を握って「ありがとう」と言えること。
幸せになりたい、幸せにしたい、だから前を向いて進んでいきたい!だから助けてほしい!
深く眠っていた、人生に対する「正直な信念」が蘇生された。
その瞬間から、自分の人生に対する「関わり方」が180度かわっていった。
―――ある時、そんな自分のホントの強さに気がついた。

トコトン自分の弱さを知ってる分、
「強さっていうのは、こういうことなのかな」って勝手に思うと、なんか嬉しくなった。

人は、努力して変わるんじゃない。
人は、特別な力がどこからか身について強くなるんじゃない。
それは瞬間だった。―――パッと!

継続は努力!変わるのは瞬間!


本当の自信とは、単に「私は強い」と思うことではない。
また、「私にはこんなに力がある。だから恐いものはない」と思うことではない。

本当の自信とは、「弱くても、絶対に強くなれる!」と、信じることだ。
そして、「たとえすべてを失っても、必ずやり直せる!」と、強く信じることだ。

人は弱くても、そのままで、ちゃんと幸福になれる!
そう強く、信じて...。