いよいよ「卵巣がんになったばかりの母親ざき」のお話デス。
いつまで続くのか?自分でもわかりませんが、イロイロ横道に入りながらのお話で〜す
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お付き合いがこんなに長くなるなんて、夢にも思っていなかったとの出会いは、
互いにたぶん印象が悪かったです。
ざきが患者のくせに、態度が大きかったので扱いにくかったでしょうか
初めて会ったのは「オペ外来」での受診時です。(2006年11月29日...よく記録が残ってましたワ)
Drはヤマのような術前検査の計画を立てなければなりません。
淡々と説明する主治医(若かった〜〜)
冷静に頷きながら聞く(コッチは別人レベル)
若き
「開腹して見るまで病状がどこまで進んでいるかはわかりませんが、予定としては術後そのまま化学療法を1クール受けて退院して貰うスケジュールを組んでいます。
大丈夫でしょうか?」
若い『はい。わかりました』
→ 心のの中では
“じゃ、大丈夫じゃない!って答えたら止めるんかい...ナニヲ此の期に及んで確認してるの⁇”
って感じた記憶があります
エラく冷静沈着な「ヤな患者」
...よく考えて見たら、こんなに素直に冷静に、そのくせ肝が据わった雰囲気をカモし出す患者さんは少ないかも知れません。
だってこの時点でもう、子供達は同じ学区内に住んでいた「下の姉家」に半年間移住するコトに決まってマシタのです
化学療法がどんなに身体に負担がかかるかは、我ら三姉妹なんとな〜く感じていたのです。
よく皆様に「スゴく家族関係が深いんですね〜」
と言われてますが、私達姉妹は当たり前というか、そういうものだと思い育っております。
特別に仲が良い、のとは違うと考えて下さい。
順列によって役割分担があったのです。幼い頃から...
一番大きかった大姉は、忙しい両親から言付かったお手伝いを完遂するため
幼い妹sをパシッと仕切っておりました。
記憶の限りでは、我ら三姉妹が日曜日に家事分担を任されたのは小6(大姉)/小4(下姉)/小2(ざき)でした
「ジャンケンぽい」1回勝負で勝ったモノから、好きなコトを選べるのです。(大姉の決定のモトでは、イヤとは言えないのが妹sの運命。私は生まれて数年もかからずに大姉の子分になっていた模様デス)
イチ= 食器洗い
ニ= お掃除
サン= 洗濯物干し
小2のおチビさんにとっては、高い場所に腕を伸ばして洗濯物を干す作業は重労働デス。
が、体格の差の配慮など全くナシ! 公平な手段でしたので、回避する方法は[ジャンケンに勝つ]のみでありました
私ざきは、お陰様で『ココ一番』のジャンケン勝負には強い大人になりました
こんな背景があっての姉妹ですので、自然に困ったことは平等に助け合うスタイルの家族関係が出来ていただけなのです。
ついでに、
一番パワフルに親に反発し親不孝モノと看板背負ってシンママしていた末娘ざきが、
真っ先に癌になって「先行き怪しい」状況に陥るとは誰〜〜も思ってませんでした
病人は実家で療養生活せよ
子供達は、身の回りの物を持って小伯母さんの家から通学せよ
がんを告知された夜に、大姉によって振り分けられた計画です。
→大きくなっても、 の母上の権力は絶大なのです...
特別可愛らしくないコヤツが威張っているのも「こんなの愛猫だから」との理由があるのです...
以上のように、三つの家庭は何らかの犠牲を伴う〈助け合い〉をしていた為に
私は次の日から『病気との闘い』に集中出来ました。
母親としてこの時娘達に言い渡したのはデス。
娘達よ。
《食べること・寝ること・学校へ行くこと》の心配は無いぞえ
少し不便でも、我慢出来る範囲だ
頑張れよ。母と居たらご飯にさえあり付けないから、ありがたく思って居候なさい
と、割とあっさり切り出せました
淋しいとは思う余裕はなく、マルッと預ける先が姉の家になっただけでも、とっても肩の荷がおりました。
告知された金曜日の夜に
1: 職場は休むと決定
2: ざき家族は、其々に居候先が決まる
このテンポの早さは、DNAに組み込まれていた共通項目としか思えません。
告知から、新たな大学病院に行く間に起きた出来事を、羅列してみます。
【当日】金曜日お昼頃告知
→ 紹介状Getは、pm3:00頃(そばに居たのは、ナーニも分からん小5の弐号)
→ 壱号が中学校から帰ってくるなり、実家へGo
❶土曜日
→ 午後家に帰って病院探し始める
→ 夜中激しい腹痛が来たので、明け方下の姉に頼んで〈ヤブ大学病院〉に連れて行って貰う(ボルタレンサポ50mgで改善)
❷日曜日ついでに
→ 下姉と、移住計画を立てる
→ ネット等々情報を集め、自治医大が地理的にも症例的にも良いと結論出す
❸月曜日
→ 自治医大病院に着。朝 8:50
貰った初診患者番号は既に80番台で驚きました
→ 10:30 診察終了
老年のDr....たぶん退職直前の教授だった模様デス。
「驚いたでしょう。もう大丈夫ですよ。
これからは私達が力の限り、治療に取り組ませて頂きますからね。
貴女には、腕の良い女医さんに担当してもらいますから!バッサバッサ、キレイに取ってもらえますよ。」
と、偉そうな教授先生に言われて涙が出る程安心しました
後半の女医さん...の下りが気には「ン」となりましたがね。
この時までの緊張感はとっても高かったデス
しばらくヤブ医者の診察を受けていたので、会話ができる医者と話せて感激しました
X-線の大きな青い写真を、ライト板に並べる手際の良さ
惚れ惚れする写真さばきだったのですがねぇ...
PCの前に座ったら、固まってました。
あれっ
せんせ〜、手が動いていませんよ
もしやもしや
PC入力が〇〇ですかぁ
はい、私のカンは大当たり。
人差し指1本でポチ・ポチと打ち始めました..。
代わりに打ちましょうか?って喉元で我慢するのが大変でしね
まあ、許容範囲デス。このくらいは
と4日目には笑えるホドの余裕が出来ていた、と言いたかっただけデス。
スミマセン、ひと昔前の笑い話と思って下さい。
振り返って見れば、この時壱号は13歳。弐号は10歳デシタ(誕生日前でしたのでね)
子供服着ている育ち盛りの子を持つ母親として、身の切られる思いがあったのは避けられない本能の世界だと思います。
私もそんな気持ちを味わっておりました
...またにつづく