いつも「再発か!?」と、心のどこかに心配のタネがある私たちにとって
「死」という文字は、あまり気持ちもよいものではありません。
が、誰しもどんな形であるにせよ《必ず体験する避けられない出来事です》
私自身も卵巣がんの再発を繰り返している間に、がん以外でも亡くなった方がいらっしゃいます。
「えっ、この間まで元気だったのに…」
と驚き『寿命は産まれた時から決まっている』と何度も噛みしめました。
個人的には、実際にご遺体とお別れしたのは3回です。
まだ両親・兄弟は元気ですので、辛さ的にはレベルは低いのかもしれません。
昔飼っていたニャンコが病気で死んだときは、一晩中付き添って、泣きまくりました…
(思い出しただけで涙)
けど今では、コケにされても「おナマな猫、ラフ」と遊んでるのですからね
まあ実際にお葬式に参加し、いろいろ思うことはありましたが
うち2人は親族で、平均以上の年齢・家族に囲まれ見守られた中で見送れたので
あまり衝撃的ではありませんでした。
が、一方で突然家族を失った方たちを目の当たりにして
その悲しみがとても深いことを知知るようになりました。
死後の世界があるかどうかはですが、魂はあるような気がします。
専門分野ではありませんので、パス。
ただ今年実家で居候生活をしながら、85+81歳の両親が日々‘脳機能の低下‘していく姿を目の当たりにして
「人は長く生きることより、どんな人生を送ったか」の方が大切なような気がするのが、正直な私の感想です。
よく周りの方からは『お年の割にしっかりしてますね』と言われますが…
実際はシッカリ呆けています
こういってはなんですがニャンコのラフの方が、記憶力も気配を察する力もはるかに良いです
本当に現在は‘ちょっとした、介護施設‘化しているのが、実家の状態でして
われら三姉妹は「時間の問題だね…」とため息をつきながら受け止めております。
⇒ 私の祖母も92歳くらいまで家で過ごしておりましたので…経験値、豊富です(笑
と、いう話は置いて
結構納得がゆく「死」を見てきたせいか、
自分も穏やかに逝きたいし、そうできるように努力したいです。
がんの末期は苦しく事が多い、と思われていますが実際はそうでもないと思います。
→ これも、準備が必要ですが…
私などは、生半可に薬の副作用がわかるために『痛み止めガンガン使って抑えたくても、便秘で苦しんで腸閉塞とか繰り返したどうしよう…』と落ち込んだこともありましたが
ある先生の薬の本を読んで「あらら、なぁんだ。こういう方法があれば大丈夫だわ」と、モノスゴク気が楽になりました。
緩和医療医 大津秀一先生著書 「間違いだらけの緩和薬選び ―世界一簡単な緩和薬の本」
これは専門的な本ですが一般向けにも、先生の経験をたくさんの本に書かれていらっしゃいます。
興味のある方は 大津秀一オフィシャルサイト で検索ください。そこから先生のブログにも入れます。
滅多なことでは具体的なことを公開しないようにしておりますが、
腫瘍内科医 勝俣範之のブログ
大津秀一 オフィシャルブログ 「医療の一隅と、人生を照らす」
このお二人の先生のブログは、読んでいただきたいと思います。
(許可は取っていませんので、リンクは貼っておりません)
本日は「メディカル・Aナーシング」からの記事です。
がんのみならず誰にでも訪れる「死」について《なるほど》と感じましたので、紹介させていただきます。
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
死とうまく付き合おう 2015/7/30
書籍「看取りの技術」の内容の一部を、加筆修正してご紹介します。
死は「怖い」というイメージがあります。
「分からないから」「経験したことがないから」など、死が正体不明なので怖いという理由はありそうです。
とはいえ死後の世界へ自由に行き来できる時代が来るとは思えないので、分からないなりに死を理解しようとするしかないかなと思います。
死には「悲しい」という気持ちも付きまといます。
特に自分の人生の一部のように慕っていた人が亡くなるときは、自分の人生が大きく削られてしまったように感じる人も多くいます。
大好きな人、長い付き合いだった人と、もう二度と会えなくなってしまう。
そのことはとても悲しい、寂しい出来事です。
しかし出会ったからには、別れも必ずあります。
長い付き合いであっても、気付いたら10 年会っていなかったとか、この先一生会うことはないだろうなという「知らぬ間の別れ」もたくさんあります。
出会った数だけ別れもあり、死はその一つの形であると考えると、何となく別れてしまって一生会わないよりは、衝撃的ではあるけれども
はっきりした形でお別れする機会を与えられたことに、感謝する気持ちも湧いてくるかもしれません。
もっとも、死を普通の別れと一緒にするのは無理があると感じる人もいるでしょう。
特にそれが若いうちの死だったり、急に襲ってきたものだったりすれば、「どうしてこんな理不尽な出来事が起こるのだろう」という気持ちになります。
反対に、十分に長生きをして、年齢相応に少しずつ体力が減っていき、苦しい症状もなく穏やかに死が訪れるのであれば、悲しさや寂しさはあっても「理不尽な死」とは感じません。
このような死の典型例は「老衰」です。
昔は、自宅で命の終わりを迎える方も多く、人が亡くなる場面が、今よりもかなり身近にありました。
その後、医療が発達し、命に関わる事態なら病院に行くのが常識になり、病院で死ぬのが当たり前になりました。
命の終わりも病院に任せておけば何とかなると思っている人もいます。
人が死ぬことについて、たとえそれが家族であっても、考えなくても病院がすべてやってくれると思えば、真剣に向き合うよりも楽かもしれません。
しかし、そのように医療を過信していると、いざ亡くなったときに「病院は助けてくれなかった」「いきなり死が訪れて十分なお別れができなかった」と、理不尽だと感じる割合が増えてしまう気がします。
そしてその怒りは、医療者へと向かうこともしばしばです。
多死社会の到来は避けられませんが、多くの人が亡くなる社会において、残された人たちにとって死が理不尽で納得できず、マイナスイメージばかりのものだと、確実に世の中は暗くなります。
逆に「ベストを尽くせた」「いい人生の締めくくりができた」「こういうふうに死ねたらいいね」などのプラスのイメージが増えていけば、
多死社会もそれほど悪いものではないと思える可能性も出てきます。
今までの日本の「死」に対する概念、忌み嫌うべきものとして遠ざけてきたイメージから脱却し、「死とうまく付き合うべき時代」が来ているのではないでしょうか。
納得して満足して安心して、命の最後の時間を過ごせれば、死に対するイメージも変わってくるに違いないと思っています。
このように思うのは、多くの亡くなる人や家族と付き合ってきて、自分たちの取り組みが、明らかに不幸を減らしたり幸せを増やすことにつながったという事例を、少なからず経験してきたからです。
亡くなる過程で後悔が残ると、家族はいつまでも引きずることになります。
逆に「できるだけのことはした」「後悔はない」と言える時間が過ごせると、患者さんの死後も前向きに生きようと思える家族が多く、良い思い出が残りやすいように思います。
以前勤務していた諏訪中央病院では、緩和ケア病棟ができる前は、私たち医療者が最善を尽くしてできるだけのことをして看取ったとしても、
「あそこの病院はお父さんが最後につらい日々を過ごしたところだから、なかなか足が向かない」と言う家族が多くいました。
しかし、緩和ケア病棟ができてからは、患者さんが亡くなって1 週間ほどの間に、ほとんどの家族が「お世話になりました」と挨拶に来てくれるようになりました。
そして、まだ頑張っている患者さんの家族と一緒に談話室でお茶を飲んで思い出話をしたりしていました。
緩和ケア病棟で良いケアを提供し、良い時間を過ごしてもらえた結果として、家族の気持ちの中で傷が少なくて済んでいるのかなと考えます。
もちろん全く傷が残らないわけではないですが、少なくとも「あの頃のことは思い出したくない」といった傷は残していないように感じます。
「これで良かったんだ」と思ってくれている人が多いのではないかと。
このように家族の死を受け入れられた人は、自分が死に直面するときにも随分、違ってくると思います。
これからは亡くなる人がどんどん増えていきます。
今、団塊の世代は、自分たちの親を看取る時代に入っていますが、そこで良い経験をしておかないと、多死社会を迎えるに当たって、大きなマイナスの影響が出てくるのではないかと心配です。
そうならないためには、患者さんと家族が良い時間を過ごせるような看取りのサポートが、今すぐ必要です。