№36に書いたとおり「人は変化する存在」なのである。2004年2月7日の癒しの森に記述した通り「アインシュタイン・ワグナー(ドイツの作曲家)はほとんど落第生。チャーチル・ヘッセ(ドイツの詩人、小説家)は絶望的な学校嫌い」の人たちが、歴史にその名を残す巨人となったのである。2004年2月に記述した天才たちの子ども時代の記述を4題引用したい。
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天才の通信簿 (1)
2004年2月7日 癒しの森から
文部省の教育審議会は、高校2年から大学進学、いわゆる飛び入学の該当者を規定した。当面は、物理と数学の分野に限定してとのこと。
これらのことに関連して毎日新聞の余録で「この制度が狙い通りに機能するかというと、どうも簡単ではなさそうだ。天才たちの学生時代を追った[天才の通信簿](プラウダ)によると、アインシュタイン・ワグナー(ドイツの作曲家)はほとんど落第生。チャーチル・ヘッセ(ドイツの詩人、小説家)は絶望的な学校嫌い。ダーウィン・ガンジー・ドストエフスキー(ロシアの作家)等は学校では可もなく不可もなく・・・・・・進化論のダーウィンが高校を卒業したとき、余りの平々凡々ぶりに将来を期待した人は、父母を含めて皆無であったという」とあった。
毎日新聞の余録では、若い人の能力、将来の可能性の評価が難しい。むしろ才能を見抜く側こそ重要ではないかとの指摘であった。ともかく、天才の通信簿は高校時代の成績のみで、若い人を判断できない典型的な事例だろう。
20世紀のアインシュタインといえば、天才の異名になっている。ここでは詳しくは省略するが、子供時代は自閉症であったのだ。
・能力を 見抜く人こそ 大事なり 知的な出会いで 大樹に育たん
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天才の通信簿(2) ダーウィン
2004年2月18日癒しの森から
2月7日に天才の通信簿と題して、アインシュタイン・ワグナー(ドイツの作曲家)・チャーチル・ヘッセ(ドイツの詩人、小説家)・ダーウィン・ガンジー・ドストエフスキー(ロシアの作家)など歴史にその名を残す天才達の若い時代の概要を引用した。専門学校の美術の先生から、天才の通信簿を続けてくれないかとの要望を受ける。今回は2月7日に書いたが、ダーウィンのことを追加したい。
「進化論のチャールズ・ダーウィンは、外国語を習得することが出来なかった。学校を卒業したとき、彼はただの凡庸な生徒だと思われていた。ダーウィンは、彼の息子のフランシスが編集した自伝の中で『私はすべての教師と私の父親からまるで平凡な、むしろ知的には劣っている子供と思われていた』と告白している。ケンブリッジ大学での生活は退屈で、数学の成績は悪かった。彼の情熱的な収集癖が慰めになってくれた。それがあの有名なビーグル号での旅に出る動機をもたらし、進化論を最初に系統立てるところとなった」(学習研究社、テンプル・グランディン著、自閉症の才能開発から)
それは1835年のことだ。イギリスの軍艦ビーグル号は、一人の青年を乗せていた。26歳のチャールズ・ダーウィンである。彼は後に種の起源・生物進化論を展開し、生物学だけでなく思想界にも大きな波紋を投げたのである。
・ダーウィンの 夢を乗せつつ 世界旅 歴史に残る 帆船ビーグル
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天才の通信簿(3) メンデル
2004年2月19日癒しの森から
メンデルといえばメンデルの法則で有名な現代遺伝学の始祖である。しかし、グレゴール・メンデル(1822~1884・オーストリアの生物学者)は、生きている間に評価されることはなかった。
「メンデルは「Inspired Amateurs」の著者ガイナ・ケブィンによれば、高校教師免許試験にパスできなったという。メンデルはこの同じ試験に何度も失敗している。彼は尼僧院の片隅で豆科の植物の伝統的な実験を行い、その結果を最終論文として提出してが、失敗して学位は取れなかった。彼の理論にだれ一人として注意を向けなかったが、幸運にも彼の論文120のコピーが残っていて、彼の死後、天才的な功績として認められるようになった」(引用書籍昨日と同じ)
マイペディアによると、メンデルは修道院の代用教員をしながらエンドウの遺伝の研究、いわゆるメンデルの法則を発見し1865年に発表した。しかし発表当時は同世代の学者から評価されず1900年まで無視された。高校免許試験に何度も失敗しているメンデルの論文として、まともに読む人がいなかったのだろう。
・万般の 先駆の人に 苦闘あり 遺伝の始祖は 死後での評価
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天才の通信簿(4)
2004年2月20日癒しの森から
2月7日の天才の通信簿に 20世紀最大の天才であるアインシュタインが、子供時代は自閉症であったと書いた。どのような状態であったのかを、「自閉症の才能開発」から引用しよう。
「アインシュタインは3歳になるまで話すことが出来なかった。ある自閉症児の母親にあてた手紙の中に、自分は遅くまで話すことは出来なくて、親たちがそのことを心配していたことに気づいていたと告白している。バナード・パットンは「Journai of Learning Disabilities」の詩に、アインシュタインは7歳まで言葉を胸の中で繰り返しながら学び、あまり外の子供たちと遊ぶようなことはなかったと書いている。神童というものは幼児期から芽を出すものだが、アインシュタインは子供のころ、そんな片鱗も見せなかった。人はそんな彼をのろまだとさえ思っていた。彼は言葉のスペルも覚えられず、外国語は苦手だった。自閉症タイプの児童のように、アインシュタインはジグソー・パズルが得意で何時間もトランプで家を作ることに熱中した」
天才の通信簿を記述する目的は「子供時代、若い時期のことでその人を評価できない」という視点である。人間は絶えず変化する存在である。今日を基点としてよい方向に向かうか、悪い方向に向かうかの二つの道しかないのだ。
・天才も 子供時代は 言葉さえ どうにか覚えた 自閉の姿