Scene25:エイミーの家 | 鈴乃

Scene25:エイミーの家

「では、次の打ち合わせは・・・」


 春に開催されるハワイ物産展を担当する企画会社の石田美里は、そう言うと、大きなスケジュール帳を開いた。そして、ページをめくったり戻したりしながら、ずれた眼鏡を直して、うーんとうなった。年度末なので、忙しいのだろう。


「年内に、琴音さんのその絵を見たいのだけど、どうしましょう。エイミーさんはクリスマス前にハワイに発たれるのよね。だから、エイミーさんを含む打ち合わせは来年ということで、再来週あたりに絵を見せていただこうかしら」


 エイミーが首を振った。


「石田さんに言っていなかったけれど、彼女も一緒にハワイに行くの」


 石田が、琴音の顔を見て「え?琴音さんも行かれるの?」と言った。


 琴音は、はい、とうなずいた。


「急に決まったものですから。でも、私はクリスマスをあちらで過ごしたら日本に戻ります。石田さん、暮れはお忙しいですか?」


「仕事は休みだけど、いいわ。絵を見るだけだから、プライベートで伺いましょう。お茶しがてらってことでどうかしら」


 石田は、ストレートヘアの前髪をかき上げて微笑んだ。


「了解しました」


 琴音も微笑んだ。


「二人ともいいわね。私もハワイに行きたいわ」


 石田は、そう言うと、眼鏡を外してバックにしまい、帰り支度を始めた。


 そうして「今日はお疲れさまでした」と言って立ち上がり、玄関に続く廊下に出た。


 石田を見送ると、琴音が言った。


「担当が石田さんでよかったわ」


「物事にこだわらないさっぱりした人。こちらは気を遣わなくていいから楽よね」


 エイミーはそう言いながら、石田がはいていたスリッパを片付けた。


 琴音は、うなずいた。


「だからこそ、言いづらい私の事情を正直に伝えられたわ」


「そうね。アイリーンの絵の展示がすんなり決まってよかったじゃない」


 エイミーが琴音の肩に手を置いてやさしく微笑んだ。


 言いづらい琴音の事情。


 それは、アイリーンのことである。


 アイリーンは、ハイスクール時代に琴音が愛していたボーイフレンド、アンディとの間に身ごもった女の子。ハイスクールを卒業した夏にアンディの自宅で産んだ。


 琴音は、ハイスクールを卒業したら帰国することに決まっていたが、日本に帰らず、アンディと結婚してアイリーンと三人でハワイで暮らす決意をした。琴音は、日本の大学に戻ることが決まっていたが、それを拒否したのだ。


 進学先の大学は、宗一郎の縁故ですでに決まっていた。厳格な父の命令に近いものだったから、それを拒否することは、両親に逆らえない琴音にとってかなり勇気のいることだった。


 琴音が不良と呼ばれていた時代は、両親に逆らうといっても、容姿を派手にしたり、隠れて煙草を吸ってみたり、不良グループのメンバーと夜な夜な会う程度のもの。そんなことは、琴音を阻害する家族に対する小さな抵抗であって、逆らうというよりも、親に対する自己主張である。


 大学進学は、人生の節目の一つである。厄介者だった不良娘が海外の学校を卒業して(しかも、更生して)帰国子女として日本の大学に戻ってくる両親の目論見は、琴音の不良時代が消去されるくらいの挽回であった。


 それなのに、いい具合に琴音の不良時代を揉み消そうとした宗一郎と静江に逆らった琴音。琴音のハワイ残留の申し出は、二人を困惑させた。


 しかも、日本に戻らない理由が、子供を産んだからとなっては、世間体を非常に重視する岩本家にとっては、戸惑うどころの話ではない。


 宗一郎の命令で、アンディもアイリーンもハワイに置いて、即、帰国するよう言い渡された琴音だった。けれども、やっと自分の幸せを見出せたというのに、琴音は、それを捨てて日本に帰ることはできなかった。


 そんな時に、姑小夜との確執に苦しんだ静江が自殺未遂をしたという連絡がハワイに入った。琴音は、アンディにアイリーンを預け、両親を説得する目的も持ってとりあえず一時帰国した。


 幸い、静江は命に別状はなかった。


 琴音は、アンディとの結婚の許しを請うために、やっと得た自分の幸せを両親に告げたが、二人とも納得するわけがなかった。


 ところが、数日間、口も聞いてくれず、琴音を無視していた宗一郎が、急に「ハワイに戻って、アンディと二人で今後のことを話し合ってきなさい」とすんなりと言った。


 喜び勇んで日本を飛び出した琴音。


 しかし、アンディの家はもぬけの殻だった。そして、ショッキングな事実を聞かされた琴音。


 ハワイのダッド、ロバートから、アイリーンが亡くなったことを聞かされたのである。そして、アンディは、そのショックで行方不明になったということも。


 悲しみに打ち拉がれた琴音は、ハワイの海に消えようとする。それを救ったのはロバートだった。


 海水で冷たくなった体をロバートに抱きしめられながらベイルアウトの話を聞かされ、琴音は、苦しみから逃れるために、絵を描くことを自分のベイルアウトとする。


 愛する天使、アイリーンの絵を描き始めたのは、それからである。アイリーンの絵を描いていると、琴音は幸せな気分になれた。


 琴音の不幸な過去を思い出すようなことを題材に絵を描くことは、悲しみや苦しみなどのネガティブな思いが襲ってきそうであるが、不思議なことに、琴音はアイリーンを描いていると、周りに天使が飛んでいるような錯覚を覚えた。


 琴音は、アイリーンの誕生日が来るたびに、彼女の成長の記録を残すように、その年のアイリーンを描いた。


 生まれた年、0歳のアイリーンから始まって、一歳のアイリーンはアンディの家の居間で座っているアイリーン。二歳のアイリーンは、鳥を追いかけるアイリーン。三歳のアイリーンは、バースデーケーキと一緒に描かれている。ダイヤモンドヘッドをバックに砂浜を走るアイリーンは、十七歳のアイリーン。チャナマンハットをバックににっこり笑っているアイリーンは、二十一歳。


 こうして、琴音は、真実でない世界に生きるアイリーンが大人になっていく絵を毎年描き続け、二十六歳のアイリーンが最新の絵であった。


 これら、二十七枚の絵を春の展示会に展示することを提案しつつ、封印していた過去を石田に打ち明けた琴音。


 石田は、時折、涙ぐみながら琴音の話を真剣に聞き、絵を確認する以前に展示を了承した。


「とても悲しいことだったけれど、いい話だわ。琴音さんは、描くことによって試練を乗り越えたのね。きっと愛と魂のこもった素晴らしい作品に違いないわ」


 石田は、そう言って、興奮した。


 琴音は、ダイニングルームに戻って、テーブルの上のノートやペンを片付けながら言った。


「でもね、エイミー。私がアイリーンのことを石田さんに話せたのは、石田さんの人柄もあるけれど、それだけではないの」


 琴音は、前夜、響に自分の過去を打ち明けたことで、琴音の中の様々な障害物がなくなり、さらさらと音を立てるように何かが流れ始めた。まるで砂時計の砂が落ちるように、何十年も滞っていたものが流れ落ち始めたのである。


「それだけではないって、響君?」


 エイミーは、打ち合わせ前に、響が琴音の家に泊まったことを聞かされていた。予定の時間より早い石田の来訪だったので、琴音が響とさっきまで一緒に琴音の家にいたということしか聞いていないが。


 琴音は、伏し目がちにして小さくうなずいた。


「ねえ、夕飯をここで食べていかない?」


 エイミーが思いついたように提案すると、琴音ははしゃぐように手を叩いて「もちろん」と言った。


「今日は麻理衣もいないし、一樹はどうせ外で食べてくるはず。たいした食事は出せないけれど、あるもので何か作りましょう。ゆっくりあなたの話が聞きたいわ」


 エイミーはそう言ってから「いいワインがある」と指をならしてにっこり笑った。




To be continued・・・   Written by 鈴乃@Akeming

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