シュバイツアーのピアノーLambarene, Gabon | アフリカさるく紀行

アフリカさるく紀行

アフリカ約30カ国を陸路で走破する。オーバーランドトラックによるアフリカ1周さるく旅です。「さるく」とは長崎の方言で、歩いて観て周ることを意味します。



 カメルーンからガボンへ入ると、いよいよディープな中部アフリカの旅に入っていきます。トラックはロペ国立公園を経て、川辺の町ランバレネへとやってきました。絵に描いたような熱帯雨林が生い茂る北部の低地から中央部の高地へ登るにつれて乾燥していきます。ランバレネはちょうど中央にあるロペ国立公園と海岸部の真ん中に位置する町です。

シュバイツアーと野口英世

 シュバイツアーの名前を聞いたことがない人はいないと思います。彼はこの川辺の町(当時は村のようですが)ランバレネに、病院を建てて仕事を始めました。その跡地に今や立派なシュバイツアーの病院建てられています。小さな村ほどの敷地に病院、博物館、キオスク、民芸品工房などが連ねられています。博物館では、彼が愛用していたピアノや使用されていた患者用のベッドが並べられており、在りし日の彼が思い浮かべられます。

 またシュバイツアーに関する書籍がまとめてある本棚には、日本語の書籍もズラリと並べられていました。ここまでわざわざ本を持って来て寄贈するほどのシュバイツアー信者が日本にいるということでしょうか。実際、彼のアフリカでの評価はさておき、日本人のシュバイツアーに対する印象は極めてよいものだと思います。というのも、彼の生き様は野口英世となんだか似ている気がするからです。野口はガーナで黄熱病研究に身を捧げ、その地で亡くなりました。シュバイツアーも同じようにランバレネで一生を終えています。ですが、逆に言うと共通するところはこれくらいで、あとはそれほど似ているとは言えそうにありません。

 このふたりの類似点は医者としてアフリカに身を捧げたこと以上はありません。しかしながら、彼の反核論者としての姿もまた多くの日本人の彼に共感するところになったと思います。彼は冷戦のさなか次々と核実験を行う国々に対して警鐘を鳴らし続けました。とくに厳格なキリスト教者であり、反核論者であるシュバイツアーに対する長崎の人々の思いは一層強かったように想像されます。実際、ピアニストであるシュバイツアーの孫娘を迎えて記念演奏会が行われたこともあるそうです。

 私はどうもこうしたシュバイツアーに対する日本人の思いが苦手です。というのも、シュバイツアーを通して学べるはずのガボンの文化や社会には目もくれず、彼の功績しか評価されないからです。結局シュバイツアーという偉人の人生を味わった後は、「かわいそうなアフリカのひとびと」という印象しか残りません。その地でシュバイツアーが来る遥か昔から暮らしていた人々が完全に背景として扱われるのです。これでは、シュバイツアーと本当に向き合っているとは言えません。

 彼は医者としてランバレネの人々へ生涯を捧げ、反核論者として長崎と広島に思いを寄せました。だからこそ私たちは、シュバイツアーを通してアフリカの人々に対しても思いをめぐらせることが必要なのではないでしょうか。私たちの意志は知らず知らずの間に「救いの手」を差し伸べるシュバイツアーに同化しがちですが、被爆国としての私たちは本来、彼よりもむしろアフリカの人々に心を重ねることが大切ではないでしょうか。



「伝記」という歴史の描き方

 少し歴史の話をしましょう。日本人のシュバイツアーに対する思いを考えたときに、少なからず影響を与えたのは彼の伝記なり偉人伝であったと思います。日本人、というか、明治政府以降の日本の快進撃(明治維新~高度経済成長まで)が好きな方は、非常に伝記が好きな方が多いような気がします。大河ドラマというのも、いわゆる伝記のひとつだと思うし、それが「国民的ドラマ」とまで言われるのだから、「伝記好き」は日本人のひとつのメンタリティとも言えるかもしれません。今日でも坂本龍馬や新撰組にオトコの魅力を感じ、崇拝に近いような眼差しがあるのも、このメンタリティの現れと言っていいでしょう。(一応断っておきますが、私自身は司馬遼太郎や吉川英治を心底嫌っているというわけではありません。)

 どうも私たちは「伝記」と「歴史」を混同しがちです。伝記は歴史学者でなくても書けますし、フィクションとノンフィクションを織り交ぜながら書くことができます。文章の表現として、ある事柄を誇張することも矮小化することも可能です。もっといえば、著者が偉人に感情移入して、会話文を創造することすら可能です。そのために伝記はミリョク的でありステキなのです。伝記的記述を排除し、まっとうに歴史的事実を追って大河ドラマをつくっても、それはドキュメンタリーになるだけで、ドラマとしての魅力を失うことになるでしょう。

 私は幼い頃から割と伝記(とくにクラシック音楽の作曲家)に触れてきた方だと思いますが、今はとくに伝記が好きでも嫌いでもありません。いや正直にいうと、今は少しだけ歴史的事実だけを精確に書いた歴史書の方に魅かれる気がします。それはさておき、私のように幼い頃はよく伝記に触れたが、大人になってからはあまり魅かれないという方は少なくないと思います。子どもの頃によく伝記に触れるのは、「教訓モノ」として伝記が提供されるからでしょう。この「教訓モノ」としての伝記は日本で書かれた多くの伝記に共通するポイントだと思います。

 ここで考えておきたいことは社会的教訓を規定する装置についてです。社会的教訓を手短に定義すると、誰かがとある社会において「成功」もしくは「失敗」したことから学び、次は「成功」するよう(これは、「失敗」しないよう、の裏返しですが)にする、ということだと思います。この「成功」と「失敗」とは何かと考えたときに、単純明快な二分に見えますが、これはそれぞれの文化によって異なっており、「成功」か「失敗」かを規定するには極めて政治的な力が働かざるを得ません。

 かくして、「教訓モノ」を中心とする日本の伝記は極めて政治的なのです。私たちはよく「伝記=歴史」としてしまい、伝記がもつ高い政治性に盲目になりがちです。よくよく考えればNHKがつくる大河ドラマなのだから、「日本人よ、斯くあれ!」といったメタメッセージが隠れていることなど容易に想像できると思うのですが・・・。もちろん私は歴史的ロマンを否定するつもりは毛頭ありません(学問としては否定します)が、自分が読んでいるもの観ているもの聞いているものに対して、いかに政治的な力がはたらいているかは、常に自覚的でなければならないと思います。

 さて話は横道へと逸れに逸れましたが、再びシュバイツアーに帰ってきたいと思います。この伝記と歴史に関する考えが浮かんだのは、シュバイツアー博物館においてあった彼の伝記がきっかけでした。山室静著『シュバイツアー』講談社 火の鳥伝記文庫(2011,初版1981)を手に取ったのですが、アフリカ研究者のはしくれとしては、古風な文章に差別用語すれすれ(というか、アウトだと思いますが)満載であることに驚愕してしまいました。この本が2011年に増刷されているというのも驚きです。

 著者の山室さんは「たのしいムーミン一家」の翻訳でも知られる著名な北欧文学者ですが、アフリカ社会への造詣はあまりないようで、おそらく無意識であると思いますが、アフリカの人々に対する蔑視が垣間見えます。著者自身も時代の一部であることに逆らうことはできません。どのような著者であっても、時代が持つ政治性に少なからず左右されると思います。

 さて、ここで伝記をめぐる最後の問いにぶちあたります。伝記は書き直されるべきか、否かです。歴史は時代によって書き直されるべきであるので、私はYESと答えたいところですが、どうもそんな単純な問題ではないようです。というもの、文学作品化した伝記は改変のしようがないからです。もちろん時代に応じて新たな伝記は登場するでしょうが、すでに文学作品となった伝記についてはどうしようもありません。もちろん、読み手のリテラシーがあって、伝記のもつ政治性を十分に理解した上で読むのは一向に構わないと思うし、そうあるべきだと思います。しかしながら、児童書に伝記が多いとなると、政治性まで意識したリテラシーを期待するのは難しくなると思います。

 では、どうしたらよいだろうか。これにははっきりいって答えなどありませんが、大人たちが伝記の政治性をきちんと理解した上で、子どもたちと一緒に読書体験をすることくらいしか解決のしようがないように思います。そうすることで、大人も子どもも伝記からよりよく学び、歴史について関心を深めるきっかけになれば、こんな有意義な伝記の読まれ方はないと思います。シュバイツアーと一緒に暮らしたガボンの人々へ思いを馳せることができるような、そんな読書体験を子どもたちとしたいものです。

 



 展示品の中にシュバイツアーが愛用していたピアノがありました。オルガニストでもあった彼らしい逸品で、何とも言えないにぶい光沢がありました。伝記から主人公だけでなく、主人公がいた社会へと思いを馳せるということは、もう音楽を奏でることのないピアノの音を想像することと似ていると思います。触れられる鍵盤だけでなく、そこから紡ぎだされる音、そばで歌った人、それを聞きに来た人、踊りだした人、拍手をした人、目をつぶって黙って聞いた人・・・ピアノの音色を巡って集まった人々ひとりひとりに思いを馳せる。それこそが、シュバイツアーに対する最大の敬意だと思います。