昨年の最後のライヴになった「あさお区民まつり」が終わった。
だんだんとドラムの練習時間の捻出が大変になってきた。塾(Saraは両親の仕事についていく)の行き帰りクルマの中でビデオを見ながらスティックを振る。
そろそろ算数・国語以外に英語の勉強にも本腰を入れ始める。Saraは発音は維持している(SaraママはESLの先生でもある)が、文法が全然ダメ。中1レベルの三単現からお勉強。
嵐の前の……
11月の連休。模試が続く。首都圏模試は手応えがあったそうで、自己採点ではじめて算国共に100点を超える。結果的には、まわりのレベルも上がっていたのか偏差値は横ばいだった。
翌日、日能研(入試センター)の模試を受けに行く。これも良くできたと自信ありげに帰ってきた。
この日の午後第1志望校の過去問をやらせたら算数26点と散々たる結果。しかも、図形の問題は全然出来てない。模試で伸びているのに、このギャップはなんだ
この時期のSaraはちょっと問題が難しいと「はなから出来ない」とあきらめてしまい、粘り強く考えることができていなかった。まったくわかっていないわけではないので、図や表を書いて、きちんと考えることが出来るようになればと思っていたのに……。
模試の結果は3日後、webで見る。算数は偏差値60を越えて、点数的にも納得できるレベルだが、国語が偏差値48! 平均点もとれてない。日能研はレベル低いのにこれじゃダメじゃん。漢字が全然書けていない。良い方の成績には目をつぶって、国語がいかに考えてなかったかを納得させる。
算数で点が取れたSaraは2教科順位でとっても良い成績を取っていた。この成績はSaraの性格を考えて隠していたつもりだったのに。Saraは親父の思いとは別に……。
11月になって一通りテキストが終わって、弱点分野を補強するため自由自在の【実力問題】をやるようになる。問題のレベルが上がった。計算(一行問題)については、サブテキストの計算日記と「応用自在 計算問題の特訓」。
Nの悲劇 N模試事件とは
Saraのモチベーションが上がらない。週末の復習が滞っている。計算の特訓は苦手なところをやっているせいか、とにかく時間がかかる。少し難しい問題になると考えるのをやめてしまう。その原因がなかなかわからなかった。
ある日、その原因がわかった。
日能研の模試を受けて、答案返却のとき、妙に分厚い封筒が送られてきたのだ。開けてみると高級えん筆が1ダース入っていた。成績優秀者の賞品だった(2教科順位が一桁)。しかも志望校別順位が1位。それでSaraは「受かった気になってしまった」のだ。「もう勉強しないでも大丈夫」と思っているから、どんどん難しくなる問題なんか必要ないと思ってしまった。
しかも、Saraの通っている小学校では、「そんなに成績良いなら勉強なんかしなくていいじゃん」と受験する子達が悪魔のささやきを吹き込んだ。Saraの学校では、出来る子は(少なくとも人前では)勉強をしないのが格好いいとされていたのだ。
「模試でちょっとばかり良い成績取ったからっていい気になりやがって、おまえは本物のアホじゃ」
と復帰戦の船木ばりになすすべもなくボコボコにされるSara。この日は本当に頭に来て、本気で殴ってしまった(反省してる)。
日能研が悪いわけではないのだが、Saraを慢心させた豪華な賞品は罠かよ。しばらくNのバッグを見るとひどく落ち込むことに。
そして、Saraは……。
日記にはこう書いてあります。
Saraは「もういやだ。受験をやめる」と言いました。追い込みのこの時期になって、勉強がきつくなって逃げ出したのです。
最後の時期は勉強がきつくなるのは当たり前ですが、Saraは少し難しい問題になるともう考えるのをやめてしまう。
復習で答えを見てしまったり、わざとゆっくりテキストをやっていたり、そんなことを続けていると受験をやめさせられると話しましたが、勉強をしなくて良いとわかると、あっさりと受験をやめる言いだしました。
「Saraはもうダメかもしれない」と本気で思いました。
11月の下旬になってモチベーションが低下するという事態。親父の計画(4月偏差値40→9月偏差値50→12月偏差値60以上に到達)がボロボロと崩れていきます。
「私は苦い明日を知ってるー」カルメン・マキ&OZの『崩壊の前日』が頭の中をリフレイン。
親父
