終わらない童話「大クジラに呑まれたコヨーテ」が見る夢。

       終わらない童話「大クジラに呑まれたコヨーテ」が見る夢。

             
           アンティ-クショップSundaygarageを営むコヨーテが森と生物から学び自分らしくいきるということ。生物行動単独学。
             古きよき時代のくらしに習い都心近くでも出来るヤマ暮らしを探求します。

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  お恥ずかしい話ですが先日、自宅にネズミが出ました。

 春先にはヒメネズミがヤマの寒さに耐えきれず家屋に侵入するという話はあるようで、開け放していた窓からの来訪だったのでしょう。

連日の格闘の末、捕えられずに狼狽えていると、タイミング良くも捕獲経験者から体験談を聞かせて戴くチャンスに恵まれたのでした。
「貼り付け式のネズミ取りで捕獲すれば、その断末魔により他のネズミも逃げて行く」との事。
わたしはリスなどその他、齧歯目(げっしもく)に属する様々な生物を飼育した経験もあるので、愛玩動物と、一般に害獣と言われるそれに差を感じられず、相手の死を持ってして捕える方法にはどうにも抵抗がありました。

「そんな事言ってる場合じゃないでしょう?」という助言も戴き、確かに何でも口にしてしまう小さな子供(イヌ)がいたり、調理したりする環境がある家庭内で、衛生上、これ以上悠長に構えたネズミとの同居も考えにくい状況でありました。
それまで仕掛けていた、「生きたまま捕える罠」を、貼り付け式のものに切り替えた時、いざ掛かってしまったネズミの命に未来が無い事も承知の上、その後の処置を尋ねると、「罠をそのまま閉じてグシャっと潰すんです」苦い表情で続いたのは「それが自分に出来る最後の優しさだと思うから」との言葉でした。
 その優しさとは長く苦しませないこと。
解ってはいても、罠を切り替えたところ、呆気なくかかってしまった、いたいけなネズミを前にして、わたしは悩み、そして安易にもヘラを使い、罠からネズミを引き剥がすことを試みたのでした。
しかし、科学糊がたっぷりと塗布されたボードの上、わたしの掌に伝わる鈍い感触は、明らかにその小さな生き物の肋骨が砕けて行くそれでした。
惨めなヒメネズミは、ボロ布のようになり、森に降り積もる枯れ葉に埋もれました。
わたしは最期も見届けられず、逃げるようにそこを後にしたのです。
せめて、鳥や獣の贄になれ。
ひたすらそう願いながら。
  むごい話です。

しかし、都会で新建材を使用した住まいに暮らしていたのなら、こんな経験も現代では少なくなった事だと思いました。

動物保護や、毛皮や食肉に対する嫌悪を過剰に訴える考えが過去の自分にもありました。
そう、世の中に害獣なんていません。

クマや、カモシカ、野生動物の居住空間を先に侵したのはむしろ人間の方です。しかし、いざ自分の居住空間を侵略、汚染された場合、果たしてひとはどうするのか?

都会に暮らしていてはそれに直面し、現実として捉える機会もないかもしれなかった。

保護指定されていない頭数の多い生き物なら害獣なのか?

ヒトと生物との関わり合いというものに真剣に向き合いたいと願うのならば、自身の生活をその生物に近づけてみなくては結局茫洋とした考えにしかならず、迫真には迫れないものなのだと確信出来た経験でした。

何かを犠牲にした進化など文明とは言えない。

しかし、生きるという事は、何かの犠牲無くしては成り立たない。
問題意識だけではなく、その自覚を持てるかどうかこそが要なのだと、出来るだけ野生に近い感覚で暮らそうという事を改めて誓い、志す、コヨーテ早春の淡き遠吠えでありました。