『ヨーロッパ中世経済史』クーリッシェルから[29]


○貨幣制度と鋳貨制度


(1)中世における貴金属不足

 A.貴金属総貯蔵高(15世紀末)の推定値は(最大値で)「銀:7,000,000kg,金:500kg」という(最小値はこの1/3~1/4程度)。いくつかの銀山(ザクセン,ボヘミア,ティロル,ハンガリー,ザルツブルクに存在した)が激増した時期(15世紀後半)を考えると、中世末期に至るまでの貴金属総貯蔵高は上記推定値よりもはるかに少なかったことは確実
[銀産出量(推計値)]
 27,000kg(1260~1450年の年平均値)→44,000kg(1450~1500年の年平均値)。これによって貴金属の産出総額は「年平均で25%弱増加した」と推計される
 B.ただし注意しなければならないのは、商業(ひいては経済活動)にとって問題なのは「流通する鋳造貨幣である」という点。上記の貴金属総貯蔵高の大半は「装飾品,食器,その他の高価な商品」という形で、鋳造貨幣は小さな部分に過ぎなかった。おまけに多数の鋳造貨幣が取引に用いられることなく、個人や団体が蓄え込んでいた
 C.こうした宝物・退蔵貨幣はしばしば「土中に埋蔵された(特に百年戦争中のフランスにおいて)」「教会・修道院に保管を委託する」などして隠されていた
〈例〉テンプル騎士団・ヨハネ騎士団・ドイツ騎士団といった聖界騎士団の金庫には、地金・鋳貨・金銀製の様々な装飾品からなる巨額の財産が集積された

【支払いに困って貴金属かき集め】
 D.流通貨幣が不足していたから、とりわけ多額の支払いはかなり困難だった
〈例〉リチャード1世・獅子心王の身代金=銀150,000マルク(ケルンの重量で)の調達には、教会の什器(特に聖餐用器)までも貨幣に改鋳しなければならなくなった(それ以前に、十字軍に必要な資金を集めるために1/10税を課していたから、担税力は限界だった)
 E.鋳貨不足に対応すべく、中世では多数の条令が発布された。それによれば「各人は自分が有している金銀製品の1/3を鋳造所に提供して、鋳貨に改鋳しなければならない」とされたのだが、作られた鋳貨は「一定期間の経過後にはじめて住民に渡される」ことも稀ではなかった(=実質的な強制借上,フランス:1313年と1332年)
 F.金細工匠は装飾品を製作する際に「a.法律で定められた最高重量を越えてはならない」とされ、時には「b.営業停止すら命じられることもあった」

【代用貨幣】
 G.鋳貨の欠乏は"皮幣"の発行の原因ともなった(これは後の紙幣の先駆けと見なしうる)。また"穀物"も依然として支払手段に使用されるのは稀ではなかった(中世初期にはそうしたケースはもっと多い)。さらには、国際的商取引においてすら、様々な商品が支払手段に用いられた
〈例〉
1.「マルク・ブランデンブルク地方では穀物・めんどり・胡椒が、ある一定の率で“貨幣の一部”と呼ばれた」
2.「フリースラントでは、人々はビール樽に従って計算していた」
3.「モラヴィアの国有鋳造所を借りる際に国王に納付しなければならない貢租が、緋色の毛織物で納付されていた(13世紀)」
4.「イタリアのある商人(12世紀)は、借金の1/3を胡椒・1/3を蘇芳・1/3を明礬と乳香でそれぞれ支払う義務を有していた。胡椒以外の商品を調達できない時、これも専ら胡椒で返済を行わねばならなかった」
5.「ジェノヴァが公使を派遣するにあたって大金が必要となった時(1378年)に“胡椒公債”の募集が告示された。この返済は債権者の希望によって、金or胡椒により行われた」

【貨幣流出に対する禁令】
 H.地金・鋳貨・什器とどんな形であれ「金銀の流出禁止」はしばしば繰り返された。また「手形支払いの際にこれらの支払手段を使うことは、常に国王の特許を必要とする」という規定もあった(※特許だから、特定の商人に対する優遇措置を意味する)。これらの措置の原因は鋳貨不足にあった
 I.加えて国王・諸侯は「支払手段(=通貨)の輸出権」の特許を売却することで、財源として利用しようと企てた
〈例〉イングランドではヘンリー7世が発布した支払手段輸出禁止令は、王自らが売却した特許により全く意味をなさなくなった。王は特許売却によって国庫を満たすことができた
 J.このような禁令は「完全な価値を持つ(=改悪されていない)鋳貨の流出防止」を目的としている場合もあった。この場合は鋳貨改悪がセットになっていた
〈例〉フランスのフィリップ4世・美男王は、鋳貨の純度を2年毎に引き下げた(13世紀末~14世紀初)。それと同時に「金銀の地金と什器,外国の良質の鋳貨」の輸出禁止令をしばしば出したが、反対に「新しい悪貨を自由に輸出すること」は許されていた


(2)鋳貨(銀貨)と貨幣制度

【数量ポンド】
 A.最も主要な鋳貨について、その価値を理論的に規定したのは、カール大帝による「純銀1ポンド=240ペニヒ(デナーレ,デナリウス)」の公式だった(中世盛期~後期においても)。ところが度重なる悪鋳によって、ずっと以前から240ペニヒには純銀1ポンドを含まなくなっていたから、このポンドは(重量ではなく)数量の観念になってしまっていた
 B.こうして「重量ポンド」から「数量ポンド」となり、しかもその際に幾種類かの異なったポンドが作られた。パリのポンド(リーヴル)とトゥールのポンド(リーヴル)は「最初は68:100→後には4:5」となった(※これは数量比であり、価値はパリ貨の方が25%高い)

【マルク】
 C.スカンディナヴィアから出たマルク(=古代ローマの8ウンツェ=218.3g)は、ポンドとは違う第二の、より小さい鋳貨重量だった。ドイツの文書に登場し(1015年)、やがてポンドを駆逐していく(12世紀~)。フランスでもマルクが用いられるようになる(12世紀中葉~)
 D.時と場所によって様々なマルクが登場する。最も重要なのは「フランスのトロワのマルク(鋳貨条令の率の基礎となる)」&「ドイツ最古の最も著名なケルン・マルク」だった
 E.これは一般に「1ケルン・マルク=233.85g」と規定されたが、やがて「鋳造マルク:1マルク=12シリング(or144ペニヒ)=210.24g」「重量マルク:1マルク=215.5g」「商人マルク:1マルク=約200g」に分裂する。後には、多数の異なった“ケルンのマルク”が成立していた

【少額貨幣】
 F.西ヨーロッパの至る所で、まず最初にペニヒ(デナリ)が鋳造された。これも早くから時と場所によって著しい違いがあり、重量・価値の変動は不規則で非常に大きかった。同時に現れた“半ペニヒ”(“オボル”)はたいていは鋳造されず、ペニヒ貨を2つに切断して使用した
 G.ペニヒ貨以外の小型・計量の貨幣は長い間ドイツやフランスで採用された。それらは“メーユ”(フランスにて)・“クェプフェン”(ネーデルランドにて)・“シュッペ”(フリースラントにて)と呼ばれた。“メーユ”はだいたい“オボル”と同価値だった

【特殊な少額貨幣】
 H.ホーヘンシュタウフェン期の特徴的な"現象"として「凹型鋳貨」があった。これは「貨幣の鋳造を簡単にするために鋳貨板を薄くした結果として発生した」ものだった。そのため、全く廃棄されないうちに、両面の刻印が分からなくなってしまうほどに損耗してしまう、という結果になった
 I.この鋳造方法がイタリアから南ドイツに伝わることで「両面に刻印された厚い小型ペニヒ貨」が「“半ブラクテアート”と呼ばれた薄い幅広いペニヒ貨」によって(一時的に)駆逐された。その鋳造はやがて一面の刻印を止め、ただ単に鉄槌で打刻しただけのものとなる。こうして「一面だけ刻印された、薄く幅広い小鋳貨」=“ブラクテアート貨”が出現した
 J.この鋳貨は割れやすかったから多くの破片が伝わっており、当然ながら流通期間もごく短かった。さらに“ブラクテアート貨”が両面刻印の鋳貨を完全に駆逐するのは常に一時的であり、しかも個々の町村に限られていた。このため凹型鋳貨と厚型の両面刻印鋳貨はしばしば互いに交替する、という現象が発生した

【良質の少額貨幣】
 K.ペニヒ貨は次第に品位を下げていったが、良質(両面刻印)の鋳貨も出現した。“ヘラー貨”(シュヴァーベンの都市ハル・アム・コッヘルで生まれたので、その名に因んで名付けられた)は登場(1230年)後に間もなくシュヴァーベン以外にも伝わった(例:ヴュルテンベルク,テューリンゲン)
 L.イングランド(12世紀末~)では大ペニヒ貨=“スターリング貨”が鋳造された。この名称はハンザ商人を“オスターリンゲ”と呼んだことに由来する(なぜドイツ人商人なのか?は下記)。価値を落としていた古いスターリング貨は、1世紀後に新しいスターリング貨に取って代えられ、新貨がイングランドの常用貨幣となった
 M.スターリング貨の信用は高く、まもなく「スペイン(デナリの3倍),ポルトガル,ノルウェー,ライン河畔(マインツとケルン),ヴェストファーレン地方」でも模造された(ドイツ西部での流通は、ケルンの鋳貨が改悪され始めたことがきっかけだった)。こうして「カロリング時代のペニヒ貨は、かつてドイツ人商人によってイングランドへと運ばれていった」のが、時を経て再び故郷へと戻ったことになる
 N.都市ハンザの主要鋳貨“ヴィッテン”=“白ペニヒ貨”もスターリング貨に由来するようだ。これは“アルブス貨”〔西部ドイツ〕・“ブラン貨”〔フランス〕・“ブランコ貨”〔スペイン〕と同種であった。ペニヒはこの1/4だった

【世界鋳貨としてのグロッシェン貨】
 O.重要性のきわめて高かったのはグロッシェン貨だった。ヴェネツィアで登場(1192年)し、間もなくミラノ・ジェノヴァ・フィレンツェをはじめ全てのイタリア諸都市で様々な模造鋳貨が現れた
 P.フランスでも同型の鋳貨がルイ9世の時代に作られ(1266年)、ペニヒ貨が唯一の鋳貨だった時代は終わりを告げた。そして“グロス・トゥルノワ貨”or“グロッシェン貨”はヨーロッパ中の他の場所でも模造されていく
〈例〉
1.「モーゼル地方(1276年)やケルン(1295年)で、支払いに用いられたことが立証されている」
2.「ボヘミア国王ヴェンツェルは、イタリア風大型銀貨を鋳造させるために、フィレンツェの鋳造親方を招聘した(1300年)。これによって“プラハ・グロッシェン”が登場した
3.「“プラハ・グロッシェン”がマイセン辺境伯のグロッシェン貨(登場は14世紀初)の模範となる。最初は純銀1マルクから64個が鋳造されたのが、80個(1360年)→175個(1432年)も鋳造されている」
4.「マイセンとボヘミアのグロッシェン貨は大量に鋳造されて全ドイツへ流入し、今度は再びザクセン・テューリンゲン・ヘッセン・ブラウンシュヴァイク・アンハルトなどで模範となった。北ドイツでは“シリング貨”が相応する」
5.「イングランドでもグロッシェン貨(“グロアート”)=4スターリングが出現した(14世紀初~)」


(3)鋳貨(金貨)と貨幣制度

【イタリア】
 A.中世における金貨鋳造はイタリアの都市共和国に始まり、ヨーロッパ全土へと伝播していった
1.「ジェノヴァ(1149年)では“ジェノフィノ・ドーロ”金貨と“クァルタローロ”金貨(名前のとおり1/4金貨)が発行されていた」
2.「ヴェネツィア(1252年)では“フィオリノ・ドーロ”貨(市の紋章と洗礼者ヨハネの立像を刻んでいた)が作られた」
3.「“フローリン貨”(1ポンドのペニヒ貨の価値を重量3.5gで示した金貨)は、まず最初にヴェネツィアの“ツェチーノ”貨と“ドゥカート”貨の模範となる。続いて全ヨーロッパで模造され、かつ存在した鋳貨の中で最も長命の型となった」

【ドイツ】
 B.このフローリン貨とドゥカート貨は、他のイタリア諸国・ボヘミア(1325年~)・ハンガリー・スペインに普及した。さらに教皇庁の収税官によってドイツにももたらされ、ここでは“グルデン”貨と呼ばれた。
4.「グルデン貨はラインラント・オーストリア・リューベックでも模造された(1330年~)。ほかにも“国王のグルデン貨”(フランクフルト,ネルトリンゲン,ドルトムント,バーゼルで鋳造された)、ブレーメン・ミュンスター・オスナブリュックの各司教の金貨、ドイツ騎士団長の金貨などがあった(15世紀にかけて)」
5.「ライン諸選帝侯の間で金貨と銀貨の共同鋳造に関する協定が結ばれている(1354年~)が、そこではライン・グルデンは価値を失っていた。やがてフローリン貨の3/4と定められた(1419年~)」
 C.ドイツのどんな地域・領邦においても、グルデン金貨は「商人が使用するだけの貨幣,計算用の貨幣」にしか過ぎなかったので、地位としてはグロッシェン貨だけでなくペニヒ貨・ヘラー貨よりも低かった。しかも取引に使用された貨幣の価値は下落し続けたから、しばしば混乱&不安を引き起こした

【仏・英・蘭】
 D.ドイツとは異なり、フランス・イングランド・ネーデルランドの金貨ははるかに重要性を持った
 E.フランスの金貨鋳造の特徴は、最初はイタリアを模倣したと思われる(ルイ9世の“ドニ・ドール”貨)のが、やがて「大きさ・重量ともにフローリン貨に比べて増大し、長く独自の道をいった」点にある。こうして重量・価値の異なる多数の鋳貨が生産され、それらは刻印から名前を取って呼ばれた
〈例〉“エク・ドール”貨(国王と百合の紋章),“シェーズ・ドール”貨 (国王の王冠),“ムートン・ドール”貨or“アニェル・ドール”貨(神の仔羊),“アンジュ・ドール”貨(大天使ミカエル)
 F.イングランドの金貨鋳造はフローリン貨に始まり(一部分フランスの紋章風)、次いで“ノーブル”貨(最初は船印ノーブル、次いでバラ印ノーブル)によって補われた。このノーブル貨は、フローリン金貨と並んで中世で最も好まれた金貨であり、イングランドではエリザベス朝期まで最も主要な金貨だった
 G.一般にイングランドでは(フランスやスペインと同様に)多種多様かつ重い金貨を発行していた。その中でも、バラ印ノーブル貨の2倍の重量で鋳造された“ソヴリン金貨”(1489年~)が特に優れていた
 H.中世ヨーロッパの人々が金貨を使用したのは「比較的多額の支払い時,債務の弁済時,結婚に際して持参金をもたせるとき」だった(フランス,ドイツ〔ラインラントにおいて〕,とりわけイタリアにおいて)。さらに金貨の大きな決済となると、今度は金貨を「唯一の支払い手段にしよう」と務めた。しかし(上記のように)大半のドイツはこの傾向から外れていた