『異人歓待の歴史』(H・C・パイヤー)から〔9〕



○中世初期~盛期の居酒屋


(1)中世初期の僅かな証拠

 A.メロヴィング朝期には、ダイレクトに居酒屋の存在を示す史料は極めて少ない。ただし全く存在しなかったのではなく、重要な中心地や街道沿いには常に数軒の居酒屋があった可能性はある。この時期の旅人たちの宿泊先は「宿屋ではなく、高位or普通の人物の家」だった
 B.カロリング朝期の勅令には、居酒屋が自明のものとして現れる。聖職者が居酒屋に入ることは、古代末期から変わらず禁止されている(ただし所によっては、旅の道中の司祭は例外とされてはいる)。もし司教が「道中で何かを居酒屋から買わなければならない場合には、購入した物は使者を通じて別の家に運んできてもらうようにしなければならない」ともされていた


(2)敬遠されていた居酒屋

 A.聖職者のみならず、貴族や商人の場合でも「敬遠されたり,少なくとも礼儀作法にかなっていない」と見做されていた。フランス・ドイツの詩(12・13世紀)において、居酒屋には民衆しか姿を現さず、そこに立ち入るのは騎士には相応しくない行為とされている
 B.レーゲンスブルクの商人がオーストリア公から与えられた権利(1192年)の中では「証人として認められない居酒屋亭主」「信頼に足る立派な宿主」が区別されている。居酒屋亭主への不信はジュネーヴ(15世紀)でも同じだった
 C.何世紀にもわたって禁止が常に繰り返されているのは「禁止が原則としてかなり重視されてはいたものの、普段はあまり大きな成果が上がっていない(=訪問してはいけない人が訪問していた)」ことを示唆している


(3)酒類の販売場所としての居酒屋

 A.9~10世紀のライン河以西地域では、居酒屋は「重要な教会,世俗の定住中心地,幹線交通路沿い」にあって大きな意義を持っていたので、聖俗の領主自らが居酒屋と関わっていた

【幾つかの実例】
 B.パリの教会は領内で居酒屋を設置する権利を授封された(819年)。サン・ヴァースト修道院(アラス近傍)は国王から多数の居酒屋を寄進され、うち1軒は修道院のすぐそばにあった(9世紀中頃)
 C.サン・リクィエ修道院(アミアン近傍)周辺にあった定住地なは2500軒の家屋があり、そこには「商人,鍛冶屋,盾職人,鞍職人,パン屋,靴職人,羊毛手工業者,革なめし職人,葡萄酒製造業者,居酒屋」の横町があり、それらの居酒屋は修道院に毎日約150~200Lのビールを供給していた
 D.サン・フィリベール・ド・グランリュー修道院(ナント近傍)には、修道院内の中庭の前に居酒屋を備えた市場があり、巡礼者が聖人の墓所での祈りの後に葡萄酒を購入するのが常だった。「釣り銭を多く受け取ったにもかかわらず、それを否定した巡礼者に対して、修道士が飲んだ葡萄酒を巡礼者に無理やり吐かせた」という事件も伝わっている


(4)税関・倉庫・市場としての居酒屋

 A.メロヴィング朝時代には「ガリアの港湾諸都市には税関があり、それは倉庫・地下倉庫と結びついていた」。これらの 倉庫&税関は「流通税課税の対象となる商品や、葡萄酒のような現物で納められる流通税のため」に使用された
 B.こうした場所から自然と居酒屋が生まれた、とも考えられる。さらに単なる酒場に止まらず「積み替え場所,取引場所,一種の極小市場」であったりもした

【幾つかの実例】
 C.ナント司教は国王から「船や荷車に積まれて港・市場・居酒屋に到着する商品全てにかかる流通税の半分」を授封した(856年)
 D.コンピエーニュのサン・コルネイユ修道院の修道士たちは「城砦内外の醸造場と葡萄酒居酒屋からの流通税」を国王から引き渡された(10世紀初頭)
 E.ブルゴーニュのトゥルニュ修道院の商人は「フランク王国内の河川・街道・居酒屋の全てでの流通税」を免除される特権を国王から与えられた(同)


(5)初期の居酒屋

 A.食事のみならず宿泊・寝床まで提供したのかどうかについては明確ではない。ただし「1人の人間が粉屋・船乗り(漁師や渡し守)・居酒屋亭主を兼ねている」というのは当然のことだったようだ(10世紀)
 B.マインツのザンクト・アルバン修道院近くには(おそらく居酒屋でもあった)宿が存在し、修道院の修道士用の毛織りのテュニカを購入するために遣わされた、ザンクト・ガレン修道院の修道士が投宿した。その時、女将はザンクト・アルバン修道院の修道士に葡萄酒をもてなしていたという(9世紀)

【フランドルの場合】
 C.アルドル(カレー近郊)には「イングランドへ向かう往来の多い街道沿いに、ビール酒屋を備えた家畜の大放牧地があった」「そこへは農民が立ち寄って、革袋や豚の胆嚢を使って一種のサッカーをするのが常だった」(10世紀)
 D.ブリュッヘでは「フランドル伯によって防御用の城砦が建設された。水路を渡り城へと通じる橋のそばに、遠隔地商人・酒場亭主・旅籠亭主が定住した」「城に泊めてもらえなかった者は、これらの酒場や宿に投宿したが、こうしたところから後の定住地へと発展していった」(9世紀~)
 E.ドゥエではブリュッヘと同じように「城砦と街道定住地とを結びつける橋があった」「定住地には醸造場と2軒の居酒屋があり、居酒屋亭主が居住していた」(9世紀~)

【その他の地域では】
 F.イタリア-スイス間の峠道(ユリア峠越えのイタリアへの街道沿いなど)には、居酒屋や畜舎付きの宿が複数存在した(9世紀)
 G.アックアペンデンテは巡礼者の重要な宿営地であり、中世の間ずっとそうだった。ここには1軒居酒屋があり、皇帝によってサント・サルヴァトーレ修道院(トスカーナ)に寄進された(10世紀)
 H.ある修道士がイングランドで聖人の遺骨を盗み出し、ドーヴァー海峡を苦労して渡った後、ダンケルク近郊のある港の居酒屋に隠した。そこから最後にベルグ・サン・ウィノク修道院(ダンケルク近く)に辿り着いた(11世紀中葉頃)
 I.ル・マン(1090年)とラン(1115年)で発生した、都市領主の支配に対抗する反乱では、反乱に関わった業種の中に「旅籠亭主,酒場亭主,小売商」が列挙されている。後には「宿主と(酒の)小売商の間の区別」が実に頻繁に出てくる(13世紀~)

【酒場か宿か?】
 J.特に諸都市の年代記では、以前から知られていた「食糧抜きor食糧付きであれ、旅人を宿泊させる家」と「宿泊を提供しない酒場,小売商露店」が区別されている
 K.都市法においては「まともでかなり質が良くて客人をもてなす家」と「軽蔑された酒屋」との、社会的・道徳的な区別も表現されている。しかし居酒屋は、単なる酒場であっただけでなく、そこに出入りする下層階級の人々のための宿だったことも時にはあった
 L.ただしこうした区別は、都市やかなり大きい定住地でしか実際に意味を持たなかった。「都市間の街道,遠隔地商業路沿いの辺鄙な地域,農村の小定住地」にある居酒屋は、普通は酒場&旅籠だったと考えられる
 M.このような居酒屋の初期の外観については不明(粗末な小屋か?1部屋だけの普通の家か?隊商宿のような「中庭を囲んで多くの部屋と厩がつながった」形か?)



○11~14世紀の居酒屋


(1)シャフハウゼン(スイス)の場合

 A.ライン滝に面したこの都市は、早瀬の手前にあった漁師・船乗りたちの定住地から生まれた。これは水路の障害を避けて通るために、ライン河航行船からおよそ4kmの区間、商品を駄獣or荷車に積み替える必要があったから
 B.アラアハイリゲン修道院(1049年建立)は都市をネレンブルク伯から寄進された(1080年)。この定住地からの収入は合計92タレント銀(1100年頃)で、その内訳は「屋敷112軒から11,貨幣鋳造所から7,パン屋から18,税関から13,ビール居酒屋9軒から18,葡萄酒居酒屋2軒から14,市場屋台から6,船舶から5」タレント銀だった
 C.屋敷の10軒に1軒は居酒屋であり、総収入の1/3以上を差し出していた。その数と税額の多さから、これらの居酒屋の中には酒屋ばかりでなく「商人,渡し守,船乗り,その他旅人のための宿屋」「ここで積み替えられる旅人の商品のための倉庫」が含まれているのみならず、居酒屋は「通過する旅人のための1種の日市」としても機能していたようだ。もちろん当時はその他の家も、客人を泊めたり商品を保管していた
 D.領主にとっては、居酒屋での酒類の消費だけでもかなりの額の収入をもたらしたと考えられる

【修道院による交通路支配】
 E.アラアハイリゲン修道院は、ビュンドナー諸峠(グラウビュンデン州の諸峠)からシャフハウゼンに至る、水路沿いの居酒屋も寄進によって取得していた
 F.ボーデン湖畔のウンターウールディンゲンでは、湖を渡る最も重要な渡し船が運行していたが、修道院はここの「地所1カ所,水車場1軒,居酒屋3軒」も取得していた。ライン河畔には「船着き場,渡し場,水車場1軒,葡萄酒居酒屋1軒」をも取得していた。他には葡萄山も取得している
 G.いずれも「陸⇔水上」の積み替え地であり「船を待つ人々のための休息場,商品のための上屋」も必要だったと考えられる


(2)その他の事例から

【居酒屋の所有に関して】
 A.アルトドルフ(エルザス)は「市場,貨幣鋳造所,居酒屋,税関を設置する権利」を市場特権によって与えられた(1153年)
 B.ヘッセローエ(ノイブルク・アン・デア・ドナウ近傍)では、市場のディートリヒという人物とその家族が「居酒屋,畑,市場税」を占有していた(1214年)
 C.ヴルムリンゲン村(トゥトリンゲン近傍)では、コンスタンツ司教が「税関,居酒屋,パン屋,肉屋」を所有していて、この村を都市に昇格させようとした(14世紀)
 D.シュティム(インゴルシュタット近傍)では、同一人物が「居酒屋,税関,守護職(フォークタイ)」を所有していた(同)

【立地について】
 E.フランケンでの最初の居酒屋(11世紀)は、デッテルバハ・アム・マイン(キッツィンゲン修道院の大きな荘園)において「水車場,パン屋,葡萄酒製造人,漁師,23軒の農家」とともに、莊司の居所のすぐそばにあった
 F.ザンクト・エメラム修道院所領のハウゼン(グレーディング近傍)には1軒の居酒屋があり、そこには「莊司,森番人,その他の家人がいたほかに水車場もあった」(1031年)
 G.居酒屋の多くは水路沿いorその近くにあった。バイエルン(13・14世紀)では、確認した約100軒の居酒屋のうち41軒が川沿いにあり、うち数軒は渡し場・橋の近くにあった
 H.橋の建設が増加する(12・13世紀)につれて、橋元の居酒屋が至る所で急増していく


(3)農村などの居酒屋

 A.主要な中心地・水路・街道から離れた所にある農村の居酒屋は、初期には極めて珍しかった。しかし「後に村落に発展していく小さな荘園の行政中心地,市場や定住地の前段階」にも居酒屋が現れ始める(11・12世紀~)
 B.ある村では「村の荘園の中心地にある領主直営地の水車に隣接して」居酒屋があった。これらは「裁判と関連していたこともよくあり、裁判官・領主の宿泊と食糧提供のために使用されていた」
 C.しかし、農村の領主の多くは居酒屋に注意を払っていなかったようだ(特に聖界領主は)
[例:ザンクト・ガレン修道院でも広大な荘園内において、14世紀末頃までは居酒屋はほとんど何も知られていない(土地台帳に記録が無い!)。ところがその後修道院は、至る所で居酒屋に対する支配権を要求し、それに相応する貢納を取り立てた]

【衰退&発展と居酒屋】
 D.放棄された都市の最後の名残として居酒屋が残っている事例は珍しくない(例:14世紀の廃都市であるニュー・イーグル〔リンカンシャ〕,リヒェンゼー〔ルツェルン州〕)
 E.中世盛期の経済成長によって、大土地領主の所領群は解体し始めた。「村落に似た新しい定住地が数多く生まれ、水車場・パン焼き竈・醸造場・居酒屋への必要性が増大した」「ここに新興の地方領主が居酒屋に関わり始める余地が生まれた」