わの舞 岐阜種蔵合宿。「ない」ことを超えた尊さ。 | 富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)

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身辺雑記。

6月17、18日と岐阜県飛騨市種蔵でわの舞かまちゃんの合宿でした。




宿はSちゃんの働いている「板倉の宿 種蔵」。





直前に苦しいことまた立て続けで、当日ぎりぎりの時間まで、なかなか気持ちを切り替えられませんでした。

今回は車で片道45分、という恵まれたシチュエーションなのですが、
運転危ぶまれる精神状態。

でも家をあと一時間したら出ようかな、という時、わの舞仲間のMちゃんからのラインがあって、ぱっと気持ちが軽くなりました。すぐに車を出して、ノンストップであっという間に会場の岐阜種蔵に着いてしまう。

近くにこんないい所があるとは知りませんでした。









Sちゃんのパワーある美味しい料理、古民家の佇まいの似合う安曇野のY夫婦、もうかわいくてたまらん娘さんのMちゃん2歳。

与えられた言葉、見たもの、そのどれもが宝石のような光を放っているのですが、そのいくつかを。





集落の中心部に、ぽこんと小高くなったところがあって、そこで4人、舞うことになって、挙手しました。

水が涌き出ていて、そこから四方に流れていくところ。分水嶺。




初め、私はなんとなく遠くに他の方々が見えるポジションを選びました。あ、これはちょっと控えようか、と思ってギャラリーの皆さんを背にするポジションにいたMちゃんと場所を交換しました。

すると、目の前に、山並みと、太陽が。




太陽と山に向かいあう、一番いいポジションだったのです。

捧げる対象。

まだついつい、「観客」を考えてしまう自分に気づかされました。

気づかされたことにも。こんな時にもそばにいて、リアルタイムで気づかせてくださった。一緒に舞っていることを知らせるように。

もう一つ。

かまちゃんのパートナー、みちるちゃんが肩を傷めて、腕が上がらない、と聞いていて、心境いかばかりか、と思っていました。

今回、久しぶりのみちるちゃん。

同じ場所で、今度は他の皆さんが天の舞を交代で舞うことになり、みちるちゃんの番になりました。

みちるちゃん、とても女性らしくて、柔らかな美しい舞をする方です。

その、片方の腕が上がらない。

でもみちるちゃん、なんとも言われぬ慈愛深い笑みをたたえて、静かに舞っているのです。

その動かない左腕をあげる振りの時も。

ただ、じっとしている。

自然に、見ている私の両手が合わさって、拝む形になりました。

とても尊く、美しかった。

もし私が、仮に真似して片腕を上げないで舞ったとしても、人になんの感銘も与えないと思う。

彼女の中で、たくさんの苦しさ、葛藤があっただろう、それを経て、乗り越えた者だけが持つ神聖さにあふれていました。

片腕、上がらなくても、楽々美しく舞える体よりも、もっと。深い内なる光を発していました。

解脱。

ただ、美しいものだけ見るだけでは培われない。辛い目にあっても、浮き上がれない、ねじまがってしまったままだと光を発しない。

辛い目にあって、そこをくぐり抜けてその辛い中に幸せ、極楽を見いだせた者。それは人を導く光となる。

あ、「辛い」と「幸い」、一画の違いですね。
「幸い」の漢字の、最初の一画、横のハリを作るかどうか。

ただ、自分独りが立っているのではなく、横のハリ、人とのつながり、有り難さを意識しているかどうかで、「辛い」か「幸せ」かが決まります。

家に、両腕がない仏像の写真を飾っているのですが、なにかしら、とても惹かれて飾っているものです。




「ない」のに、そこにある、いる、というのは惹き付けるものがある。

みちるちゃんの腕は一時的なもので遠からずきっと治るものだけど、
みちるちゃんのためのみならず、目にする私たちのためにも与えられた、「動かない片腕」に思えました。

以前、かまちゃんが聞こえないからこそ、持ち得た私の舞、と諭してくださったことがあって、そのお話とも重なりました。

「ない」ことによって魂が苦闘し、そこから得られるものの大きさを。

その晩は、みちるちゃんの天の舞を舞う姿を繰り返し頭の中で再生しながら眠りにつきました。

翌日2日目、今度はお寺の中でのゆったり御柱の舞。

輪で斜め向かいのみちるちゃん、両手を打ち合わすところで、その片腕が、ない。

でも、静かにかすかに笑みを浮かべて片手だけ、打ち合わせる形をしている。

手を鳴らすのではなく、空間を鳴らす、とかまちゃん言ってたけど、みちるちゃんのその片手での柏手は、私の心を打ち鳴らしました。

もう!

いとおしくて、飛んでいって、抱き締めたかった。

神様の気持ちね。



それから、集落の高い位置、棚田のところでの「千年の祈り」の曲での御柱の舞。

もうこの上なく幸せで、数日前までの気持ちと正反対に、「自分もここにいていいんだ」という安心感でいっぱいでした。

自分の中の、「悪しき」思い、それさえも救われる、と。あって、当たり前なのだと。

何をやっても心の中で「……ウソつき。」と自分のどこかからか声が聞こえてくるのですが、「悪い」心なんて、ない。

もう、幸せでした。だから、これ以上を望むのは、ない。なにがあっても、「おまけ」。

天国にいたような心地でした。

集落のあちこちがわの舞にぴったりで。集落を一時的にお借りして、わの舞コミュニティで過ごしたような。

だからでしょうか、翌日から仕事で、今日は2日目になりますが、なぜだかいい人間関係、いい空間がここでも築けています。連続で。不思議に。

今回、お借りした古民家やお寺のお堂をみんなで掃除して、その楽しい作業が、同じ掃除の仕事で地続きになっているような気もします。

仕事でやっている清掃と違う、日本古来のそうじのことも話していただきました。



最後の方で、こんな
サークル状の田んぼで原始の舞を舞いましたが、




最後にみんながひとかたまりになった時、あたかも一つの種になったよう…………。

ここ、「種蔵」という集落の名前は、天災に強い場所であるため、万一の時、周辺の集落に種を分けるために貯蔵する蔵があることからだそうです。



倉庫、というものではなく、尊い、自分たちよりも大切なものを置いておく心の表れの造りの蔵になっています。




善悪、動かない、聞こえない、さまざまな思い、それぞれをひっくるめてわの舞の道にある者たち。
これからずっと伝え続けていく文化の種として、私たちはあの田んぼの中心に、いました。

鹿児島講習の折に見た、樹の年輪、あの中心の若木の頃に、私たちはいる。

大切に、大切に、、………………