実家の近所のおじさんに、「ヒロポン」というものの存在を聞いたのは中学生か高校生の頃でした。

「学校をサボって草むらでハイになってた。」 などと聞いていたので、子供ながらにも、麻薬なるものだということがわかり、そういうものが昔はこんな田舎にも身近にあったのだとわかり、びっくりしたのを覚えています。

今では、覺醒剤という名ですが、昔はヒロポンと呼ばれ、製薬会社が販売していたというのですからびっくりです。

精神神経系の疾患に悩む患者にとっては良い医薬品なのでしょうが、最近、特攻隊について勉強していたら、またヒロポンという言葉にめぐり会い、検索してみると教科書では教えてもらえなかった闇日本の歴史に出会うことになりました。

いろいろ説はあるようですが、疲労が「ポンッ」っと回復するから「ヒロポン」だって。昔らしいネーミング。

特攻隊の隊員は疲労回復や精神状態を最高潮、最適にするためにヒロポンを注射してたそうです。

そうすれば、恐怖を感じず死ねたのでしょうか。 
時代の移り変わりは本当に速いもので、一昔前に、こんな恐ろしいことが行われていたとは今私達が生きている社会では考えられない。

こういう情報を学校では教えてくれませんでした。 「日本人が知ってはならない歴史」 のひとつなんでしょうか。
特攻隊の映画やドキュメンタリーなどはたくさんありますが、なぜこんなことが行われていたって事を以前聞いたことがないのでしょう。

以下wikipediaからの抜出です。
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咳止め効果より疲労回復効果に抜群だと長距離トラック運転手が乱用したり、また食欲減退効果があることからダイエット薬として販売する業者も現れたが、アメリカ食品医薬品局(FDA)が乱用が報告されて1959年に処方制限に踏み切った。

1941年に武田薬品工業からアンフェタミン製剤をゼドリン、大日本製薬(現在の大日本住友製薬)からメタンフェタミン製剤をヒロポンとして市販されたが、効果も売上げもヒロポンの方が上だった。

軍は生産性を上げるべく、ヒロポンを軍需工場の作業員に配布したり、夜間の監視任務を負った戦闘員や夜間戦闘機の搭乗員に視力向上用として配布していた。いわゆる吶喊錠・突撃錠・猫目錠である。

夜間戦闘機月光搭乗員として6機ものB-29を撃墜したエース、黒鳥四朗海軍少尉・倉本十三飛行兵曹長のペアが、戦後その副作用に苦しめられたのが有名な例である。また特攻隊出陣の前には、錠剤ではなくアンプルが支給されていた。いずれの錠剤もヒロポンにお茶の粉末を混ぜたもので、アンプルは何も混ぜていない。アメリカやドイツやイギリスなども、兵士たちにぺルビチン錠などを配布していた。

やがて日本が敗戦すると同時に軍部が所蔵していた注射用アンプルがどっと流れ出て、戦後間もない闇市ではカストリ焼酎一杯より安い値段で1回分のアンプルが入手できたので、芸人や作家やバンドマンといった寸暇を惜しんで働く者たちから、興味半分で始めた若者まで瞬く間に広がって乱用者が増加していった。また1943年から1950年まで、薬局では印章さえ持っていけば誰でもヒロポンのアンプルや錠剤を購入可能で、タクシーの運転手や夜間勤務の工場作業員など、長時間労働が要求される職種の人々に好んで利用されていた。

その疲労回復力から大変重宝された。だが実際は即効性の高いアンプルは常に闇に流れて常に品不足状態であり、薬局では錠剤しか入手できなかったことが、 1949年の新聞で報道されている。この結果、日本ではメタンフェタミンが社会に蔓延し多数の依存症患者を生み出す事となった。
製薬会社と一部の研究者や官僚が結託し、非加熱血液製剤の販売を続けさせたことによりエイズが蔓延した事件が過去にあったが(薬害エイズ事件)、覚せい剤に関しても同様の構図が読み取れると指摘する者もいる。

戦時中に大量生産し在庫の処分に困っていた製薬会社を助けるために危険性を承知しながら販売を黙認していたとの説である。ただし、戦後の混乱のために法規制が後手に回ってしまっただけであるとの考え方が一般的である。社会問題化するようになり、簡単に服用可能な錠剤から、比較的抵抗感のある注射するタイプのアンプルに切り替えられたが、皮下注射によりかえって効力を増強しただけであった。

ヒロポンは現在でも、法律で許可された特定の医療機関に対して販売されている。
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