「“ 日本軍が朝鮮女性等に 強制的 ” に売春行為をさせた事実などない事は、今や周知の事実です」という吉田あい杉並区議のブログ上の発言について、http://yoshida-ai.com/index.php?itemid=992
吉田氏が根拠のひとつとしてあげる裁判について、山口地裁下関支部判決の認定事実を引き続き紹介する。なお2審広島高裁判決、ならびに最高裁判決については、1審判決の検証が終わったのちにみていきたい。

 今回紹介するのは、原告河順女(ハ=スンニョ、故人)氏の被害体験である。

 山口地裁下関支部平4年(ワ)349号・同5年(ワ)373号・同6年(ワ)51号事件1998年4月27日判決の事実認定部分より引用。


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2 慰安婦原告らの被害事実

反証はまったくないものの、高齢のためか、慰安婦原告らの陳述書やその本人尋問の結果によっても、同原告らが慰安婦とされた経緯や慰安所の実態等については、なお明瞭かつ詳細な事実の確定が殆ど不
可能な証拠状態にあるため、ここでは、ひとまず証拠の内容を摘記した上、末尾(別紙1=筆者注)においてその証拠価値を吟味し、確実と思われる事実を認定することとする。


(一)原告河順女(ハ=スンニョ)の陳述

(1)原告河順女は、大正七年(一九一八年)、現韓国全羅南道木浦市で生まれた。家は貧しく、藁葺き部屋二つであった。同原告は、一九歳であった昭和一二年(一九三七年)の春ころ、現韓国全羅南道光州市で呉服屋を経営していた社長宅に住み込みの家政婦として働いていたが、買い物のために外出したとき、洋服を着た日本人と韓国式の服を着た朝鮮人の二人の青年から、「金儲けができる。仕事があるからついてこないか。」と声をかけられた。同女は、当時としては婚期に遅れた年齢にあり、金儲けがしたいと思っていた矢先であったので、どんな仕事をするかわからないまま、彼らを信用してついて行くことにした。同女は、朝鮮の港から大阪に連れて行かれ、大阪で一泊した後、再び船に乗せられるなどして、上海に連れて行かれた。

(2)同女は、上海のアメリカ人かフランス人の租界区の近くにある「陸軍部慰安所」と書かれた看板が掲げられている長屋に連れて行かれた。同女を勧誘した日本人の男性が慰安所の主人であった。右長屋は、人が二人やっと寝ることができる程度の広さの、窓ない三〇室位の小部屋に区切られており、同女は、その一部屋を割り当てられた。同女は、右部屋で炊事・洗濯の仕事をさせられるものと思っていた。しかし、右長屋の一部屋を割り当てられた翌日、カーキ色をした陸軍の服を来た日本人の男が部屋に入ってきて、同女を殴って服を脱がせたため、同女は悲鳴を上げて逃げようとしたが、部屋の戸に鍵ががかっており、逃げることができなかった。

(3)同女は、その翌日から、右部屋において、生理のときを除いて毎日朝九時から夜二時くらいまで、軍人との性交渉を強要され続けた。慰安所の主人の妻が軍人から金をもらっていたが、同女は一度も金をもらったことはなかった。同女は、軍人の相手をしたくなかったので、炊事・洗濯などの家事をしていた「チョウさん」という中国人夫婦の手伝いに時々抜け出したり、主人に対して、炊事・洗濯だけの仕事をさせてくれるよう懇願したが、その都度、激しく殴られ、生傷が絶えなかった。同女は、ある日、どうしても耐えられず、慰安所から逃げ出したが、主人に見つかって連れ戻され、炊事場で、主人から、長さ約五〇センチメートルの樫の棍棒で体中を激しく殴られ、最後に頭を殴られ大出血をした。このときの頭の傷が原因で、同女は、現在も、雨降りの際に頭痛がしたり、時々頭が空白になる症状に悩まされている。

(4)終戦後、慰安所の主人も軍人らも、同女だけを慰安所に残したままいなくなった。残された同女は、建物を壊したり放火していた中国人から危害を加えられるのではないかという恐怖の中、チョウさんの奥さんに匿われた後、上海の埠頭まで連れていってもらった。同女は、埠頭で三日間乞食のように野宿をして帰国船を待ち、ようやく帰国船に乗って釜山に帰り着き、故郷に帰ることができた。故郷では、父親は怒りや悲しみのために「火病」で亡くなっており、同女は、生きていた母親には上海に行って軍人の家で炊事などをしたと嘘を告げた。

(5)同女は、釜山挺身隊対策協議会へ被害申告をするまで、従軍慰安婦であったことを隠し通し、本件訴訟提起後に際して初めて実名を公表した。

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 なお、上記事実認定をするうえで根拠とした河順女氏の陳述が、判決には「別紙」として収録されている。あわせて引用する。

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別紙1

第4 元慰安婦原告らの被害事実
一 原告河順女の被害事実

1 原告河順女は、1918年、現在の韓国全羅南道木浦市にて、父甲太郎と母丁梅子の間に生まれた。同原告は、1937年の春、一九歳のころ、現在の韓国全羅南道光州市で呉服屋を経営していた社長宅に住み込みの家政婦として働いていたところ、買い物のため外出したとき、日本人と朝鮮人の男性から「金儲けができる仕事があるのでついてこないか」と誘われた。同原告は、どんな仕事をするのか分からないまま、彼らを信用してついて行くことに決めた。
 
 同原告は、朝鮮の港から貨客船に乗せられ、大阪に連れて行かれ、大阪で一泊した後、船に乗せられるなどして、上海に連れて行かれた。

2 同原告は、上海のアメリカ人かフランス人の租界区の近くにある「陸軍部隊慰安所」と書かれた看板が掲げられている長屋に連れて行かれた。同原告を勧誘した日本人の男性が慰安所の主人(以下、単に「主人」という。)であった。同長屋は、人が二人やっと寝ることができる程度の広さで、窓のない三〇室位の小部屋に区切られており、同原告は、その一部屋を割り当てられた。同原告は、同所で炊事・洗濯の仕事をさせられるものと思っていた。ところが、同長屋の一部屋を割り当てられた翌日、カーキ色をした陸軍の服を着た日本人の男が部屋の中に入って来て、同原告を殴って服を脱がせたため、同原告は悲鳴を上げて逃げようとしたものの、部屋の戸に鍵がかかっており、逃げることができなかった。
 
 その日から、同原告は、同部屋において、生理の時を除いて毎日朝9時から夜2時くらいまで、軍人との性交渉を強要され、もって強姦され続けた。主人の妻が軍人からお金をもらっていたが、同原告は一度もお金をもらったことはなかった。同原告は、軍人の相手をしたくないので、炊事・洗濯などの家事をしていた「チョウさん」という中国人夫婦の手伝いに時々抜け出したり、主人に対して、炊事・洗濯だけの仕事をさせてくれるよう懇願したりしたものの、その度に、激しく殴られ生傷が絶えなかった。ある日、同原告は、どうしても耐えられず、慰安所から逃げ出したが、主人に見つかり連れ戻され、炊事場で、主人から、長さ約50センチメートルの樫の棒で体中を殴られ、最後に頭を殴られて大出血をした。このときの頭の傷が原因で、同原告は、現在も雨降りの際の頭痛と、時々頭が空白になる症状に悩まされている。

3 同原告が主人の暴力により監禁され軍人により強姦され続けた慰安所は、「陸軍部隊慰安所」の看板が掲げられていたこと、軍人相手であったこと及び性病検査と思われる1ケ月に1回の定期検診が軍医によってなされたことに照らせば、旧日本軍が設置し、管理していたものといえる。

4 敗戦後、主人も軍人らも同原告だけを慰安所に残したままいなくなった。残された同原告は、建物を壊したり放火していた中国人から危害を加えられるのではという恐怖の中、チョウさんの奥さんに匿われた後、上海の埠頭まで連れて行ってもらった。同原告は、埠頭で3日間乞食のように野宿して帰国船を待ち、ようやく帰国船に乗って釜山に帰り着き、故郷に帰ることができた。その間、旧日本軍や日本政府関係者から何の手助けもなかった。故郷では、父親は怒りや悲しみのために「火病」で亡くなっており、同原告は、生きていた母親には上海に行って軍人の家で炊事などをしていたと嘘を告げた。

5 同原告は、本件訴訟を提起するきっかけとなった釜山挺身隊対策協議会へ被害申告をするまで、従軍慰安婦であったことを隠し通し、本件訴訟提起に際して初めて実名による被害事実を公にした。
 同原告は、日本政府が従軍慰安婦に対し責任がないと発言してきたことや、本件訴訟提起により実名及び被害事実を公にしている原告らの存在を知りながら、従軍慰安婦は公娼だとの発言に対して、「腹が煮えくり返る思い」を持っている。