「“ 日本軍が朝鮮女性等に 強制的 ” に売春行為をさせた事実などない事は、今や周知の事実です」と吉田あい杉並区議は自身のブログで書いているが、

http://yoshida-ai.com/index.php?itemid=992

 その主張の裏付けとして「慰安婦3人と元挺身隊7名の韓国人女性が公式謝罪と損害賠償を求めた裁判」をあげている。

 1992年から94年にかけて山口地裁下関支部に提訴がなされた裁判のこととみられる。吉田議員によれば、この裁判は「強制連行の証拠が認められないとし、最終的には 慰安婦側が敗訴し」たとのことである。「1998年4月・山口地裁は一部事実を認めるも、広島高裁は一審を棄却、最高裁への上告も棄却。2003年3月に慰安婦側の敗訴確定」と解説している。

 
一審判決が原告一部勝訴、控訴審で逆転敗訴し、上告審で確定したことそのもは事実である。しかし、その判決の結果が「”強制的”に売春行為をさせた事実などない」ことの裏づけになるのか、きわめて疑問である。

 判決にはいったい何がかかれていたのか。どういう事実を認定し、どういう理由で「一部勝訴」「敗訴」という結論を出したのか。以下、何回かにわけて紹介したい。

 初回は一審山口地裁下関支部判決から、裁判所の事実認定部分の総論部分である。なお読みやすくするため、適宜改行や印等を加えた。


釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求、女子勤労挺身隊・従軍慰安婦公式謝罪等請求事件
山口地裁下関支部平4年(ワ)349号・同5年(ワ)373号・同6年(ワ)51号事件
1998年4月27日判決

原告10名(元「慰安婦」3名、元「勤労挺身隊」7名)



主文

一 被告は、原告3名(元「慰安婦」)に対し、各金30万円及びこれに対する平成8年9月1日から支払済みに至るまで年5分の割合による金員を支払え。

二 前項記載の原告らのその余の請求及びその余の原告らの請求を全部棄却する。

三 訴訟費用は、一項記載の原告らと被告との間においては、同原告らについて生じた費用を三分し、その一を同原告らの負担、その二を被告の負担とし、被告について生じた費用は全部被告の負担とし、その余の原告らと被告との間においては、全部同原告らの負担とする。


事実
(中略)

1従軍慰安婦制度の実態

(一)別紙一及び二(略)によれば

・ 昭和7年(1932年)ころから終戦まで、長期に、かつ、広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したこと、

・慰安所は、当時の軍当局の要請により設置されたものであること、

・敗走という混乱した状況下で、慰安婦等の婦女子が現地に置き去りにされる事例があったこと、

・戦地に移送された慰安婦の出身地としては、日本を除けば、朝鮮半島出身者が多かったこと、

・昭和7年(1932年)にいわゆる上海事変が勃発したころ、同地の駐屯部隊のために慰安所が設置されたことが窺われ、そのころから終戦まで各地に慰安所が存在していたこと、

・慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により、あっせん業者らがこれに当たることが多かったが、その場合でも、業者らが甘言を弄し、あるいは、畏怖させるなどの方法で、本人たちの意思に反して募集する場合が数多く、また、官憲等が直接これに加担するなどの場合もみられたこと、

・業者が慰安婦等の婦女子を船舶等で輸送するに際して、旧日本軍が慰安婦を特別に軍属に準じた扱いにするなどして渡航申請に許可を与え、帝国日本政府が身分証明書等の発給を行い、あるいは、慰安婦等の婦女子を軍の船舶や車両によって戦地に運んだ場合もあったこと、

・慰安所の多くは民間業者により経営されていたが、一部地域においては、旧日本軍が直接慰安所を経営していた事例が存在したこと、

・民間業者の経営にかかる場合においても、旧日本軍において、その開設に許可を与え、あるいは、慰安所規定を設けてその利用時間・利用料金や利用に際しての注意事項などを定めるほか、利用者に避妊具使用を義務づけ、あるいは、軍医が定期的に慰安婦の性病等の病気の検査を行うなどの措置を採り、さらには、慰安婦に対して外出の時間や場所を限定するなどしていたところもあったこと、

・利用者の階級等によって異なる利用時間を定めたり、軍医が定期的に慰安婦の性病等の検査をしていた慰安所があったこと

以上の各事実は当事者間に争いがない。


(二)右当事者間に争いがない事実と《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。

(1) 各地における慰安所の開設は、当時の軍当局の要請に基づくものであるが、その開設の目的は、当時、旧日本軍占領地域内において、日本軍人による住民婦女子に対する強姦等の陵辱行為が多発したことから、これによる反日感情が醸成されることを防止する高度の必要性があったこと、性病等の蔓延による兵力低下を防止する必要があったこと、軍の機密保持・スパイ防止の必要があったことなどが挙げられる。

(2)昭和七年(1932年)に上海事変が勃発したときに、上海に派遣された旧日本陸海軍が当地の駐屯部隊のために慰安所を設置したのが確実な資料によって確認される最初の軍慰安所である。帝国日本が中国に対する全面的な戦争を開始した昭和12年(1937年)以後、中国各地に多数の慰安所が設置され、その規模、地域的範囲は戦争の拡大とともに広がりをみせた。

(2) 慰安所が存在したことが確認できる国または地域は、日本、中国、フィリピン、インドネシア、マラヤ(当時)、タイ、ビルマ(当時)、ニューギニア(当時)、香港、マカオ及びインドネシア(当時)である。また、慰安婦の総数を示す資料はなく、また、これを推認させるに足りる資料はないから、慰安婦総数を確定するのは困難であるが、前記のように、長期に、かつ、広範な地域にわたって慰安所が設置されていたことから、数多くの慰安婦が存在したと考えられる。

(3) 慰安婦の出身地として資料により確認できる国または地域は、日本、朝鮮半島、中国、台湾、フィリピン、インドネシア及びオランダである。なお、戦地に移送された慰安婦の出身地としては、日本人を除けば朝鮮半身出身者が多い。

(4)慰安所の多くは、民間業者によって経営されていたが、一部地域においては、旧日本軍が直接慰安所を経営していた事例もあった。民間業者が経営していた場合においても、旧日本軍がその開設に許可を与えたり、慰安所の施設を整備したり、慰安所の利用時間、利用料金や利用に際しての注意事項等を定めた慰安所規定を作成したりするなど、旧日本軍が慰安所の設置や管理に直接関与していた。

(5) 慰安婦の管理については、旧日本軍は、慰安婦や慰安所の衛生管理のために慰安所規定を設けて利用者に避妊具使用を義務づけたり、軍医が定期的に慰安婦の性病等の病気の検査を行う等の措置をとった。慰安婦に対して外出の時間や場所を限定するなどの慰安所規定を設けて管理していたところもあった。慰安婦たちは、戦地においては常時軍の管理下において軍とともに行動させられており、自由もない、痛ましい生活を強いられていた。

(6)慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により斡旋業者らがこれに当たることが多かったが、その場合も戦争の拡大とともに人員の確保の必要性が高まり、そのような状況の下で、業者らが甘言を弄したり、畏怖させる等の方法で本人たちの意思に反して集める事例が多く、さらに、官憲等が直接これに加担する等の事例もあった。

(7)慰安婦の輸送に関しては、業者が慰安婦等の婦女子を船舶等で輸送するに際し、旧日本軍は彼女らを特別に軍属に準じた扱いにするなどしてその渡航申請に許可を与え、また帝国日本政府は身分証明書等の発給を行うなどした。また、軍の船舶や車輛によって戦地に運ばれた事例も少なからずあったほか、敗走という混乱した状況下で現地に置き去りにされた事例もあった。

つづく