漫勉という、NHKの番組がある。
僕の家にテレビは無いが、その番組については、知っている。
浦沢直樹という漫画家が、有名な漫画家を毎回ゲストに迎え、ゲストが漫画を描くそのペン先を、何台ものカメラで捉えたその映像を2人で観ながら、あーでもないこーでもないと。
絵に対する2人の情熱トークが始まるわけで。
僕はそのゲストを知らなければ、浦沢直樹という漫画家のことすら、何も知らない。
周りの人に、こんないい番組があり、浦沢直樹が...なんて話をすると。
ああ、21世紀少年の...。
なんて、返答が返ってくるのだが、
それに僕は何も反応できない。
んーー。知らない。
だって、読んだことも見たことも無いのだもの。
僕が語れるのは、
ビリージョエルやギルバートオサリバンみたいなピアノ弾きや、
イーグルスやトト、といったアーティストくらいであって、
漫画のことは何一つわからないのだ。
しかし、そこではなく、
ひとつの作品を作り上げるその過程を観るのは、音楽に限らず、興味がある。
昔から、
鍛治職人がひとつの刀を作り上げるその工程なんかには、テレビの画面をじっと観続けるほどに、その映像に夢中になってしまう。
時計職人が机を齧り、頭を固定させながら、ルーペからの情報だけをたよりに、複雑で精巧ながらも、無駄など一切ない、ひとつの時計を作り上げるその姿は忘れることができない。
机からしてみれば、いい迷惑だっただろうか。。。
いや、そんなことは絶対にない。
言葉は喋らないものの、じっと耐え抜くことでその職人を長年にわたり支え続けてきたし、これからも、その道を選択するのだろう。
そして、その職人が死んだ時、
その机がこの世界において、不恰好でもはや、何の意味もなさなくなった時、
それをその職人のこどもや孫は生活のスペースを確保するだけのために、あっけなく粗大ゴミにしてしまう。
そんなことがあるのだろうか。
僕はそんなことはあってはならないと思うし、きっと、その子もそう想っているに違いない。
2つのペンを使い分けるゲストに、
その使い分けの、ある一定のルールが見当たらないと、浦沢直樹は言う。
ゲストは言う。
ルールなどない。
なんだか上手く描けないと感じた時、ペンを変えるのだと。
素人からすれば、気分を変えるためにペンを変えているのかと、勝手な推測をしてしまうものだが、
きっとそれだけじゃなく、もっと深い意味合いがそこにはあるのだろう。
残念ながら放送の中では、その深い意味合いまで紹介されることはなかったが、
きっともっとあるはずだと、思案することが至福の時だったりする。
結局何が言いたいかというと、やはり、ひとつの作品には考え抜かれた思考による行動の賜物であることは間違いないが、
そこには必ず偶発的な何かが加わり完成しているもの。
作り手はいつもその完成した作品を明確にはイメージできず、
だからこそ、出来上がったそれを目の前に、作り手自身も感動していたりするのだ。
僕で言えば、
それは作曲かもしれないし、
ひとつひとつのライブかもしれない。
僕が3月にバーテイクでやったライブは、
個人的には3/14が一番良かったかなと。
そして、バーテイクでの僕の音を聴いてくれという、ブログを読み、
路上ライブでのお客さんが足を運んで来てくれたことが本当に嬉しかった。
路上ライブでは表現できない音がそこにはあったはずだし、その音を聴いて欲しかったから。
僕はもーすぐ仙台を離れ、新しい環境で自分の音楽と向き合っていく。
また逢う日まで。
sugarboy
photo by 高橋聡