どうして私は春夫と別れたのだろう。
自分は公務員だから、夫に殆ど収入がないというのは構わない。

Writer’s Block.
文学の世界で、ある新人賞を受賞後、2作目が酷評された。それ以降、出版社の依頼も減って、大学生の頃から所属していた同人誌への発表だけが春夫の創作が人の眼に触れる場であった。
出版社が無料で書店なでに配布しているPR誌の編集部に頼み込んで掲載してもらう、それすら原稿を返されることも多かった。

春夫は、荒れた。酔って帰宅することもしばしば。
――飲んでくるのはいいわ。でも私のお金で飲むなんて。
――どうせ俺はヒモの、甲斐性なしの、文士くずれだよ!

いつしか1対1の会話は無くなった。何か話すとしたら、猫を通してだけ。
――スージーのご飯は?
――スージーは寝たのか?
――そろそろワクチン接種に行かなくていいのか?

ある日、公立の図書館の司書である佐藤龍彦という青年に研修で話す機会があった。
――大学図書館ですか。経済の専門書、時々利用者の希望図書でそちらにお願いしていますね。
――うちの学生は授業や卒論以外では本なんて読まないの。
急速に親しくなった。春夫のことを相談するうちに、龍彦の優しさが自分への労わりと愛情に変わっていくことを百合子は感じた。
百合子もそれに応えた。

――話があるの。ごめんなさい、別れて欲しいの。好きな人ができたの。
慰謝料は、いらない。ううん、私が払ったっていいくらい。
――何だって。君は何を言っているんだ?

春夫は手を振り上げた。
百合子は目を閉じて夫の平手打ちを頬に感じるのを、待った。

何も、触れてこない。おずおずと目を開けた。
春夫は手をおろして、目を伏せている。
面長の顔に大きな目。鼻筋は通って、端正な顔立ちだが、その薄い唇がやや冷たい印象がある…と、かつて彼を争った大学の文学同好会の女の子が言っていたことを百合子は思い出した。
――何よ、殴らないの…
――浮気した女房をぶん殴る甲斐性もないよ、俺には。

うなーん。あんあん。
猫が春夫の足元に纏わりついてきた。尻尾を立てて、春夫の顔を見上げている。
――スー、ママはね、もう俺たち、ダメだって言ってるよ…売れない物書きに見切りをつけた、ってさ。
――そんな。貴方は才能あるわ。今は不遇でも、いつか…
――気休めはよせよ。

「白いの。猫捨ての山って聞いたことあるか」
ある日トラの兄いが俺に聞いた。
「猫捨て…何です、兄い」
「俺たちネコがな、もういよいよマズイって時に眠る場所に、最後の力を振り絞って登っていくんだと」
「なんだかぞっとしない話だな。何でそんな話するんです、トラの」
「白いの。俺がいなくなったら、探すなよ。俺は行くんだ、そこへ」
「トラの。尾長のクロのことなら、気にするんじゃない。あんな奴、目じゃないでしょう」
「クロのことは関係ねえ。俺の眠る場所は俺が決めるんだ。ただ、お前にだけは話しておきたかったんだ」

隻眼のトラは開いたほうの右目をしぱしぱさせて、空を見上げた。
烏が二匹、飛んでいる。
さっきニンゲンに貰った皿の残りに何も残っていないに飽き足りず、電線の上に留まって食い物がやってくる機会を狙っている。

シンジンがいなくなった。
奴のひょろ長い影が伸びて、そこで俺は昼寝としゃれこんだものだのに。

俺は腹が空いて仕方がなかった。シンジンのくれるおこぼれを当てにしていたから。
別のニンゲンがやってきた。シンジンと同じくらいの年恰好の奴と爺より少し若いのと。
そいつらは爺や他の連中とは違う布にくるまっていた。
鼠色の、連中が着ているものよりはモノがいいようだが、そんなに洒落たものでもない。
若いのは首に何か細いものを巻いていて、年寄りのほうはそれをつけておらず、汗だくのシャッツの襟を開けていた。

「シンジンの…岸川の居所だって。俺らが知るわけないですよ、旦那。ふらっといなくなっちまったんで」
シンジンは岸川というらしい。爺の言い方では奴はもう戻らないらしい。


「猫捨てには何がある?」
「なにも。何もないさ」
「何も?」
「なんにも、さ。あるのは風だけ」
「風が吹いているだけ?」
「あったって仕方ないだろう」
「そんなもんか」
「そんなもんさ」
「嫌だな。そんな所で眠るのは」
「なんでだ。どうせ眠るんだから」
「虎の、が眠るとして…兄いがあったこと、みんな無くなっちまう」
「そうだよ。みんな忘れられてしまう」
「嫌だ」
「どうして」
「皆が忘れても俺は覚えているよ」
「…白いの。いいよ、そんなの」

ゼンモンドウのようなやり取りをした時、何だか虎の影が馬鹿に薄かった。

 

雨が降る。一日が長い。
いつもの集会にニンゲンが来る時間。なにか億劫だが、一日行かないと次までが長い。隻眼のトラが来なくなった。
尾長のクロにやられてからひどく憔悴していた。
クロは俺を気にしているという。トラの兄いが次の跡目は俺だと予てから公言したからだ。
俺は面倒な事は嫌いだ。

ががが。ぐぃーんぐぃーん。ずどどど。

俺達にはニンゲンに聞こえない音がきこえるようだ。

彼女が「あら、白どうしたの。そっちに何かあるの。急に振り返るから」と言った時に気がついた。

 音のする方に行ってみる。

随分歩いた気がする。

大きな動く物が近くに寄ってきた。

煮しめたようなキモノを着たニンゲンが乗っている。

「おおい、危ないぞお」

立っていた別の年嵩のニンゲンが俺に気がついた。

「新人、メシの時間だ」

さっき大きな乗り物にいた若いほうが降りてきた。

「おお、お前昨日も来てたな」と言って白い箱を開けて蓋に魚と練り物を少しのせてくれた。

俺は彼の足元の周りをぐるぐる廻った。

「分かった、分かった、いいから食べな」

するとさっきの爺さんが彼に「馬鹿か、お前。たんぱく質はちゃんと取れ」と怒鳴った。
俺は爺のほうを見上げたが、奴も牛乳を若いほうが置いた白い蓋の上に牛乳を流し込んだ。

若者は爺の方をじっと見て「へへ」と笑った。

「何が可笑しい」

「いや…コイツ太ってるなあ、って思って」

「ふん」

彼らの傍にある自転車とバイクに陽射しが反射している。

 1年前。この時期には小さな蟹が川に向かって移動していた。

「昼からも暑いぞ」と爺が言う。

去年は緑や土の道が残っていたが、同じ場所は灰色の土で埋められた。

新しい木や鉄の匂いがする建物が次々と建っている。

 「工事始めた頃より暑いよな…こいつも」
爺が俺の頭を触ろうとしたので一瞬避けようとしたが、すぐに諦めて手を引っ込めたので何だか俺は申し訳ない気持ちになり、自分のほうから近づいた。
そんな俺と爺を「シンジン」が目を細めて見ていた。

「田んぼや畑だったんだもんな…コイツも誰よりも暑いって思ってるさ、こうコンクリで埋められたんじゃあ」俺は爺の座った新聞紙の上まで近づいた。
爺は俺の尻尾の付け根を触ったが、今度は逃げなかった。
「でもなあ。お陰で俺達も仕事があるんだ…」
シンジンは爺を黙って見ている。

ぁん、ぁん。
「何だあ、お前、初めて声聞いたぞ」
俺は「蟹もいないんだよ、爺さん」と言いたいのだが奴等には鳴き声にしか聴こえないらしい。
シンジンの目に蟹も土も葉も映っていない。
あるのはただ、固まる前の柔らかい灰色の泥だけだ。

俺は知っている。乾く前のあの泥が滑らかに塗り固められ、その上にウッカリ乗ったクロの子分が足を取られていたのを。
「キジちゃん、あらまあ…」
彼女がそっと奴の足を雑巾で拭ってやった。クロがまだトラの兄いに挑戦権を得ていない頃だ。