先日、64(ロクヨン)という映画を観てきました。

人という生き物が、一人一人想いをもって自分の身に降りかかった事実を受け止め生きていく。

昭和64年。たった一週間しか無かった間で起きた誘拐事件で、自分の引き起こした過ちから、時効間際まで未来を見いだせずに闇の中でもがき苦しむ人。
娘が誘拐に遭い、警察からは隠蔽という形で裏切られ、犯人逮捕に繋がる真実を追い求め、強い執念で犯人や組織への復習を図ろうとする人。
組織人として永久申送り時効を実現出来ずに定年を迎えようとしている人。
娘から否定され続けながらも必死に職務を全うしようとする人。
沢山の個の想いが詰まったこの映画を観て、改めて感じた事。

何故、人は組織に属すると「真実」を握りつぶそうとするのか。
私はそれを問い掛けたかった。

一つボタンを掛け違える。
掛け違えたボタンを取り繕うようにまた違うボタンを掛ける。

真実はいつも明るみに出たいと思うもの。そして、その真実を始めから正面から受け止めて生きて行くことの勇気。
そうしなければ、歯車はどんどんと大きな歪みを生んで、取り返しのつかない方向へと転がり込んで行くのではないでしょうか。

そんな私は真当に生きているのか、と言われると疑わしいのですが…
それでも、今日は伝えたい出来事がありました。

午前中は株主総会で我が社のビル1階では人事がものものしく案内版を掲げており、社員は普段正面入口から入館していますが、「本日は通用口を利用するように」と通達されていました。
私はお昼前までは引継ぎ中の仕事を自分なりに「ヨチヨチ」と前へ進めてランチを摂り、午後の眠気に負けそうになっていました。その時、

ある一通のメールが表示されました。

「グループセッション」

これは我が社のグループ全体に向けて発信している共通の掲示板で、業務に関する連絡、他のグループ会社の人事異動も含めた事項等が発信され、そして閲覧出来ます。
タイトルを開くと、そこには「お悔み」の案内がありました。

ご家族の誰が亡くなったのだろう、とファイルを展開したところ、一人の男性の名前がありました。
その彼の親でも、彼の家族でもなく、本人の名前が。

そして、旅立った日の記載がない。

私は課長を無言で手招きして呼び(課長はほとんどグループセッションを開かない人だったので)そこに表示されている事実に対してどのような反応を示すのかを観察し、それ程驚かなかったのを観て「何かご存知でしたか」と聞いてみました。

「そうか、そうだったか。信じられないな。ようやく日が差して来た矢先だっただけに。最近来て無かったんだよ。」そう言いながら、課長は自分の手を胸に何度か押し当てながら話しました。
それは、亡くなった彼が「心の病」を抱えていたのだということを差していると直ぐに解りました。

遡る事、5年程前。

まだオフィスは茅場町にあり、私の職場のビルと彼のビルが道を挟んだ隣りにあった頃。月末に大量に出力される取残を、顧客単位でカットする機械を借りに、彼の所属するフロアに毎月お邪魔していました。

彼はとても気さくで感じの良い話し方をして、道や建物内で会えば、笑顔で挨拶をしてくれる人でした。

彼に何があったのかはわかりません。
けれども同じ時間を同じ建物で過ごした人が「自らの命を絶つ選択」をした事。
この事実は受け止めなくてはなりません。
また自分の無力さを思い知らされる瞬間であります。

中途半端に心の窓の学び舎を卒業して、カウンセリングという重圧には耐えられないと逃げ出した私が、微塵にも「人助けが出来たのかも」などと思ってはいけないのだと思わされるのです。
一人でも多くの人に知って欲しい事がありますので、ここに簡単ではありますが記したいと思います。

人とは自分という人間を知らなすぎます。
自分を知ろうと思う行為。他人を知ろうと思う行為。科学的にもスピリチュアル的にも… 
それがカウンセリングです。
駄目な自分、理想に程遠い自分。その自分を認め、受け入れられた人だけが自然に生きられるのです。
不甲斐ない自分に上辺だけ仮面を着けて取り繕ったり、理想を追い求め過ぎたり、現実や自分自身を認められないと歪みが出てきます。それは、態度であったり、表情であったり、会話であったり。

ある程度の負荷は必要かもしれません。でも、無理をしてはならないのです。

また、人の悪い所ばかりに目が行ったり、他人を妬んだり、羨ましがったり、人と比べる事でしか自分を見いだせない人や、何故いつも自分は駄目なのだろうと内に向って自分を問い詰めたり。
人は誰でも欠点があるのです。完璧な人などいないのです。だから今日よりも明日、明日よりも明後日、一つでも新しい出来事や経験の中で、ふと幸せと思える瞬間にフォーカスする事で、喜びを感じるのです。

彼には家族も子供も居ました。両親もご健在でした。

どうか、自分だけは他人を悲しませるような人生の幕引きを選択しないと誓って頂きたい。病気になってからでは手遅れな場合も多いと伺います。それくらい、心が悲鳴を上げている時は、人に頼ってでも、縋ってでも、覆いかぶさってでも、辛い時に素直に「助けて下さい」と手をあげて欲しいのです。辛いのは自分だけでは無い。そう思えるだけで、「心」というものは軽くなるのですから。

生かされている自分の命を親よりも早く投げ捨てたりしないで欲しかった。
これから育つ子供に「自分の父は自ら命を絶った」と言う事実を背負わせないで欲しかった。

人様の為に生きようと思えれば、ものの見方、捉え方を少しでも変えていれば、彼はこの世を去る必要など無かった筈だから。

もう、彼の笑顔を見ることは出来なくなりました。
心より、お悔み申し上げます。