被告人Kが実行したとされるいわゆる「PC遠隔操作事件」が明らかにしたのは、改めて、世間の耳目を集める事件においては、刑事弁護人の存在は重大な役割を担っているということでした。

刑事被告人は、世界対自己という立場に置かれます。アメリカの刑事訴訟ではよく、事件名を”Miranda vs. People of Arizona”(ミランダ 対 アリゾナの人民)のように表記することがありますが、これは「被告人一人 対 すべての国民」が刑事訴訟の本質であることを象徴的に示しています。

「すべての国民」というのはあながち比喩ではありません。マスコミによる刑事事件の報道が苛烈さを増す中で、国民すべてが象徴的な「裁判体」となっているのが現代の刑事裁判です。もちろん事件の注目度にもよりますが、PC遠隔操作事件ほどの規模で報道が展開された事件では、とくにその色が強くなります。起訴状を読み上げる検察官の背後に無言の大衆の姿が見えそうなくらいです。

そんな中で被告人の唯一のサポート役となれるのが刑事弁護人です。刑事弁護人は、弁護士であれば誰でも務めることができますが、PC遠隔操作事件のような難事件では、とりわけ刑事事件の経験が豊富で、証拠を分析し主張を構築する能力にすぐれ、そして何より、強い使命感を持った刑事弁護人が必要とされます。今回、主任弁護人を務めた佐藤弁護士は、周知の通り「足利事件」で逆転無罪を勝ち取った事で有名で、日本を代表する刑事弁護人の一人です。

他に代表的な刑事弁護人というと、厚労省局長事件の弘中弁護士、東電OL殺人事件の神山弁護士など、いずれも著名事件で無罪を勝ち取った人の名前が挙がるでしょうか。しかし、オウム事件で麻原彰晃の主任弁護人を務めた安田弁護士のように、エネミー・オブ・ザ・ステイトとでもいうべき人物の弁護を敢えて引き受ける弁護士も、刑事弁護の精神を体現していると思います。

しかし、現代では刑事弁護人の仕事は、ますます難しくなっていると感じます。安田弁護士の仕事が顕著でしたが、「なぜ、犯罪者の味方をするのか」という評価は常について回ります。

もちろん、直接の理由は、上に書いたように「被告人一人対人民すべて」という状況の中で、孤立無援の被告人の言い分を十分に伝えるために、刑事弁護人の存在が制度的に必要とされているからです。それが刑事弁護人が存在する理由ですから、それ以上何の説明もせず、刑事裁判の中で自己の職責に黙々と専念する人もいます。オウム事件での安田弁護士もそんなタイプだったように感じます。

一方で、刑事裁判にとどまらず、マスコミまで含めた「人民裁判」状況の中で、パブリックイメージまで含めた被告人の権利を十分に守っていこうとする立場もあると思います。厚労省局長事件では、弁護人サイドは、単に訴訟戦略に汲々とするのみならず「M局長が無実の人であるというイメージ」を強く打ち出していくことに意識的であったと思います。

私は、このような、刑事弁護人が被告人のパブリックイメージを守るための活動は極めて重要であると考えています。なぜならば刑事弁護の究極の目的は、被告人の(私はこの言葉は曖昧すぎて好きではありませんが)”人権”を守ることにあるからです。”人権”とは平たく言えば「多数者の力に少数者が押し潰されないためのギリギリの防衛線」のことです。マスコミとウェブ言論の力で象徴的な次元で繋がった「人民による裁判体」が黒々と立ち現れる刑事事件では、被告人のパブリックイメージを守る役割は無視できません。

PC遠隔操作事件で佐藤弁護士が演じた役割は特異なものでした。この事件ではまずもって「訴訟が始まってから被告人が否認から自白に転じる」という異例の経過を辿りました。その展開は弁護人も予期しないものでした(検察側はもしかしたら予期していたのかもしれませんが、分かりません)。マスコミ的な観点から見れば弁護人も「被告人に騙されていた人」として一種の被害者になってしまいました。

にも関わらず佐藤弁護士は、裏切られたという否定的な感情はなく、それは弁護を続けていればよく起こることだから、と、淡々と彼を”許し”ました(許すも何も、弁護戦略の練り直しで頭が一杯だったと思いますが)。なお、刑事被告人が小さな嘘をつくことはそれこそ日常茶飯事ですから、「よく起こること」というのはその通りだと思います。

私が興味深いと思うのは、否認から自白へというこの経過の中でも、被告人Kのパブリックイメージがそれほど悪化したとは感じられないことです。むしろ象徴的な人民裁判体が、一転して「許しの劇場」へと場面転換したかのように見えます。

それは例えば被告人Kの「革ベルトで首つり自殺を試みて失敗した」「缶チューハイを飲んで高尾山を彷徨っていた」「母親に電話して、何があってもお前の味方だと言われた」といったエピソードに象徴されるように、あたかも聖書の「放蕩息子の帰還」のように 、彼が自らの幼児性を認めて人民のもとに帰ってくるストーリーを演じてみせたからではないでしょうか。

皆は被告人Kを「バカな奴だ」と貶めることはできます。しかし「許しの劇場」では「バカ」は「悪」ではないのです。(死人が出ているような事件だと事情は異なりますが、本件で最も迷惑を被ったのは「誤認逮捕」された人々であるとはいえ、死傷者はいません。) 

被告人Kも、佐藤弁護士も予期しないことだったとは思いますが、およそ不思議なくらい「逃亡→出頭」という本件の展開を経ても、被告人Kは「悪者」にはなりませんでした。それは彼がまだ若いことと、一連の支離滅裂な行動が彼の人格的な未成熟性を如実に表していることも影響していると思います。要するに、若くて未熟な放蕩息子を皆で許すという方向に「皆が消費したいストーリー」が切り替わったのです。

話は変わりますが、その点では、著名音楽家Aによる覚せい剤取締法違反被疑事件の今後の展開には注目しています。事件自体は、こういっては何ですが、典型的な薬物事犯にすぎません。警察のリークを信じるとすれば被疑者Aは自白に転じたようですし、訴訟自体はおそらく1~2回で結審するものになるでしょう。

私はむしろ、弁護側がこの事件を通じて被疑者Aのパブリックイメージ(それこそ著名人ですから、経済的価値を伴ったパブリックイメージです)をどこまで守り切れるかに関心を持っています。現時点では、どうやら、共犯者の女性を含めてマスコミ的にはボコボコのようです。初動はそんなもんでしょう(某女性歌手の薬物事件でもそうだったと思います)。公判開始の時点でどうなっているかに注目です。