ST-LOW通信
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あの頃の僕は早く那覇でLIVEがしたかった。


この島の最前線と思えるパーティーでラップしてるラッパーやオーガナイザーやDJや諸先輩方に僕のラップを聴かせたかったしLIVEを見て欲しかった


だからとにかくいつかきっと来るであろうその日の為にとにかく山田くんと曲を作った


たっちゃんにトラックをお願いしたかったけど

まずは自分達がいままでやってるやり方でLIVEに呼ばれるようにならなければダメだっていう同級生なりの意地みたいのが僕らの中にあって


DEEさんにアドバイスしてもらって選んで購入したり、手に入らなくてお借りしたレコードのインストで歌うのはもちろんだが

MTRとリズムマシンとシンセで作ったオリジナルトラックで曲を作り続けた







あるとき


働いていたショップに背の高いほりのふかいハーフっぽいヤンキーが買い物をしに来た


どこからどう見てもヤンキーだった


さらにそんじゃそこらのヤンキーじゃ無いオーラを放つ生粋のヤンキーだった


体格も大きめだしこいつはかなりヤバめなヤンキーだ!って瞬時に理解できるレベルのハンパないヤンキーだった


「にーにー(兄ちゃん)、今度クラブに行くから良い感じの洋服を全身コーディネートして!!」


って言い放ってメンチきって仁王立ちしてらっしゃるから僕のバイヤー兼ショップスタッフ心に火が付いた


僕は買い付けてきたばっかりの新作のインポートウェアを何点かチョイスしてヤンキーにオススメした


「じゃこれ買おうね!ありがとう!」


全身コーディネートまとめ買いして去って行った


見ためも態度もかなりヤンキーだけど清々しいヤンキーっぷりだなぁって僕は強く思った






そんなこんななある日


free-kプロダクションにいた東京出身のまったく野菜は食べず肉しか食べなくて常に適当でどーしよーもなくバカで女好きでだらしないけどなんとなく良い人なDJのシュウさんの紹介で知り合った

イルトライマーっていうグループでラップしていた低音ボイスにスキルフルなラップをしてるカイラスさんって先輩のラッパーからLIVEの出演を誘ってもらった




カイラスさんと同い年のDJ KENTAさんが主催するパーティーとの事だった


場所は那覇に当時あったピンクサロンってわりと小箱の箱で名前の通りわりとピンクな感じのなんだかオシャレな箱だった


若手のラッパーやダンサーやシンガーも何組か出演するって事でなにより那覇だし僕はここぞとばかりに気合いいれてLIVEしようとはりきった


パーティーの当日


リハーサルよりちょい早めに到着した僕にカイラスさんがその日主催のKENTAさんを紹介してくれた


とにかくデッカくて小さなポーチバッグを持っていてとにかく見た目は怖かった


KENTAです。よろしくね!」


見た目はとにかく怖いけど、だけど話すととてもあたたかい人でDJだけど地元沖縄の若手なラッパーも一緒に盛り上げて行けるようなパーティーをして行きたいって話をしてくれた

なんだかすごい頼りになるDJのお兄さんのようなそんな感じがした




そしてカイラスさんは


「新しく後輩とグループを組んだんだよ、相方を紹介するね」


って次に相方を紹介してくれた


「どうも、はじめまして」


やたら礼儀正しい背の高いほりのふかいハーフっぽい青年を紹介してくれた


僕はこの青年にも着ている最新のイケてるインポートウェアにも見覚えがあった


DASTAMASでラップしてますローメルです」


そんじゃそこらのヤンキーじゃ無いオーラを消してはいるがこいつがそんじゃそこらのヤンキーじゃ無いすさまじいオーラを持っているめっちゃ実はヤンキーである事は僕は知っていたから


こいつどんなラップするのかな?そう思った


カイラスさんは中国に留学経験があって中国語も話せたのでローメルとの2MC

日本語、中国語、スペイン語でラップする多国籍でイケイケなスタイルの


DASTAMASLIVEはすごく新しくてカッコよかった



僕も気合いをいれて日頃山田くんと作り貯めてきたオリジナルトラックではりきってLIVEをした




それからローメルはLIVEで着る洋服を僕に全任せでよく買いに来てくれるようになったり

同じパーティーで会う機会が増えたりしてあちこち遊ぶようになり仲良くなった



そしてさらにピンクサロンでのLIVE以降


DJ KENTAさんから主催されてるパーティーにLIVEで誘っていただけるようになって



僕は徐々にLIVEの数が増えていった





2003-2004




DASTAMAS / 言語CHAMPLOO




DASTAMAS / RYUKYUTON



当時 僕の働いていた沖縄市ゲート通りにあるショップの系列のショップで”ST-LOW”の名付け親DJ DEE師匠は店長をしてて



僕の働いていたショップにはわりと若いラッパーとかDJとかヘッズとかがタムロってたんだけど


DEEさんがいたショップには先輩のDJだったりダンサーだったりCLUBの店員さんだったりなんだかセクシーなおねーさんだったりなまさにHIPHOP関係者がよくDEEさんを訪ねてきたり買い物しにきていたので


そんなタイミングをねらって


僕がLIVEで使いたい曲のインストが収録されてるレコードをDEEさんにおかりしつつなんならあわよくばCD-Rにもやいてもらいたいことをお願いする理由ついでに倉庫から商品をわたしにいったりして


いろんなHIPHOPな先輩とかを紹介してもらった


DEEさんのお客さんのなんだかセクシーなおねーさんとかは「あら大ちゃーん」なんて感じでいつもお菓子をくれたので


お菓子を食べながらCLUBであった出来事やHIPHOPな話を聞いたりしては


週末になると教えてもらったり誘ってもらったりしたイベントとかにあれこれついて行っては先輩方が作ってきた作っている沖縄の”HIPHOP”シーンを少しずつ知っていった






当時の僕から見て当時の沖縄の”ラップ”シーンは大まかに分けると”南部” ”中部” ”北部”3つのエリアに分かれていた




まず那覇や糸満の南部エリアには


糸満いわゆるITCといわれる地区をレペゼンする、KZを有するGAC、そしてMACKDADDY

那覇には核弾頭やその直径にD.D.S.L3W098のメンバーや

ダークでリリカルなスタイルのSHINEさん

なんだかアンダーグラウンドで正体不明だけどめちゃくちゃヤバい曲となんでもめちゃくちゃヤバいフリースタイルするらしいエイジアティックアイズや

DJ Hinga HigaさんMUを有するフリークプロダクションやら


CLUB SLUMのパーティーやフライヤーでよく見ていた当時の沖縄のHIPHOPの顔とも言える面子がいた


糸満というコミュニティーで培った地域愛に溢れたGACを中心とした大所帯な集団や

アーバンで洗練されたラップだけじゃなく黒くカルチャーを含め県内あちこちで活動するHIPHOP極まりないクオリティの高い表現者が暗躍する那覇


当時の僕の目にはあまり絡みは無いにしても

南部エリアはなんだかまとまっていて沖縄のHIPHOPカルチャーを動かしている中心だったように見えた、そんな気がした



そして僕のいた中部エリアは


大御所のSOUL CAMP、その下にイケイケの一丁目団、カークラブや西海岸のスタイルな言霊マフィア、

僕や諸々ソロのラッパーやタイムリースタイル、SENTER JAM REDIO、琉球残留孤児や若いラッパーやCREWがいろいろいたが


中部エリア、中心としては沖縄市、具志川あたりだが

今も昔もだが、なんせあまりまとまりが無い土地柄なので


其々我が強いのか、当時はみんなでまとまって地域のラップシーンを盛り上げていこうって雰囲気では無かった気がする


でも其々がなにかしらいつかはって考えていたんだろうとは思う


でも当時は地域てきな仲間意識とかより細かいCREW事でのライバル心だったり利害関係だったりでまとまって何かをしたりな場面は無かった


つまり全体的にハーコーだけど、ハーコーだからこそ不器用なエリアだった




そして北部エリアはつまりは名護なんだけど


当時は知る限りそこまでラッパーの情報が無くて

なにやらOBZA(オブザ)ってCREWがいるって情報は琉球残留孤児のMI-2から聞いていたくらいだった



やはり当時の僕はイベントだったりSLUMがイベントかなんかで配布していたコンピレーションCDだったりを聴いて、那覇のシーンというが南部のシーンがより洗練されているように見えた


はやくどうにかして那覇でLIVEがしたかった


もちろんそれは地元が嫌ってわけじゃなくて

沖縄のシーンの最前線でやってるであろうラッパー達、人達に僕のラップを聴かせたかったからだった


手探りなり若いなりに僕がこの場所で僕なりに磨き選んできたつもりのラップスタイルがはたしてこの島の最前線のHIPHOPシーンに通用するのか試したかった




当時DEEさんは那覇国際通りにあったCLUB M-SIZE”でレギュラーでDJしていたので僕はちょくちょく遊びに行った


あるとき

free-kプロダクションにいた東京出身のまったく野菜は食べず肉しか食べなくて常に適当でどーしよーもなくバカで女好きでだらしないけどなんとなく良い人なDJのシュウさんと一緒にM-SIZEに遊びに行った



そのときにDEEさんがPLAYしている隣でやたら英語の発音がめちゃくちゃガチ英語の発音なめっちゃハスキー声のカッコイイ声したやつがサイドMCをしていて


外人なのかと思ったらたまに日本語も喋っているし、なんて見ていたら


シュウさんがあとから紹介したい奴がいるんだって言ってきた




DEEさんのPLAYが終わりしばらくして明日も仕事だしそろそろ帰ろうかなって感じでエレベーターで下に降りたら


シュウさんが女の子にあいかわらずバカみたいに話しかけていて、僕を見つけるなり


「さっき言った奴を大ちゃんに紹介したいんだ」って言った




そいつはなんかチリチリのアフロみたいな髪型になんだかカッコいいヘッドフォンをつけてガードレールに座って身体を揺らしながらハスキー声の英語でぶつぶつラップしていた


ヘッドフォンを外しガードレール越しに煌々と光る夜でも明るい那覇国際通りの灯りを背にし


いたってクールにガードレールに座ったまま


「ハジメマシテ、ダブル ディグィット スクワットのリョースケっす」



D.D.S.は右手を出し僕にそう言った





2002-2003年〜


黒縁眼鏡にスケッチブックを持った無愛想な中学3年の少年がショップに遊びに来るようになった


学校が終わったらトコトコやってきて


試着室に置いてあった小さな折りたたみイスを勝手にカウンター隅に持ってきて

スケッチブックを開きグラフィティーみたいなタギングみたいな落書きを描きだす


日本語ラップ、とくにライムスターが好きらしくブツブツとラップを口ずさみながらスケッチブックに落書きをしている


中学生にしてはなかなか上手だったので、グラフィティー好きな僕はやたら遊びに来るこのなんだか不思議な少年と仲良くなった



遊びに来た際は閉店までずーっといるので、帰りうちまで送ってあげたりごはんを食べさせてあげたりした



そんなこんなしてたら


いつのまにか高校に進学してそのうちHIPHOPな友達とか連れて遊びに来るようになった

いつのまにか黒縁眼鏡はかけなくなっていた


そしていつのまにか仲間達と”タイムリースタイル”って大所帯のグループを作りラッパーになった






当時 MUDJ Hinga-Higaさん、フィメールラッパーのC響、シンガーのDEWYさん、高校生だったAwichが所属していた沖縄のレーベル

FreeeKプロダクションにいた東京出身のまったく野菜は食べず肉しか食べなくて常に適当でどーしよーもなくバカでさらに女好きでだらしないけどなんとなく人の良いDJのシュウさんって方がいて


たっちゃんに紹介されて知り合い、買い物とかしに来てくれるようになりイベントとか遊びに行ったりして仲良くさせてもらえるようになり


あるとき沖縄市の中の街っていう飲屋街にあるシュウさんの知り合いの小さなBARでイベントをするって事でLIVEに誘ってもらった

僕はタイムリースタイルも誘った


たぶんそれがタイムリースタイルの初LIVEだったんだけど5MCの大所帯なので初にしてなかなか迫力あるLIVEだった


そのパーティーはたっちゃん、イルトライマー、僕、タイムリースタイル、言霊マフィアとかがLIVEした




言霊マフィアのメンバーの中に以前バンドをしていた方がいて高校生のときにそのバンドのLIVEを見たことがあったりそのCREW1人に中学の同級生がいたりしたから一方的に知ってはいたのだけど


なんせ言霊マフィアは見た目も雰囲気も怖かったので何度かLIVEを見てカッコよかったから話しかけたかったけど機会がなくその日はじめて同級生を介して知り合いになった




その頃 徐々にウエストコーストのHIPHOPが流行りだしていた


それにともない働いていたショップではウエストコースト寄りのオリジナルウェアを制作販売することになり

僕もTシャツのデザインを幾つかやらせていただいたりして


その日のパーティーで宣伝もかねて社長が段ボールいっぱいのオリジナルウェアのTシャツやアイテムを提供してくれたのでタイムリースタイルに着てもらったりLIVE時にフロアに投げたりした







やがて


タイムリースタイルは沖縄市LIVE HOUSE

7th HEVEN”をメインにガンガンパーティーを打つようになった


毎回10代の学生を中心に300400人以上の集客を集めた


僕や琉球残留孤児もLIVEで呼んでもらったりして

ショップはスポンサーとしてオリジナルウェアを段ボールいっぱいに提供し


タイムリースタイルはステージからパンパンのフロアに向かいTシャツを投げまくり宣伝してくれた



おかげさまで

やつらのパーティーの翌日はショップ開店から終わりまで前日のお客さんやその友達でごった返し

在庫をとりにショップと倉庫の行き来だけで1日が終わるくらいオリジナルウェアが売れまくった


僕の給料はガツンと上がった




やがて沖縄市には


10代の若い世代を中心としたHIPHOPのパーティーが増え始めた


うまくいってるパーティー

うまくいかないパーティー


混沌としたシーンの中でいろんな意味でカルチャーとしてのHIPHOPが場合によっては金になり


パーティーは増えたが

華やかな部分とそうじゃない部分の境目を分けていった



米軍基地が隣にあるアメリカナイズされた環境があったからか


まるでアメリカのHIPHOPの縮図を追いかけるように


この街のHIPHOPは突き進んでいった




かつての黒縁眼鏡の少年はタイムリースタイルとは別に

CREWの仲間のDJ DEB-LOW


CENTER JAM REDIO


というHIPHOPのレゲェでいえばサウンドシステムてきなグループでも活動するようになった



あいかわらず無愛想にショップ前のベンチでブツブツとフリースタイルしている少年は


そういや、いつかスケッチブックに描きまくっていた落書きやタギングの文字のスペル通り



RICK-C”はこの街の夜を揺らし始めた






2003年-







言霊MAFIA x 2FACE  / KAMIKAZE




RICK-C / のこされ島




Kozaklyn / DAIA & RICK-C,¥uK-B prod. R2B2







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ST-LOW / BACKDROWSINESS EP


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