10月に入り、すっかり秋らしい気候になりました。

今の季節は、暑くもなく寒くもなく、ちょうどいい気温で一番過ごしやすい時期かもしれません。

前回、都市人口ランキングの昭和編について書きました。

今回は、その続きとして、さらにその前の大正、そして明治の人口について見ることにします。

その前に、前回も載せた最近の2009年のグラフ、および1970年、1940年のグラフも再度掲載します。

比較対象できるデータがあった方がわかりやすいかと思ったからです。


熟年社労士の徒然雑記帳-政令指定都市人口グラフ

熟年社労士の徒然雑記帳-都市人口1970年、1940年

下のグラフは、1920年(大正9年)の上位20までの都市人口ランキングです。


熟年社労士の徒然雑記帳-都市人口1920年


1920年(大正9年)というのは、第1回目の国勢調査が行われた年です。

これを見ると、1920年時点で既に6大都市の人口が、7位以下の都市と比べ、圧倒的な大差をつけていたことがわかります。そのため、1922年には、これら6都市が“6大都市”として“大都市制度”が導入されました。


5位、6位の名古屋、横浜の42万人に対し、7位の長崎が18万人です。それ以下の都市もグラフの通りで、20位の横須賀が9万人です。


位以下の都市も、何かこの時代に特徴的なところがありそうですね。

この当時は、長崎、広島、呉、横須賀あたりは、軍事都市として栄えていました。


北海道の3都市である函館、小樽、札幌もこの頃には既に全国レベルになっていたわけですね。

函館が北海道の玄関口と港町、小樽が北海道のウォール街と呼ばれた商業の町、そして道都札幌です。

また、八幡は鉄の町として発達したところです。

次のグラフは、1890年と1878年の人口ランキングです。



熟年社労士の徒然雑記帳-都市人口1878、1890年


1878年(明治11年)、1890年(明治23年)当時は、まだ江戸時代からの名残りが残っていた頃で、東京、大阪、京都の3都市が他に比べて抜きん出ています。

そのため、1889年には既に、東京、大阪、京都の3市が勅令指定都市に指定されていました。


その後、1922年(大正11年)には、神戸、名古屋、横浜も加えて6大都市として“大都市制度”が導入されました。

1890年頃には、これら6都市が上位6位までを占めるようになり、この状態が戦後の高度成長期まで続いていました。

1878年では、上位3位までは1位東京の67万人から3位京都の23万人、そして4位の名古屋が11万人、20位の長崎が3万人と続きます。

1890年になると、上位6位までは1位東京の116万人から6位横浜の13万人、そして20位の堺5万人と続いています。

これら20位までの都市をみると、江戸時代からの城下町や新しく開港した港町などで占められています。また、堺は、中世、江戸時代から既に自由都市、港町として栄えていたところです。

また、1858年に結ばれた日米修好通商条約によって開港した5港、神奈川(横浜)、長崎、箱館(函館)、新潟、兵庫(神戸)はこの時代に大きく発展していきます。


横浜、新潟、長崎は1878年には、既に上位20までに入っており、このグラフに入っていない神戸が21位、函館が23位にランクされています。

1890年になると、神戸5位、横浜6位、長崎12位、函館15位、新潟18位とすべて20位までに入ります。

さらに、旧制高校の第一高等学校から第八高等学校までのナンバースクールの所在地もこれら上位20位までに入っています。


一高(東京大学)、二高(東北大学)、三高(京都大学)、四高(金沢大学)、五高(熊本大学)、六高(岡山大学)、七高(鹿児島大学)、八高(名古屋大学)の8校です。

これらのナンバースクールは、東北から九州まで全国各地にほぼ均等に配置されていたようです。


長くなったので、今日はこの辺にしておきます。