なぜ、日本では“マリオ・バロテッリ”が育たないのか。 | Jリーガー 安彦考真 オフィシャルブログ

Jリーガー 安彦考真 オフィシャルブログ

人生で一番輝く瞬間は、何かを達成したり、成功したりした瞬間ではない。人生が一番輝いている瞬間は「旅の途中」である。それは、その人の「生き様」である。
だから「チャレンジを応援し、失敗を否定しない」環境を作る。



「悪童」とは、いたずらっ子のことです。

手に負えないほどのいたずらっ子は、

その時点で、もう「いたずらっ子」ではないか、

指導者が「無能」かの、どちらかだと言えると思います。


いたずらっ子を上手く指導できる先生はたくさんいたはず。

しかし、今はほぼ皆無。

この現状が何を意味するのかを、しっかりと理解してもらいたいです。

言われたことをできる子がいい子、

みんなと同じ子がいい子、

先生による「教育放棄」です。


ヤンちゃな子の「我」を「個性」として認識させてあげることができるのは、

指導者や先生しかいません。

「みんなと同じ子」を認める教育から、

「みんなと違う子」を認める教育へと変わる必要があります。

クラスにもチームにも人と違う子どもが必ずいます。

それを「空気を読む」という、大人の都合に合わせた「教育放棄用語」を使い、

子どもを黙らせ、それでも黙らない子どもには、

他の子どものチカラを使い、あの子は「違う」という空気を作らせ白い目で見させてしまいます。

これは、白人が黒人にした差別拡散方法と同じです。

レッテルを貼ることで、

指導者や先生は責任を逃れ、

その責任はその子とその親の教育にあると位置づけます。

(もちろん、親の教育にもかなり問題はありますが)

「みんなと同じ」子どもは、

子どもらしさを「失った子ども」です。

大人が自分の評価のために、

また、子どもを扱いやすいように、

勝手に自分たちの世界観の中に閉じ込め、

最後は社会の中に捨てる指導が行われていることに気がつく必要があります。

親の役目は、「子どもを大学まで行かせること」で、

そこから先は「自分」、
と考える親は多いと思います。

見事なまでの「責任放棄」であることに、

何故、気がつかないのでしょうか。


“マリオ・バロテッリ”が今の日本教育の中から出てくることは皆無です。

全ての原因は、

大人が子どもを支配し、

子どもの可能性を大人の物差しで測ることにあります。

大人は子どもを評価するためにいるのではなく、

彼らが自らの可能性に気がつく「きっかけ」を与えることができるかに掛かっています。



「教育のリスタート」

みなさんで始めませんか。
{0DBA6BF5-FDE9-4922-B163-E5B38E8F1ADA:01}