vol,2 バレーボール女子日本代表 木村沙織

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埼玉県八潮市生まれ。その後大阪、東京と転々とする。東京ではあきる野市で主に育つ。血液型:O型。家族構成:父、母、妹。テレビ放送におけるキャッチフレーズは時をかける万能少女 サオリン(2006年バレーボール・ワールドグランプリ)/ニッポンの未来 サオリン無限大(2006年 世界バレー)など。活躍するほど「女性としての魅力」を失っていく女性アスリートの中で、木村は仕草等で「女の子らしさ」を残しており、インタビュー等の発言が天然系(後述)なこともあわせ、バレーボールファン以外からも支持を得ている。
小学生時代
東京都あきる野市の多西小に通う。バレーをしていた両親(特に母親)の影響を受け、小学校2年生の時に秋川JVCに入団する。秋川JVCは守備練習中心のチームで、この頃レシーブ練習を数多くこなした事が、現在のレシーブ力に生かされていると本人は言う。チームでは主にレフトを務め、小学校6年生時には東京新聞杯で優勝している。 「週末に思う存分友達と遊んでみたくて」小学4年生の頃に2週間ほどチームを辞めているが、木村がバレーから離れたのは、これまでこの2週間だけ。
中学生時代
中学校はバレーボールの名門、成徳学園中学校(現・下北沢成徳中学校)に進学。ここで大山加奈、荒木絵里香、大山未希など、以後長い付き合いとなる選手達と出会う。中学入学時には163cmでさほど高くはなかった身長は、中学3年間で約15cmも伸びた。これにより、ポジションはセンターとライトを務める事が多くなり、プレーに幅が出た。Bクイックは得意技と言えるほどになった。
中学2年生の頃、バレー人生で初の骨折(左手中指の付け根)。ただ、全治2週間と軽度のものだったため大事には至らなかった。以後、高校3年までは大きな怪我はなく「怪我知らず」のイメージがついた。主力としての全日本中学校バレーボール選手権大会優勝、全国都道府県対抗中学バレーボール大会(アクエリアスカップ)でのJOC杯受賞など、木村の才能が開花し認知されてきたのはこの頃である。
高校進学~全日本入り
木村が成徳学園高校(現・下北沢成徳高校)に進学した2002年、高校バレー界は栗原恵と大山加奈の2人のスーパースターの活躍に沸いていた。その年、成徳高校は主要大会を制覇。「次は自分達が頑張らないと」。木村はそう思ったという。
高校2年になると木村はライトで主力となり、春高では見事に優勝を収めV2に貢献した。8月のインターハイでは惜しくも3位に終わりV2を逃したが、この夏、木村のバレー人生は大きな転換期を迎えていた。インターハイ閉幕と同時に全日本代表から強化合宿の召集がかかる。訳も分からないまま合宿に途中参加し、そのまま故障の鈴木洋美の代役として11月開催のワールドカップ出場へ。全国的に注目を浴びたワールドカップでは、セッター登録され“スーパー女子高生”の呼び名でブレイク。持ち前ののほほんとした性格とあどけない笑顔に幅広いファンがついた。インタビューで垣間見られる天然ぶりもファンを増やした要因だ。当時、木村はワールドカップがいかに重要な大会かを理解しておらず、試合にサポーターを忘れてくるハプニングもあった。
12月の全国私学大会で下北沢成徳高は大会初の3連覇。大会中にはサンタクロースの格好でサイン会をするサービスもあった。そして、迎えた2004年の春高バレー。大会3連覇を目指すチームが迎えた決勝戦、思わぬアクシデントが木村を襲った。第1セット、スパイクを決めた直後に味方選手の足を踏み捻挫。緊急治療後、足を引きずりながらプレーを続行したが、結局九州文化学園に1-3で敗戦した。
アテネオリンピック最終予選
春高の敗戦から間もなく、2004年アテネオリンピック最終予選で再度日本代表に招集され、初戦のイタリア戦で代表初スタメン出場を果たし、見事な活躍を見せる。2大会ぶりのオリンピック出場に大きく貢献した。
この時期から木村は多忙を極めていく。OQTの余韻も残る中、6月、インターハイ関東予選に出場しまさかの予選敗退。急遽、全日本ヨーロッパ合宿に召集されイタリア4ヵ国対抗戦などに出場する事になる。7月からは1ヵ月にわたるワールドグランプリに出場するも、日本は予選落ち。木村も目立った活躍は出来ないままオリンピックを迎える事になった。
アテネオリンピック
8月13日の開会式では、入場行進で全日本女子が日本選手団の先頭を陣取り、チームメイトと談笑する木村がたびたび映し出された。その中には福原愛と一緒に写真を撮るシーンもあった。
バレーボールは翌14日からの開幕だったが、多忙を極めていた木村の腰の状態は最悪で、立つのもままならない状態だった(アテネで他競技のトレーナーから椎間板ヘルニアと診断された)。そのため、木村のプレーにいつもの「らしさ」は無かった。出場機会がほとんどないまま初めてのオリンピックを終えたが、家族全員がアテネに応援に来ていただけに残念な結果だった。しかし、決勝戦の中国vsロシアを会場で観戦し最高峰のプレーを目の当たりにした事で、初めて木村の胸にメダルへの執着心が生まれたという。北京オリンピックに期待がかかる。
オリンピック後
オリンピック終了後、木村は休む間もなくスリランカに飛びアジアジュニア選手権に出場。その後、長期的な療養を余儀なくされる。12月、高校最後の大会となる全国私学大会の頃には腰痛がさらに悪化していた。決勝戦の第2セット終盤に出場したものの得点を決めることなく自身の高校バレーに幕を閉じた。試合後は、珍しく悔しさをあらわにする木村の姿があった。
2005年2月14日、東レ・アローズ入団が発表された。チームには大山加奈や荒木絵里香らも所属している。
3月14日放送の関口宏の東京フレンドパークII(TBS系)では、一般観覧席最上部で下北沢成徳高校のチームメイトらと座っている姿が見られた。東京生活最後の思い出作りと見られる。4月から生活の中心は滋賀県大津市に移った。
2005年後半~2006年
2005年7月の女子ジュニア世界選手権U-20では、全試合をレギュラーで戦い、チームの勝利に貢献するほか得点王にも輝き、復活を遂げる。自身初のVリーグも、毎試合スタメン出場を果たし、首位に立つ(前半終了時点)チームの原動力となっている。9月1日からのアジア選手権では、イタリアへ移籍したNECレッドロケッツの高橋みゆきの代役を担う事となった。大会では珍しくレシーブミスが目立ち、故障の後遺症を感じさせる場面もあった。
自身初のVリーグとなった第12回Vリーグは、2005年9月から始まり、2006年3月まで7ヶ月にわたる長丁場となった(途中に6~7週間の中断を挟む変則日程)。デビュー戦では、レフトでスタメン出場を果たす。この試合でのアタック決定率はチームトップの52.0%、サービスエースも2本決め、初白星に貢献する。その後も、レフト、センターでスタメン出場を続け、チームの快進撃の原動力となった。前半戦、東レはわずか1敗で首位で折り返す。しかし、後半戦は、苦手の久光製薬に苦戦を強いられたほか、下位の日立佐和戦を取りこぼすなど、前半の勢いはかげりを見せた。そんな中、木村のアタック決定率は比較的安定していたが、ことごとくサーブを狙われ、しばしば攻撃パターンを封じられた。また、腰の影響からか、キャッチの不安定さが露呈することになる。結局、レギュラーラウンドを3位で終えた東レは、決勝ラウンドで武富士に1-3で敗れ4位でシーズンを終えた。試合後の会見で木村は涙ながらに敗戦の弁を述べた。
とはいえ、木村はアタック決定率リーグ6位、サーブ効果率リーグ9位などルーキーイヤーとしては申し分ない成績を残し、堂々の新人賞を受賞した。来季はサーブレシーブ、ブロックの数字向上、そしてなによりチームの優勝が望まれる。
8月18日からは、ワールドグランプリ2006が開幕した。木村はレフト登録。開幕戦はキューバにストレート勝ちを収め、幸先のよいスタートを切った。2試合目の8月19日は木村の20回目の誕生日であり、韓国戦勝利後、会場にケーキが用意され祝福を受けた。しかしその翌日のブラジル戦では、サーブでことごとく狙われてしまい、今後の課題が名目化した。