河合隼雄さんが、ネイティブアメリカンの長老に会った時に、実際に行なった会話とのこと。
僕もあまり好きだから、ナバホの人たちに会いに行って、いろいろ話を聞いてきました。ナバホの年とった人はほんとうに素晴らしい顔をしています。いい顔をしています。立ち居振る舞いがすごくいいんです。ちょっと花を供えたりしているだけでも、いいなという感じがします。
そこで、私がナバホの人に、「ナバホの生活、生き方を見ているだけで感動します。いったい、そのような生活、生き方をどういう宗教によって支えているんですか」と聞いたら、答えがすごいんですね。「われわれナバホには宗教という言葉はありません」と言うのです。なぜかといったら「生きてることがそうだから」。わざわざ言う必要がないというのです。すごいですね。
これは非常に重要な、大切な論点ですね。
生きること=宗教そのものなのだ。ということを、この長老は言っているのですから
真の宗教とは、人が生きることそのものの中に、そのきらめきを示すのではなければ本物ではない。あるいは、その宗教の意味を、その人が知っているとは言えない、体現できているとは言えない。
ということでありましょう。
人が正しく生きるためには、どうすべきなのか、どのような心でもって生きるべきなのか。
それを知らしめるために、歴代の偉大なる開祖たちが教えてくれたことが、宗教誕生の発端であるのならば、宗教とは、正しく人生を生きること、に直結していくのでなければうそになってしまう。
真実の人生を生きる時に、わたしたちは宗教の教えを真に体現して、生きているのだと言える。
その次がいいですね。にやっと笑って「白人の方はpart time religionをやっておられる」と言いました。パートタイムで宗教をやっていて、あとは忘れていろんなことをしているが、われわれの宗教は人生そのものだと。
長老は、白人たちが言う宗教というのは、ふだんの日常は離れていて、休みの日にだけ教会に行くような、そうした行為を言うのかね? それはパートタイムの宗教ということなのかね? といって、皮肉を述べているわけです。
この厳しい指摘、シニカルな指摘も、本質的には当たっている、と言うしかないでしょう。
日々の生活のなかで、神仏の教えにのっとった生き方をすることこそが本質であって、ふつうの日は世俗にまみれて、休日だけは精妙な気持ちになって神仏に仕える、というのでは、どこか違っているのではないか、と言われたら、ぐうの音も出ないというのが本当のところではないか。
とはいっても、このエピソードを述べる河合さんは、現代人は間違っている、ネイティブアメリカンを見習って、彼らのような生き方に帰るべき、と言っているわけではないんですよね。
ネイティブアメリカンの人たちは、上記のような、美しい心、気高い心、素晴らしい顔立ちをもって、日々の人生を崇高な思いを秘めて生きているのはまちがいありませんが、
しかし、その暮らしは想像を超えるほどの、貧しさの中にある、と指摘してもいます。
これに対比して、現代社会の人間は、それなりの豊かな暮らしの中で、日々の生活をおくっている。けれども、そこに本当の意味での、宗教的なる生活は体現できていない。この部分では、ネイティブアメリカンの人たちに、学ぶべきことが多くあるのでは、と問題提起しているんですよね。
反対に、心は美しくても、現代社会におけるような豊かさを享受できていない、そういう生き方にもまた、欠けたるところがある、というように、公平なる視点から河合さんは、このエピソードを述べているんですね。
両者の融合がやはり必要なのではないか、内面生活の豊かさと、外的な生活の豊かさ、その両方ともを兼ね備えるのが理想であって、どちらか一方があればよい、という風には現代ではいかないだろう、と述べています。
こういう視点の公平性のある人は、読んでいて、信頼できる著作家になり得る人だと、わたしは思いますね。
極端な論を激しく主張するばかりの人というのは、別の側面からの視点が欠落していることが多いので、その意見あやういことが多い。
対極にある意見も視野に入れつつ、その上で両者を公平に見渡して、大きな視点から結論を出せる人こそは、高度な認識にそれだけ近い、という感じが私はします。