善と悪の戦い ~渋沢栄一のことば~ | LEO幸福人生のすすめ

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「善悪の戦い」というと、人は得てして単純に考えがちで、

すぐに、自分が善で、相手が悪、といった単純な二分法での善悪を考えやすい。

 

しかして渋沢翁は、自分と他人という相対観の前に、

まずは、自分自身の中の善悪、というものを考えている。

 

さすがに本物の智者、賢者の思考レベルは深く、スゴイと思う。

(※渋沢栄一の前世の一つとされる、漢の張良の智謀も魅力的)

 

 

 

 「おのれって礼に かえ る」ということも、結局一つの争いである。私利私欲と争い、善をもって悪に克たなければならず、徳を修めて立派な人になろうとするには、始終争いを避けるわけにはいかない。品性の向上は、悪と相争うことによってはじめてとげられるものである。絶対に円満であって、悪とも争わず、己に克とうとする心がけさえなくなってしまったならば、人の品性は堕落する一方である。だから品性の向上、社会の進歩、国家発展のうえにも、争いはけっして避けてはいけない。  

 

己に克つ、それは自分自身の中にある私利私欲と争い、これに勝つこと。自分自身の心の中でも、善に勝利させ、悪を打ち破らないといけない。己に打ち勝つとは、そういうこと。

自分のエゴ、欲望、野心、その他、すべてを自分一個に帰そうとする利己心ですね。これに負けないために、善を選び、悪を封じること。

そうしてこそ、品性や徳というものが身に備わってくる。

 

そういう意味で、自分自身の中にあっても、善と悪の戦いというものがあるのだ、ということ。

これを渋沢翁は指摘しているのだと思います。

自分自身の心の中で、まず善が勝利し、悪が敗れるような、そういう自己を律する生き方をせよ、と。

そこにすでに、善悪の戦いというものがある。

だから、いたずらに戦いを避け、争いを避ければよい、という考えを私は採らない、と言っているわけです。

自分自身の中で、悪と戦うことなく、放縦のままに生きてしまったなら、それはすなわち己に打ち勝とうとする精進を放棄しているに等しいわけであって、そうしたいい加減な生き方であっては、善悪の区別も心の中でままならず、悪を放任して平気な人間になってしまうかもしれない。それでは堕落する一方になってしまうだろう、と。

己を律する人間は、そうであってはいけない。己の中の善を育み、悪を倒して克つこと、これが大事なのだ、と。克己心とはそういうことであるし、自分の弱さや欲望、自分勝手な思いと戦って、これをよく抑え、そうする魂修業の中で、優れたる人格が作られてゆく。徳とは、そういうものではないか。

徳を目指さずに、悪に簡単に妥協する者は、品性を堕落させても平然としている人間であろう。そこに克己の心は無く、悪と戦う気概もないわけで、これが結局、社会や国家全体というものに、つながっていってしまうのだ、ということ。

一人一人がまず、しっかりと克己の心を持って生きることで、社会全体にも善がよく広まり、悪が小さくなってゆくという流れが生まれるのだ、という因果関係を、渋沢翁は論じているのだと思います。

 

私は世間の人から、絶対に争いをしない人間のように見られているが、もとより好んで人と争うことこそしないものの、絶対に争わないのが処世上最善の道とは思っていない。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうとすれば、善が悪に負けるようになる。私は大した人間ではないが、正しい道を踏んで一歩も曲げないつもりでいるから、無法に譲歩するということはできない。人間はいかに円くても、どこかに角がなければならぬものである。  

私も若いときから争わねばならぬことにはずいぶん争ってきた。威望(威光と人望)天下を圧していた大久保利通 大蔵卿 とも 侃々諤々かんかんがくがく(正しいと信じることを遠慮無しに直言すること)の議論を闘わしたこともある。八十の坂を越した今日でも、私の信じるところを覆そうとする者が現われれば、私は 断乎 としてその人と争うことを辞さない。私が自ら信じて正しいとするところは、いかなる場合にも、けっして他に譲るようなことをしない。  

人には老いたときと若いときとの別なく、いつも守るべき主張がなければならない。そうでなければ人の一生は、まったく無意味なものになってしまう。いかに人は円満がよいといっても、あまりに柔弱になりすぎては、『論語』「 先進 篇」に説かれているとおりで、人としてまったく気力も品位もないものになってしまう。

 

渋沢翁は、世間からは「絶対に争いをしない人間のように見られているようだ」と、自分自身で述べています。

むろん自分は、好きこのんで自分から進んで他人と争ったりするような、そんな喧嘩好きな人間ではないけれども、と前置きを述べつつ、

しかして、争いが必要な時は、決してそれを避けることなく、一歩も引かずに信念を主張して戦う人間である、と自分の本質を述べています。

 

間違った言論を放任して、自分が遠慮してしまったら、これは善が悪に負けることになってしまう。

自分の信念、自分が正しいと心から信じている事柄に関しては、私は一歩も引かない。過去においても、その相手がたとえ大久保利通卿であっても、自分の論が正しいと思ったら、一歩も引かずに戦って、遠慮することはなかった、と振り返って述べています。

この気概、信念こそは素晴らしい。

 

ここで重要なのは、渋沢翁がここで述べている、自分の信念、守るべき主張、断固として譲ってはならない正道、これを究めるための努力を相当に深く行った上での、こうした言明である、ということですね。

 

どうでもいいことに意地になって、自己主張を引っ込めずに激しく主張する、というのは、この渋沢翁の信念とは全く違うのであって、要するに、中身があってこその戦いであるのであって、中身が無いのに意地を張るのは、これは正道の主張とは言えないでありましょう。

 

よほど重要なる、重大なる真実、信念、に関しては、これを守るために断固として戦うべし。軽々しく身を引いてはいけない。遠慮も無用、と言っているわけですから、おのずとその守るべきものには、自分一個のエゴなどからは超越した、もっと大いなる目的と理想が含まれていなければ、意味が無いでありましょう。

 

善が悪に負けてはいけない。

 

いたずらに争いを避けて、ことなかれ主義の妥協が常に良い、などとは決して言えないのである。

守るべきものが有る時には、戦いも辞さず、断じてその信念を主張すべし。

 

マザー・テレサは、戦地での救済業に当たる際に、そこはまだ銃弾が飛び交っているから危険です、行くのはやめてください、と政府の当局者に制止されても、

いや、わたしは行かねばならない、そこで救いを待っている人がいるのだから、と言って、断固として自分の信念を貫いて行動していたそうです。

肉体生命の安全を最優先すれば、危険な場所へ行くのは避けるべきでしょう。

しかして、肉体生命よりも大切な、魂を救うためにその場へ行くのであるのなら、肉体生命の危険などを理由に、魂の救済業から逃げるわけにはいかない。

マザー・テレサの行動は、いっそう大切なことのための行動なのであって、その信念は、一般的な常識の制止によって諦められるような、そんな思いではなかったのだと思います。

なぜそんな危険な場所へわざわざ、というのは、肉体生命を最重視する通常人の目線であって、これに妥協するわけにはいかない、というのが人々の魂を救わんとするマザー・テレサの判断だったのだと思います。

 

 

信念を貫くこと。

 

善が悪に負けてはならない。

 

制止する側、否定する側は、かならずしも悪ではないこともあるでしょう。

そうした場合であっても、同じように意見の相違、議論、互いの意見のぶつかりあい、というのは起こるものだし、それが一種の争いになることもありますね。

 

そういう場合であっても、ここで渋沢翁が述べている視点は、有効なのではないかと思います。

 

それは、そこにどれだけ深い願いが有るのか、大切なる内容があるのか、守らねばならない内容が含まれているのか。

そうして、そこに命を懸けるほどの値打ちがあるのなら、その信念を主張することに対して、一歩も引くべきではないのだ、そういう時もあるのだ、ということを、渋沢翁の言からは学べるのではないかと、思うのでありました。