さまざまな翻訳バージョンがあるはずですが、平易な文で分かり易い、↑こちらの現代語訳からの引用を元に、記事を書いてみます。
先生はおっしゃった。 世界というものは、くるくると回ってやむことがない。寒さが去れば暑さがやってきて、暑さが去れば、寒さがやってくる。夜が明ければ昼となり、昼になれば夜がやってくる。また、万物生ずれば滅し、滅すれば生ずる。
仏教の諸行無常の教え、ギリシアのヘラクレイトスの万物流転説。
二宮尊徳翁は、世界は変転変化して、常ならず。変化しつづけてゆくことこそが、世界の本質であると喝破している、その悟りを平易な言葉で述べてくれています。
行基菩薩の再来なれば、翁が深い仏教理解をしているのも納得ですね。
こうやって、変転変化、流転しつづけゆくのが、世界の本質、天の理、天の道であると、二宮尊徳翁は述べているわけですが、
スゴイなと衝撃を受けるのは、しかして、人の道というのは、この天理、天の道とは違うのだ、と指摘している点ですね。
しかし、人の道はこれと異なる。風雨定めなく寒暑往来するこの世界に、人間は羽毛もウロコや殻もなく裸で生まれ出て、家がなければ雨露をしのげず、衣服がなければ寒暑をしのげない。そこで、人間は、家をつくることを善とし、壊すことを悪とし、米がとれる稲を善のものとし、雑草を悪しきものとする、というように「人の道」というものを立てたのである。
人の道は、天の道・天理とは違っている、と述べているのですが、これは天道に背いてそれとは別に人の道がある、という意味ではありません。
天理に任せたままであっても、天候は移り変わり、朝昼夜の変化は行われ、生ずるものあれば滅するものもあり、といって世界は変転変化を続けますが、
人がこにょで生きるためには、ただそうした自然状態に任せたままでは、寒さもしのげず、暑さにも耐えられず、だから衣服を作ったり、雨露をしのぐためには住処も必要であるし、といって、そこに人間の営為というものが加わらないと生きていけない。
そうなると、家を建てるのは、人にとって喜ばしいこと、善となるけれども、家が壊れてしまうことは、これは不幸である、悪ともなる、ということにもなるわけで、
こういうことを指して、人の道は、ただ天理のままに任せる、というのとは違っているのだ。
なぜならそこには、人間の努力、働き、知恵工夫といったものが必要となるからである、と言って、その違いを指して、人の道は、天の道にただ身を任せるのとは違うのだ、と言っているわけですね。
あるがままに流れてゆく自然状態が、天の理そのものの世界だとするならば、そこに人間その他の生命が、各自個別の意志をもって活動するところには、おのずとそこに、人としての道、あるいは動物であっても、その動物ならではの生き方、というものが要請される。
これに続く言葉にも、二宮尊徳翁の実に深い智慧が、その言葉に表されていて、衝撃を受けますよ。
天理から見れば、稲や雑草に、善も悪もない。天理に任せるときは、みな荒地となってもとの姿へと返る。なぜなら、これが天理自然の道だからである。そもそも天には善悪がないから、稲と雑草を区別せず、種あるものはみな成育させ、生気あるものはみな発生させる。人道はその天理に従うけれども、その中でもそれぞれ区別して、雑草を悪とし、稲や麦を善とするように、みな人間にとって便利なものを善とし、不便なものを悪とする。この点において、人の道は天の理と異なるということを知っておいたほうがいい。なぜなら、人の道は人が立てたものだからである。
天から見たら、稲や雑草に、善と悪の区別は無い、と述べています。
稲が善で、雑草が悪だ、などといって、天は分け隔てをしたりはしない。それぞれ平等に、生え栄えて、やがてはまた枯れていくも、自然の理のままに任せている。
天の前に、善悪の区別は無い。すべてを含めて、天はその存在を許されている、と言ってもいいかもしれません。宗教的に言えば、そういう理解が成り立つのではないか、と思います。
そうして今度は、では人の道はどうであるのか、と論を続けていっていますが、
人の道は、これも基本的には、天の道に従って存在しながらも、その中において、人間が生きる上での善悪、という観点がここに生じてくる、と述べているわけですね。
稲を育てて食物にしようと努力している人間からしたら、稲は善となるけれども、これの邪魔になるような雑草は悪、という区別がここに生まれてくる。
雑草は別に悪人でもないし、悪を意識的に犯しているわけでもないでしょうけれど、人の生活にとって、稲や麦が善となるのと比べると、邪魔となる存在となってしまえば悪なる存在として刈られることになってゆく。放置してしまえば、肝心の作物が育つ上での障害となるので、これは刈られても仕方がないことであるし、それが人間生活をより良くする、という観点から出される知恵の判断というものなのでしょう。
これは肉食に関しても、牛や豚や鶏を食肉として、人間は摂取をしますが、これは人間がこの世で肉体生命を維持して生きていくためには、やむを得ない犠牲、という位置づけになるのだろうか、と考えてみるに、
こうした食用肉を得られることは、人間生活にとってはプラスであり、幸福の基となるものですが、犠牲となる動物たちからしたら、たまったものではない。彼らからしたら不幸であり、苦しみでしかない、という視点も成り立ちますよね。動物たちからしたら、人間に殺されることは、どう考えても、悪としか感じられないかもしれません。
これは、人間の生存のために犠牲になることが、大いなる奉仕や布施の実践となって、動物たちの魂の成長にもつながっているのだ、という大きな視点がなければ、納得することが非常に難しい問題ですが、こうした難しい問題を含みながらも、
人間にとっての要・不要、益と不利益、といったところに、善悪の峻別という判断が為される、人間にとっての価値観、といったものがあるように思えます。これが、人の道、ということ。
しかして、先に述べたように、天の理はこれとは違って、稲が善で、雑草が悪だ、などといって分け隔てをしたりはしていませんね。
善人と悪人の違いというのも、人間社会におけるその人間の存在価値、プラスマイナスのどちらであるかによって、善人、悪人という判定はどうしても出るはずですが、
しかして、天は、善人であっても悪人であっても、その生命を存続させてくれている、という意味では、分け隔てなく公平に処遇してくれている、と言えますからね。
そういう、天に等しく生かされている、という意味においては、天は、善も悪もすべてを包み込んで、その生命を生かしめてくれているわけですから、人が行っている意味合いでの、善悪の峻別とは違った目で、生命を有らしめているのだ、と言えるかもしれません。
このあたりに、天の道と、人の道とは、違うところがあるよ、と指摘している二宮尊徳翁のことばを、深く理解する手掛かりがあるのか、と思いますね。
人の道は、たとえてみれば三杯酢をつくるように、長い歴史の中ですぐれた人々が料理して味つけしてこしらえたものなのだ。だから、ともすれば壊れてしまう。政治や教育を確立し、刑法や礼儀を制定し、やかましくうるさく世話をやいて、ようやく人の道は成り立つものなのである。それを天理自然の道と思うのは、大きな誤りなのだ。よく考えなければならない。
自然のままに放置しておけば、家屋は崩壊へと向かい、社会はアナーキーへ向かい、秩序は無秩序へ、と移り変わっていくでしょう。物理学で言うエントロピーの法則ですね。
人間がこの世で生きる、というのは、自然のままに放置しておいたら、崩壊へ向かってしまう物質世界の事象を、人間の営為によって、一時的に食い止め、善きものはなるべく長く存続させる。そうした努力をしてゆくなかに、人としての魂修業があるのだ、ということだと、わたしは思います。
家屋が崩壊しないように、ときどきは改修したりして、長くもたせるための修理を行なうでしょう。
この肉体だって、食事を絶ってしまえば命は存続できなくなり、崩壊へと向かうものですが、たえず食事を採り、水分を補給し、エネルギーを絶えず補充し続けることによって、崩壊をまぬかれさせて、長く使うことが出来るようになっている。
こうしたさまざまな人間側の働きがあって初めて、この世での仮の生活が成り立つわけで、何もしないで放置したら、自然のままに、肉体はすぐに朽ち果て、建物だってそんなにもたずに崩壊してゆくものなんですよね、本来は。それが、諸行無常のこの世の仕組みなわけですから。
人の道というのは、ほったらかしに放置しておいて勝手に出来上がるものではなくて、優れた人たちが作り上げてきたものなのだ、と二宮翁は述べています。
これは「黄金の法」や「歴史哲学講義」における英雄史観そのものですね。
政治体制、教育システム、刑法や、礼儀の在り方、こうした人間社会におけるルール、決まり事、といったものを、優れた人たちが長年月をかけて作り上げてくれた中で、わたしたち後代の人間は生きているのだ、ということ。人間の営為ですね。それが有ったのだ、ということ。
ほったらかしで、長い年月が経ったら、いつの間にか勝手に、政治体制が自動で出来上がったわけではないし、ある日気が付いたら刑法が完備していたわけでもないわけで、こういうものを作るためには、多くの人たちの努力、営為があったのだ、ということ。
そうした、人としての生きる道、人として努力すべきこと、がんばって生きてゆくこと、こういうところに、人の道、というのがあるのだ、ということですね。
天の道、天の理の中にあって生きながらも、ただ単に、あるがままに身を任せて生きるのではなくて、人間としての知恵工夫、さまざまな努力、善とは何か、悪に対してはどうすべきか、政治はどうあるべきか、教育はどうしてゆくべきか、そういったことをさまざまに考えて、作り上げてゆくところに、人の道というのがある。
これは、天の道と完全にイコールで一致するものではなく、人の道はどうあるべきか、ということを考えながら、人類は生きてゆかねばならない。そこに、智慧が磨かれてゆく魂修業の道があるのだ、ということでしょう。
… つづく。