マヤ暦が大まかにどういうものかは、
昨日のブログに書いた通りです。
そしてここからは、私にとって、
マヤ暦の終わりがどう感じられるかを、
ちょこっと書いてみたいと思うのです。
まず、大きな川の流れを想像してみて下さい。
具体的に、多摩川とか信濃川とか、
実在の大河を思いだせると、よいですね。
さて、そこに沢山、小舟が浮かんでいると
想像を進めて下さい。
私自身、沢山の小舟の一つの中に混ざって、
その大きな川の流れの上に乗っています。
近くには、家族が一人一人乗った舟が浮かび、
その向こうには友達の舟が、更に向こうに
知り合いの舟が、そして見知らぬ人の舟も
沢山、目に入ってきます。
時間の流れの中に生きる私たちの姿を、
川と舟とで表すと、そんな感じになります。
みんな、下流へとゆるゆる流れていますし、
舵取りをして、目標へ向かう舟もあります。
そして本題、マヤ暦の終わりが示すもの、
それは川の先に滝があると言うこと。
しかも、この滝はあろうことか、
上に向かって落ちて行きます。
「ドドドドド」と、すごい轟音が響きます。
落ちる先は雲の中へ消えて行き、
その先がどこにつながるかは、
まだ見えていません。衝撃的な風景です。
でも、普通に考えたら、滝の次は滝壺で、
その次は新しい川の流れにつながります。
つまり、私たちの舟が壊れず、
乗り手が気をしっかり持っていれば、
一瞬滝に巻き込まれても、何とかなる、
と言うのが、事実だと思うのです。
間近に迫って、できる準備と言えば、
舟のメンテナンスだけはしておくこと、
乗っている私たちが慌てないこと、
この二点に尽きます。
この場合、舟というのは体のことですが、
今から21日までに病を治して完全体に、
と言う意味ではありません。
今の自分の体を知ること。
無理のきかない部分をちゃんと知り、
傷んでいる部分は放っておかずに
検査したり、治療を始めたりすること。
そして、何があっても極力冷静で
いられるように、いろいろなことに
ケジメをつけたり、見切りをつけたり、
決断をしたりしておくことです。
滝が近づく今では、それに付随して
起きていることもありますが、
それはまた、次回に☆