生きる意義とは

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人生の意義、生きる意味についてずっと考えていた。

そして、気づいた。


人生の意義、生きる意味といったものはない、と。



生きていることそのものが意義であり、
生きていること自体に意味がある、と。

人生のゴールとは、先のどこかに存在するものではなく、
この瞬間にある。

思考は、いつも今のこの瞬間から離れた何かを考え出そう
とする。

この瞬間、目の前にあるもの、今起こっていることに心から
対応していくこと、全身全霊で向かい合うこと、

それが人生の意義である。

もっともらしい人生の意義、価値を探そうとするのは、
エゴの意図であり、エゴの価値観から納得できるもの、
多くの人がすばらしいと思うもの、多くの人に認められる
ものを見つけようとする。

それが見つけられないとき、それに失敗したときは、
人生の意義を失い、生きる価値さえ失ったように感じること
もある。

それはエゴや思考のコントロールである。

今、この瞬間に生きていること、それが生きる意義である。

自分がどんな状態であっても、どんな状況に置かれていても、
今この瞬間にそれを体験していることが、生きる意味なのだ。

この瞬間瞬間が、人生のゴールである。

この瞬間に存在していることそのものが、人生の価値である。




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この半年、私のスピリチュアル観が大きく

変わってきた。


ここ何年かで、世の中に「スピリチュアル

ティーチャー」がどんどん注目されてきた

ように思える。


本当に星の数ほどいる。

真の師は、皆同じ月を指して、それぞれの

表現で教えてくれている。


たまに??と思える人もいるけど、それは

きっと今の私には合わない人なのだろう。

他の人には強く響く教えを説いているかも

しれない。


真の教えは、真の自由を導いてくれる。


抑圧したり、制限したり、条件づけしたり、恐れ

を感じさせるものは、本物ではない。


本当にすばらしい教えには、心から感動する。


でも、肝心なのは、今ここにある人間としての人生

がどうなのか。


今自分の周囲にいる人と、どう関わっている

のか。


今起こっている出来事に対して、自分がどう

いう言動をしているのか。


人間としてこの瞬間瞬間をどう生きているのか

に尽きると思う。


自己は存在しない。

すべては思考の中で作られた幻想である。


でも、今、机に思いっきり足をぶつけたら、

思いっきりイタイ!のだ。


その痛さは存在しないものでも、幻想でもない。


ただ痛いのだ!


そこに机があるし、足に感じる痛みもある。


美しい人里離れた山寺で座禅をすると、心が

浄化され、美しい洞察を得るかもしれない。


サットサンですばらしい話を聞いて、心が洗われる

かもしれない。


でも、翌朝、満員電車に詰め込まれ、誰かに足を

踏まれても、同じ心でいられるか。


会社で、意地悪なことを言われたときに、どう反応

するのか。


家で、親や、夫、妻、子供がひどく腹立たしいことを

したときにどういう言動をするのか。


そこに、本当のスピリチュアルな道があるのだと

思う。


人間は感情動物なので、怒りも悲しみもあって当然。


覚醒した師にも例外なく感情はある。


感情が起こることは全く自然なことなのだが、その

感情にストーリーが付いたとたんに、「私の」思考の

世界、幻想の中へと迷い込んでいく。



ごくごく平凡な日常生活の中、満員電車に揺られて、

ラッシュの渋滞にイライラし、上司に批判されたり、

友だちに冷たくされたり、大きな失敗をしたり、お金の

心配をしたり、親や夫、妻と喧嘩したり、子供を叱ったり、、、


とそんな毎日の喧騒の中、いかに真実を見据えて、

真実と共に生きていくか

それこそがスピリチュアルな進化だと痛感する。










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Being ただ在るということ

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明けましておめでとうございます。


ブログを書くのは、何か月ぶりになるだろう。。。

新年に際しての独り言・・・。


人生にはいろんなことがあり、いろんな節目があり、

いろんな方向転換があり、、、


でも、川の流れのように、常に流れている。

山から湧き出て、流れ降りてくる小川のように、

止まることはない。


全く何もしていなくても、どんなに行き詰まっていても、

常に流れていて、常に変化している。


まさに諸行無常。


人生の歴史は頭の中に存在しているだけで、現実は、

人生とはこの瞬間、瞬間の流れに過ぎない。


常に流れて、変化しているけど、不変なのは、

Being、今ここにただ在る、という自分の本質。


ただ在ることを深く感じると、過去も未来も、人生

のドラマもすべて自分の思考が作り出したものだ

とわかる。


人それぞれが、それぞれの中に作り出した夢の世界

で生きている。まさしく、いろんなスピリチュアル

ティーチャーが説いている通り。


毎日の生活の喧騒の中、いろんなことに振り回されて、

見失いがちになるけど、Being、ただここに在るという、

この感覚、これこそが本質の自分なのだ。


この在るという本質が、偉大なるもの、神なるものと

一体であり、そこには何の制限もなく、あるのは無限の

可能性だけ。


人間のエゴ、思考が作り出す制限から解放されると、

そこにあるのは無限の可能性。


なんと素晴らしいことか!



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永遠なるもの

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先日、友人のお母様が亡くなられました。


人間の肉体を始め、世の中のもの、物質的な

ものは常に変化しています。


諸行無常です。


人生はまさに

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水に

あらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え

かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」

です。


だから、すべて幻想なのです。

ホログラムのように、究極の現実ではないのです。


でも、永遠なるものがあります。


それが私たち、すべての本質です。


いろんなスピリチュアルティーチャーが説いている

のはそこです。



アジャの教えを借りると、、、


人生で私たちは常に変化している。


誕生-乳児期-幼少期-思春期-成人期-老年期-死


それぞれの時期で、肉体、感情、知性は変化している。


でもそこに全く変わらないものがある。


誕生の前、死の後も変わらない、永遠なるものがある。


それは、

Being、Awareness、Spirit、Consciousness、Soul、God、Love


存在、気づき、霊魂(スピリット)、意識、魂、神、愛・・・


といろんな言葉での表現があるが、

それこそが、私たちの本質である。



自分がいくつになっても、今この瞬間を体験しているもの、

この瞬間に気づいているもの、その、純粋に気づいているもの、

純粋に気づいていること、それこそが永遠なるものです。








エゴは巧妙

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エゴは、あまりに私たちの人生に定着していて、

巧妙にしかも自然に自分と一体化しています。


日々の生活で、よく観察すると、「ああ、これは

エゴだ」と思えることがよくあります。


目目目


例えば、「xxは私に対してこうするべきなのに、

してくれない」と不満を持ちます。


その「~すべきなのに」というのは、自分のエゴ

からの視点です。


相手のエゴからすると「私に対してそうするべき」

とは限らないのです。

だから、そうしてくれないのでしょう。


自分のエゴの作り出すストーリーに執着すると、

どんどん葛藤や対立の深みに陥っていきます。


叫び叫び叫び



私はこれまで「マスター」と呼ばれる先生を数々

見てきましたが、高いレベルのスピリチュアルな

師の中でも、そのエゴの強さは驚くばかりの方々

もいました。


「私」は偉大である。

「私」が特別な力がある。

「私」はこんなすばらしいことをした。

・・・

と、「私」[私」が大きく立ちはだかっている。



それが悪いと言っているわけではありません。


すばらしいのは事実ですが、そのとき、私は、何か

釈然としないものを感じました。


はてなマークはてなマークはてなマーク




アジャが、自己についておもしろい喩えをして

いました。


覚醒したからといって、自己がなくなるわけ

ではない。



暗闇で懐中電灯をつけていると、とても明るく

光っている。

明るいところに出ていくと、懐中電灯の灯りは、

見えなくなる。

でも、懐中電灯の灯りが消えたわけではなく、

灯りは点いているものの、周りの明るさの中で

見えなくなるだけ。


晴れ晴れ晴れ


真理の明るさで、自己という懐中電灯の灯りが

必要なくなるのでしょう。




知識 vs 体験

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アジャがいつも使うたとえ話があります。


オレンジとはどんなものかを知るのに、

どんなに上手な説明、どれほど詳細な描写

を聞いても、言葉で本当のオレンジを理解する

ことは出来ない。

どんな言葉より、実際に食べてみることだ。



どんなに知識を詰め込んでも、実際に体験

することとは雲泥の差なのです。



以前、仏陀の教えに関するビデオを見ました。

(途中で眠くなって、少ししか見ていないのですが...)


ボストン大学の教授の「講義」でした。


その教授は、仏陀の研究何十年という、その分野で

かなり著名な学者のようです。


インドにも行き、サンスクリットでお経や本を読み、

瞑想もし、仏陀について知らないことはない、といった

人でしょう。


でも、その講義の中で、「私は覚醒しているわけでは

ないが、・・・」と、頻繁に言っていました。


これが、アジャの言う、オレンジの「専門家」だが、

オレンジを食べたことはないという例に近いものでしょう。


それが良いとか悪いという問題では決してなく、

目指すところ、志すものが違うだけです。



知識と体験は全く違います。


自分で体験してみないと、本当のところはわかりません。



でも、目覚めの体験は、探し求めて、求めていっても、

空回りするばかりです。


体験は今、ここに、この瞬間にあるものだから。



アジャ曰く、目覚めの体験を求めようとすれば、するほど、

遠ざかる。



もがけば、もがくほど、見失う。


それは、全く予期せぬときに、自然に起こるもの、と。








これが根源

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昨日、またAh Ha!(ああ、そうっかあ!)が来ました。



世の中の対立、葛藤、軋轢、苦悩、苦悶・・・といった

要するに、何かがうまくいっていない状態、何かが停滞

して詰まっている状態にある根源的なものは、


「愛が欲しい」


です。


世の中すべての人、すべてのものは、愛が欲しいのです。


この愛とは、単なる人間関係における愛ではありません。


もっと大きな、創造主の愛、無限なる愛です。


また、アジャの言う、Redemptive Love(贖罪の愛)です。



それがどんな状況であっても、欲しい愛が欠如している

(と感じている)ことから、不安、悲しみ、怒りといった感情

が湧いてくる。


欲しいものが手に入らないから不安になる。

欲しいものが手に入らないから悲しくなる。

欲しいものが手に入らないから憤る。


お金や物質的な豊かさを求めるのも、それが入れば、

究極のところは自分の欲しい愛が手に入ると思える。


人をコントロールしたいのも、そのコントロールによって、

自分が好きなように、自分の欲しい愛が手に入ると思える。


でも、お金や物質、コントロールでは決してそんな愛は

手に入らない。


だから、人はもっともっとお金を求めたり、物質を求めたり、

コントロールを求めたがる。


でも、そんなものに終着点はないのです。


なぜなら、そういったものすべてが幻想だから。


終着するところは、やはり「何かが足りない」という空しさ

だけ。


なぜか?


それは、本当に求める愛を体験していないから。


本当に求める愛はどこにあるのか?



それは、


自分の中です。


自分そのものです。



他の人、物質、外側にあるどんなもので、それを代用しよう

としても、絶対に不可能です。


自分の中、自分そのものが、自分が一番求めているもの

であると、心底気づくまで、「愛を求める」旅は終わりません。



では、愛とは何か?



それは、つながること、一体になること、融合することです。



私たちは、本当はすべてのものとつながっていて、ワンネス、

ひとつなのです。


それを、人間として生まれてくると、「個」として認識するよう

にプログラムされていて、


また、「個」からすべてとのワンネスへと戻っていくこと、

それを体験することが人間としての究極の目的なのでしょう。


おそらく、それを真に体得した段階で、人間としての生まれ変わり

も不要になるのでしょう。


もっとも、菩薩のように、人を助けるためだけに、また転生して

くる魂もたくさんいるのでしょうが。



私たち誰しもが求めているのは、表面的なものが何であれ、関係

ありません。


愛です。


愛とは、すべてとのつながり、一体、融合、ワンネスです。






解放・自由とはこんな感じ

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Liberation

解放されること、自由になること


って、こんな感じかあ、と思ったのは、


身体に重りをたくさんつけて生きてきたのが

その重りが軽くなっていき、最後には、その

重りが全くなくなる、ということ。



重りを持って、一生懸命走っていて、


重りのせいで、自由に身動きが取れなかったり、


時々重りのせいで、足をもつらせて転んだり、


時々その重さで疲れ果ててしまったり、、、


でも、自分では重りをつけて生きているとは

全く気づいていない。


世の中の人皆、それぞれいっぱい重りをつけて

生きているから、それが普通だと思っている。



その重りとはエゴです。


エゴが決して悪いものとか、


エゴをなくしてしまおうとか、


エゴがなくなる、といったものではなく、


エゴという重りに支配されて生きているから苦悩、

苦悶するのです。


その重りを手放すことができたら、どんなに人生は軽く、

解放感に満ちたものになるでしょう。


どんなに軽やかに人生を歩んでいくことができるでしょう。



重りを手放すには、まずその重りが「自分」ではないこと

に気づくことです。



目覚めの体験をしたからといって、その重りが一気に

なくなるわけではありません。



アジャが言っていました。


目覚めは目覚めの中で成熟していくもの、と。






アジャのリトリート

テーマ:

アジャシャンティの7日間サイレントリトリート

に参加してきました。

本当にすばらしかったです。


Ah ha!

そうっか、そういうことか!

という気づきがたくさんありました。


真理の太陽を覆い隠していた曇りがまた少し

ずつ晴れてきました。


彼の教えは、本当に奥深く、実に幅広い。




私の中に浸透した教えは、また追々ブログの

中でも書いていくと思います。


彼の場合、ダライラマやインドの山奥にいた賢者

とは違い、アメリカの中産階級のごくごく普通の

家庭に生まれ育ち、まさに「隣のお兄ちゃんだった

のに」という表現がぴったりの人物です。


だからこそ、彼の教えには、私たちの日常生活や

普通の人生から来る馴染み深いたとえ話や彼自身

の実際のエピソードが多く使われていて、そして、

「普通の人が、いつでも目覚めることができるんだよ」

と、わかりやすく真理を説いてくれています。


因みに、アジャが瞑想している姿を目の前で見ました

が、まさしくこんな感じでした。(これは文殊菩薩。)


あくまで私の主観的な見解ですが、彼の覚醒度は

仏陀に肩を並べると言っても過言ではないと思えます。

私が目にした彼の瞑想姿は本当に仏陀でした。



ところで・・・


アジャシャンティの本が出ました。


http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%81%AA%E6%82%9F%E3%82%8A%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%AE%9F%E8%B7%B5%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89-%E8%A6%9A%E9%86%92%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3/dp/4864511209/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1400987132&sr=8-1&keywords=%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93


本の中で、「これはどういうこと?」という疑問が

あれば、私の理解の範囲で返答しますので、

コメントをください。

蟻さん、ごめんなさい

テーマ:

今日は、スピリチュアルメッセージをひと休み

して、我が家の日常の一コマ・・・



数週間前、台所にゾロゾロ這っている蟻を発見。

殺生は気が引けるので、濡れティッシュで気絶状態(?)

にさせて、台所のふた付きゴミ箱へ。


夫は、半殺しにする方が拷問だ、苦しまないように(?)、

一気に殺す方が蟻のためだと言ったが。。。


でも、また息を吹き返し、ゴミ箱の中を這い上がってくる

蟻を見ると、次からは

「ごめんなさい」と、やっぱり死んでいただく。。。


でも、連日のことで、次から次へとキリがなく、数も増えて

いくので、ついに「蟻退治」を購入。


うちの中にさえ入ってこなければ、外で自由に暮らして

もらっててもいいので、蟻が嫌がる臭いか何かを入手

したかったのだけど、


お店で聞くと、蟻は巣ごと退治しなければ、絶対に戻って

来る、とのこと。


で、蟻を引き寄せ、それを巣に持ち帰ると巣が全滅すると

いう薬を購入。


薬を置くや、そのニセモノの食べ物に蟻の黒だかり。

ゾロゾロ、ゾロゾロ。


すると、べランダのガラス戸から、台所に向かって、蟻の

行列ができているのを発見。


わ~、まさに蟻の道だ!


何も知らない蟻たちは、その薬に群がっている。


蟻も一生懸命生きている。

一生懸命、存続しようとがんばってる。

毒だと知らずに、その「食べ物」を巣に持ち帰っているのだ。


ちょっと心が痛んだけど、やっぱり蟻と台所を共用する

ことはできない。


翌朝、全く蟻の存在はなく、

その日以来、蟻の姿は全くなし。


巣ごと壊滅したもよう。


心が痛んだので、ベランダに向かって、お線香をあげ、

お経をあげた。



この世の生きとし生けるものすべて、皆それぞれ存続する

ために一生懸命生きているんだと、改めて思った。