3月21日の街頭署名を終えて | そうちゃん日記 

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聡太郎は生後10ヶ月で拡張型心筋症と突然診断されました。
海外での心臓移植手術を目指した日々。しかし、移植手術を受ける事は出来ませんでした。
経験しなければ伝えられないことがあることを感じ、聡太郎の残した何かを伝えられたらと思います。

今日は、沢山の方に署名の応援をして頂きました。


彩ちゃんのママも来てくれました!!

ブログで応援してくれている方やママさんもべビちゃんを連れて来てくれました!

総勢10人となりました。まだ、日陰は寒い中、ありがとうございました。


そして署名ですが、初日は持ち込み含めて150名でしたが、本日は持ち込み含めて440名となりました。

本当に、皆様ありがとうございます。



「そうちゃん知ってますよ。」


「昨日のニュース見ました。」(TV神奈川さん、ありがとうございます。)


「いっきちゃんの募金に行きたいんですけど、その前に署名します。」


「日本で責任もたなきゃね。」


などの声を聞かせて頂きました。



私は、街頭募金に立ったことも数少なく、あまり声とか出せないでいました。

でも、さくちゃんの訃報にふっ切れた自分がいました。(でも、まだ小声ですが・・・。)

さくちゃんも、できるなら日本で救って欲しかったのでは・・・と思います。


「子ども達のために~」と、訴えながら子連れで通りすぎていく家族を見ながら、私は誰のために・・・。

と、思います。

拡張型心筋症は誰がいくつで発症するかは分からない病気です。

また、子ども達の意思は、言葉のコミュニケーションで確認することは出来ない年齢や状況があります。

確かに、移植医療が素晴らしい医療なのかと考えた時に「はい」とは、言いません。

実際に移植医療に関わっている先生方も、移植医療が完全なる医療だとは言いません。

私もそう思います。


でも、実際に自分の子どもが移植でしか助かる可能性がないと分かった時の気持ちは、全く異なりました。

きっと、移植に疑問を持つ医療従事者でも心臓移植後の拒絶をコントロール出来ている元気な子どもに出会ったら、考えが変わることもあるでしょう。これは、考えではなく感情の問題なのかも知れません。


私は、どうしても医学は人の命を助けるために進化してきた、今も人の命を助けるために進化しているのだと思っています。

なので、助けられる技術も管理能力もあるのに、助けられないというのが自分の中で消化できません。

しかも、年齢で・・・。


今回、ある新聞社の記者さんと話をしていて、新しい価値観を学びました。

記者さんに『自分の「死」は誰のものだと思いますか?』という質問をしたときのことです。

記者さんはハッキリ「自分のものです。臓器も自分の財産です。」と、威厳を持って答えて下さいました。


私が『自分の「死」はだれのものか・・』と考えた時、私にとっては遺された家族のもの。だと答えます。

死の世界観は分かりません。だからこそ、私は自分の知っている「生きる」という現実において、遺された家族が生きていくためには、家族にとって最善なる状況を望みます。

家族が私の臓器を提供することを選択し、誰かの中に息づく私を感じ、救われるのならそれでいいと思います。

もちろん、私は意思表示カードを持っているので、家族に自分の遺志も伝えていますが、最期は家族の決断だと思っています。

その先に、自分の遺志と反して、臓器が提供されなくても、遺された家族にとっての生きていくための決断なら仕方ないと思います。


多くの方に出会い、様々な意見を教えて頂き、何が問題なのか・・・と、考えた時に、移植で救える命の前に、法の下での権利の平等を求めます。


海外に行けば助けられるからいい。とか、臓器売買の問題を無視するこも出来ません。

自国の問題として、日本の中で解決する努力をするべきではないでしょうか。



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横浜の桜の木です。

さくちゃん、まだ、蕾でした。



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これはバラですが、さくちゃんのイメージだと思いました。


今日は、何を見てもさくちゃんを想って過ごしました。


さくちゃんの写真が私にはないので、そうちゃんを・・・。
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お呼びですか~!!

そうちゃんですぶーぶー