「ちから」
今回は、「そうちゃんの会・スタッフ編」をアップしようと思っていました。
しかし、支えてくださった皆様の顔を思いながら書き進めているうちに、想いがいっぱいになってしまって、書いては消しての繰り返し…。
そのような状況で、なかなかブログの更新が出来ないでいたところ、「さくちゃんを救う会」を知りました。
すぐにブログでご紹介出来ないほど、気持ちが揺れました。
「そうちゃんの会」も「さくちゃんを救う会」もたくさんの想いが到来してしまって、言葉にならないのです。
私は多くの方々の支えがあって、助けられて来ました。
では、私はどうしていくか・・・。
そして、お母様の気持ちが痛いほどに分かります。
そうちゃんと同じ生後10ヶ月・・・。
他にもお子さんが同じ拡張型心筋症で募金活動を検討されているご家族の方々もいて。
本当に、まだまだ多くの病気を抱えているお子さんとご家族の方がいらっしゃいます。
臓器移植法案が施行されて見直しがされないまま、WHOは自国の臓器は自国でと訴え、日本は立ち遅れたままの現状です。
愛する子どもに海外での移植が必要と言われて、「しません」と、言えるでしょうか。
愛する子どもが脳死といわれる状況になった時に、「移植のために脳死を認めますか」と言われて、「はい」と言えるでしょうか。
多くの方々が国のシステムや法律の問題の下で苦しんでいらっしゃいます。
脳死が人の死なのか、死でないのか。
そのことが置き去りにされて、移植のときにだけ脳死を「死」として認めているのは選択の自由というのでしょうか。
当たり前ですが、心臓死に選択の自由はありえないです。
移植を選択するか・しないか。臓器を提供するか・しないか、そこには選択の自由はあるべきです。
しかし、移植のために人の「死」を残された遺族が最期に決めるなんて、残酷すぎると思います。
私は、聡太郎の死が医師の判断のもとで宣告された「死」であったからこそ聡太郎の死を受け入れました。
聡太郎に生きていて欲しい、また聡太郎によって他の子の命が助かり聡太郎と共に生きていけるのなら、角膜でも何でも提供して次の「生」を生きて欲しいと思いました。
しかし、聡太郎の「生」か「死」を選択できるなら、絶対に「生」を選択します。どんな状況にあってでもです。
思ったことを思ったまま書くということは、無責任な側面もあるので、きちんと整理してからお伝えしたいと思ってきました。でも、今、思っていることを伝えたいとも思いました。
この気持ちをきちんと整理して、改めてご報告出来るように致します。
私個人の力は微力でも、繋がっていけば大きな力になることを聡太郎は教えてくれました。
2月6日晴天。夏君、お天気もみんなみんな夏君のこと応援してるよ。JALの方々のサポートは素晴らしいです。
安心して同じ空の下、夏君と夏君のママを見送ります。
めいちゃんももう少し。ここからの道のりは、人工心臓とお別れするための時間です。
心配がたくさんあっても、めいちゃんとみんなが頑張ってきた日々が笑顔に変わる日になります。
敬助君。まだお会いした事はありませんが、横浜から応援しています。
ドイツに渡航して、帰ってきたら九州で逢いましょう。その日を待っています。
さくちゃん。
さくちゃんの笑顔が全てです。
その笑顔でママもパパも頑張れます。他の物なんて何もいらないからって、パパもママも思っているはず。
さくちゃん。さくちゃんのペースでいいから毎日を過ごそうね。
今年はさくちゃんのために満開の桜が咲くんだよ。
移植が終わったら、頑張ってなんて誰も言わないから、もう少しだけ、頑張ってって言わせてね。
ボクは遊びに夢中だよ。
ママもマイペースなら、そうちゃんもマイペース。
そうちゃん。大好きよ。