「賛否」
移植について賛否両論あると思います。
きっと移植だけでなく、どんなことにでも賛否はあるでしょう。
しかし、私に出来る事は、実際の当事者としての立場から意見を述べることだと思いました。
私に移植が必要となったなら、どうしていくか。
脳死でも心臓死でも臓器提供をしたいと考えています。
では、提供を待つ立場になっていたらどうだったか・・・。
移植(どの臓器移植か、適合率や副作用など)の問題もありますが、
私に子どもがいなかったら、基本的に移植は望まないと思います。
しかし、子どもを生み子どもが幼ければ幼いほど、
成長を見守りたいと考えて希望することも考えられます。
状況や環境によって人の気持ちは変化する側面があるのだと思います。
では、子どもに対しての移植について考えたとき、
私たちが最初から移植に対してまっしぐらに突き進んで来た訳ではありませんでした。
親の自己満足の為の医療であってはならないと思いましたし、
どんな状況でも苦しく痛い思いをするのは聡太郎であり、
私たちに痛みや苦しみを代わってあげられる術はないからです。
では、なぜ移植に進んだか。
1歳になるかならないかの子どもに心臓移植が必要だと言われた時に
日本では子どもの移植はできない。
でも、
海外では移植ができる。
海外で移植を受けられた方もいました。
そして、移植をされて元気な姿のお子さんに会ったときの感動。
移植が出来ないままでは、死を受け入れなくてはいけない。
でも、生きられる可能性があるのならば、助けたい。
子どもは生きるために生命を授かって来たはずだと思ったからです。
また、救える、助けられる道があるのに、「もう頑張らなくていいんだよ・・・」だなんて、
頑張って生きている聡太郎に言えませんでした。
同時にドキュメント番組で、ある女性が難病と向き合い、語った言葉がありました。
「死なないための医療ではなく、生きていくための医療を受けたい。」
生きるために努力する姿は、私の心を揺さぶりました。
聡太郎に対しても生きるための医療を選択したい、親が逃げてはいけないと思いました。
人が生きる事も医療の進歩も、きれい事ばかりではないのだと思います。
私が経験して感じることの出来たことは、
心臓移植を必要とする子どもの母親であったこと。
心臓移植を海外で受けるための日々があったこと。
子どもが心臓死したときに、臓器提供をしてその先で子どもに生きていて欲しいと思ったこと。
なので、私が意見を書くときには、
どうしても、年齢に関係なく子どもにも移植を受けさせて頂きたいと思う気持ちが強くなります。
今の日本の臓器移植法では子どもに移植が必要な病気になった時には、その命は諦めなさいと言われているのと同じだということです。医学は命や健康を守り・促進するために進歩してきたのに、救える医療技術がありながら救えないなんて。
そしてこれから、アメリカやドイツで受け入れて頂けなくなったときに、「日本の法律だから仕方がない。」と、なるのでしょうか?
日本は世界保健機構(WHO)の加盟国ですが、2008年5月2日臓器取引と移植ツーリズムに関するイスタンブール宣言がなされました。http://www.asas.or.jp/jst/pdf/istanblu_summit200806.pdf
読む方の立場によっても受け止め方やポイントとする箇所も異なるのかも知れません。
しかし、一部を抜粋すると、
・国や地域は、自国あるいは近隣の協力の基に、臓器を必要とする者のために必要な数の臓器を確保し、臓器提供の自給自足を達成するための努力をすべきである。
・国外患者への治療は、それによって自国民が受ける移植医療の機会が減少しない場合にのみ許容される。
と、宣言されています。
どの国においても移植臓器の不足は深刻な問題です。アメリカもドイツもです。
今後、国外患者への許容は難しくなるばかりではないでしょうか。
まだまだ私には脳死や他の問題について触れるだけの知識や感性が及んでいないと思います。
なので、下記のサイトを見ていただければと思います。
移植についての問題や現状が動画で見られるようになっています。
移植情報アーカイブ