若き血に燃ゆる者 | 愚亭主と愚かな人たち

愚亭主と愚かな人たち

真面目にふざけた毎日を

松本慶太郎が死んだ。

9月上旬、赴任先のマレーシアでの感電事故だった。奥さんも一緒に亡くなり、生後半年の坊や1人が残されるという信じられない出来事だった。新聞にも載った。

通夜から1ヶ月以上が経ち、ようやく私も信じられない気分から徐々に現実を受け入れられるようになった。故人のことをこんなところに書くべきことではないのは重々承知である。それでも書いておきたい気持ちが強い。

大学の同窓だった。私も30数年生きてきて、自分の親戚縁者や昔の恩師が亡くなった、というケースはあった。ばあちゃんも今春に亡くなった。人間が生きている限り別れがあることは頭ではもちろん理解しているつもりだ。
だが同じクラスの、それも「顔を知っている」程度ではなく、いつもつるんでいたグループの1人、しかも付き合いが卒業後も続いている親友といえるレベルだと話はまったく別になる。私の携帯には今でもメールの送受信履歴が残っている。

95年4月、大学で同じクラスになって最初の友人だった。床が軋む日吉のボロ教室でいつも一緒だった。クラスの最初のコンパでは私が幹事で慶太郎が会計だった。
席順が前後で、恒例のカンニング仲間だった。彼と友人になって、初めて受験勉強から解放されて大学に入った達成感を感じたのがつい先日のように感じる。

本来なら、だれかの通夜の場で私が「感電死って…あっけないにも程があるだろ」と不謹慎な軽口を叩いて「そうだよな」と応じてくるのがあいつの役どころだったはずだ。
その慶太郎がもういない。
あまりに衝撃が強すぎて、遺影を見ても遺児を見てもまったく涙が出なかった。悲しくもなかった。正しい表現かはわからないが頭が真っ白と言うのはあんな状態を言うのだろう。

99年の春、三田の正門前で偶然会って、就職の話をした。お互いに「頑張れよ」のような声をかけたと思う。その後、慶太郎は海外に赴任した。誰よりも母校愛があって、赴任先でもゴルフの早慶戦があることを楽しそうに話していた奴だった。
結婚したのもつい最近、今年になっての長男誕生だった。私も先輩愚亭主として、まさにこれからいろいろと先輩風を吹かそうと思っていた矢先だった。

遺志を受け継ぐとか、あいつの分まで、とはちょっと違うような気がする。ただ、昔の記憶が遠のいた。あの頃は私の半生でも最高に良い時代だった。慶太郎は無念だろうが、私はあの時代を慶太郎と共有できたことは幸せだったと思っている。

過去形で思い出を書くことがこんなに辛いとは思わなかった。
口では「さっさと死にやがってあの野郎」と言えるが、どうしても笑顔にならない。

あいつが愛した早慶戦が週末に迫った。どんな顔で神宮に行くか、少し迷っている。